寿司

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トロ握り寿司巻き寿司鉄火巻

寿司(すし、鮨、鮓[注釈 1])と呼ばれる食品は、酢飯と主に魚介類を組み合わせた日本料理である。

大別すると、生鮮魚介を用いた「早鮨(早ずし)」と、魚介類に米を加えて乳酸発酵させた「なれ鮨(なれずし)」に区分される。

そのなかでも代表的な寿司は前者の握り寿司江戸前寿司)であり、英語圏では“sushi”で通じる料理となっている。

(詳細は、各々「江戸前寿司」「なれずし」を参照)

語源説

「すし」は京都では朝廷へ献上することを考慮し「寿司」と書き、江戸では「鮨」、大坂では「鮓」の字が使用される[1]。『延喜式』の中に年魚鮓、阿米魚鮓などの字が見える。「すし」の語源は江戸時代中期に編まれた『日本釈名』や『東雅』の、その味が酸っぱいから「酸し(すし)」であるとした説が有力とされている。

種類

現在は握り寿司が代表的であるが、弁当などではそれ以外の押し寿司、ちらし寿司、巻き寿司、稲荷寿司、なれ寿司が多く使われる。

握り寿司

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握り寿司

握り鮨は小さな寿司飯の塊に具を載せてにぎったものである。飯と具の間にわさびをいれる。てづかみ、あるいは箸を用いて、必要が有ればしょうゆを付けて食べる。寿司としての歴史は浅く、江戸時代に江戸で考案された。

巻き寿司

巻き寿司

巻き寿司は、具と酢飯を海苔で細長く巻いた寿司。巻き簾の上に半分に切った海苔を広げ、酢飯と具を載せて巻いたものである。かんぴょうの巻き寿司が好んで食べられ、これを海苔巻きと称した。その後、太さも具も様々な物ができた。

稲荷寿司

稲荷寿司
助六寿司

稲荷寿司の語源は、油揚げが稲荷信仰に関わりの深い狐の好物であることに由来する(このため「狐寿司」と呼ぶ地方もある)。『守貞謾稿』によると、「油揚げの一方を裂いて袋状にし、木茸、カンピョウなどを刻みいれた酢飯を詰めたすしを、天保の末年から(江戸市中に)売り巡る。店売りは天保前からあり、最も賤価なすし。名古屋には以前からあり、稲荷ずしまたは篠田ずしという」とある。『天言筆記』(明治成立)には飯や豆腐ガラ(オカラ)などを詰めてワサビ醤油で食べるとあり、「はなはだ下直(低価格)」ともある。『近世商売尽狂歌合』(1852年)の挿絵には、今日では見られない細長い稲荷寿司を、切り売りする屋台の様子が描かれている。

現代の稲荷寿司は袋状に開いた油揚げを煮付け、中に酢飯のみを詰める場合と、酢飯にニンジン椎茸ゴマなどを混ぜ込んで詰める場合とがあり、後者を「五目稲荷」と呼ぶこともある。岐阜県あたりを境に、東は四角、西は三角と、地域によって形が分かれる。いずれも印籠寿司の範疇内に分類される寿司である。

また、稲荷寿司と巻き寿司を詰め合せたものを助六という。これは「揚げ」と「巻き」で揚巻(歌舞伎『助六』に登場する花魁の名)という洒落である。

ちらし寿司

ちらし寿司

生魚や玉子焼き(刺身や握り寿司の種)などを、酢飯の上にちらして飾り載せしたもの。具を散らして作ることから「ちらし」と呼ばれる。

江戸前寿司店のちらし寿司(握り寿司用の生魚を含む寿司種を酢飯の上に並べる)、北海道の生ちらしなどがある。

五目寿司・ばら寿司

関西スーパーマーケットで売られているばら寿司

五目寿司は、家庭で作られる機会も多く、祭礼などハレの日の手作り料理として供されることが多い。細かく切った魚介類、野菜などの具を酢飯に混ぜ混み、彩りにしょうが、錦糸玉子を飾る[2]。具にはさらに干椎茸の煮つけ・かんぴょう・酢蓮根・海老・焼穴子等がよく用いられる。

