封延之

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封 延之(ほう えんし、487年 - 540年)は、中国北魏末から東魏にかけての軍人は祖業。本貫渤海郡蓨県封隆之の弟[1][2][3]

経歴[編集]

封回の子として生まれた。正光末年、員外散騎侍郎を初任とした。永安2年(529年)、仮の征虜将軍となり、渤海郡事を代行した。永安3年(530年)、中堅将軍・散騎侍郎の位を受けた[4]中興元年(531年)、高歓の下で大行台右丞となり、平南将軍・済州刺史に任じられた。太昌元年(532年)、征東将軍・大丞相司馬に任じられた。永熙2年(533年)、衛大将軍・左光禄大夫となり、郟城県子に封じられた[5]天平元年(534年)、都督として婁昭の下で樊子鵠を討ち、乱が平定されると、青州刺史に任じられた。延之は利殖を好み、青州において多くの賄賂を受け取った。後に晋州事を代行した。天平4年(537年)、高歓が沙苑の戦いで敗戦すると、延之は晋州を放棄して北に逃れた。高歓は激怒して、同罪の者はみな死んだが、延之ひとり死を免かれた[1][2][3]興和2年(540年)6月24日、晋陽で死去した[5]。享年は54。使持節・都督冀殷瀛三州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・司徒・冀州刺史の位を追贈された。は文恭といった[1][2][3]541年10月23日、広楽郷新安里に葬られた[5]

妻子[編集]

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  • 長女(盧景柔の妻)
  • 次女(李仁舒の妻)
  • 三女(祖長雄の妻)
  • 四女(崔叔胤の妻)[6]

封氏墓群[編集]

1948年河北省景県で封氏家族墓群が発掘され、封延之と封延之の妻の崔長暉の墓誌が発見された[6]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 氣賀澤 2021, p. 308.
  2. ^ a b c d 北斉書 1972, p. 307.
  3. ^ a b c d 北史 1974, p. 897.
  4. ^ 趙 2008, p. 344.
  5. ^ a b c 趙 2008, p. 345.
  6. ^ a b c d 羅新 & 葉煒 2005, p. 397.

伝記資料[編集]

  • 北斉書』巻21 列伝第13
  • 北史』巻24 列伝第12
  • 魏故侍中司徒尚書左僕射封公墓誌銘(封延之墓誌)
  • 封氏崔夫人墓誌銘(崔長暉墓誌)

参考文献[編集]

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0 
  • 羅新; 葉煒『新出魏晋南北朝墓誌疏証』中華書局、2005年。ISBN 7-101-04320-8