関西ではこれをちらし寿司、ごもくずし、かやくずしと言う[3]。江戸前のちらし寿司をも食する地域では、五目ちらし寿司と呼び区別する。

三重県手こね寿司は、具を混ぜた後、更に切り身を乗せることがある。また、岡山県のばら寿司も酢飯に具を混ぜた上に具材を乗せる形である。

店舗・家庭により好みの具が使用され、地方により果物(リンゴミカンサクランボ等)を入れる場合もある。

なれずし

なれずし(馴れ寿司、熟寿司)は魚に塩と飯を混ぜて長期間保存し乳酸菌の作用によって発酵させたもの。元々は魚だけを塩蔵して自然発酵させていたが、16世紀前後に発酵を促進させるために飯を加えるようになったという[注釈 2]。元は長期間発酵させた後に半ば融解した飯を取り除き、酸味のついた魚の部分だけを食べる形態であったが、発酵が進んで酸味が付いてはいてもまだ飯粒が原型を留めた熟成途中のものを「なまなれ」または「なまなり」と呼んで、魚だけでなく周囲の飯も一緒に食べることもあった。滋賀県鮒寿司がこの原型に一番近いものであり、他には和歌山県熟寿司鮎鮨)、秋田県のハタハタ寿司などがある。なれずしが変化したものが押し寿司である。

押し寿司

押し寿司に使用する調理器具

酢飯と具を重ね、力をかけて押した早寿司[4]。箱寿司が元となっており、江戸時代に出来た握り寿司の原型[5]鯖寿司である大阪府バッテラ京都府の鯖の棒寿司、富山県鱒寿司鰺の押し寿司秋刀魚寿司鳥取県吾左衛門寿司広島県角寿司山口県岩国寿司長崎県大村寿司など。江戸ではこの押し寿司ではなく握り寿司が発展し、二つの文化に分かれていった。

地方の寿司

各地で食べられる寿司には様々な種類があり、何れの地域以外ではあまり見られないものも多い。

伊達巻寿司

伊達巻寿司は、千葉県銚子市および大阪府などの郷土料理である。伊達巻の中に高野豆腐椎茸おぼろかんぴょうなどとともに酢飯を巻き込んだ寿司だが、具や飯の分量は地方によって異なる。明治初期、銚子の「大久保」の職人が細工寿司として考案したとの由来がある[6]

島寿司

島寿司東京都伊豆諸島及び小笠原諸島郷土料理である。具材として島で捕れる魚を醤油漬にして使う。島で手に入りにくいわさびの代わりに唐辛子や洋がらしを使うなど、島の気候や食糧事情に合わせた製法で作られている。

柿の葉寿司

柿の葉寿司

柿の葉寿司は、の葉で巻いた寿司で、奈良県和歌山県石川県郷土料理である。尚、奈良・和歌山県の柿の葉寿司と石川県の柿の葉寿司は作り方・形状は異なる。

奈良では、塩漬けした柿の葉を主に用いている。元来は発酵させることが主流だったが、昨今は駅や空港等で売られている物については生産性を上げる為に味付けした寿司飯を用いて1 - 2日保管して出荷している物が多い。また、元来は塩漬けされた鯖のみを使っていたが、後に鮭・小鯛・穴子等も用いられるようになった。

めはり寿司

めはりずしは、同じく奈良県和歌山県(および三重県熊野地方)の郷土料理である。鯖の寿司と違い、酢飯(又は白米)をそのまま高菜の浅漬けの葉で巻き、おにぎりのように持ち運び用に適したものにした寿司。

鯖寿司

鯖寿司は、若狭地方・京都大阪・山陰地方、岡山県新見市の郷土料理である。新見市では「金棒寿司」「鯖包み」などとも呼ばれる。

長方形に固めた酢飯の上に塩鯖の半身をのせ、出汁昆布で全体をくるみ、巻き簾で形を整えた後、竹皮で包んだ物である。バッテラとは異なり、型に入れる作業がない。

冷蔵技術が発達する以前に、京都の場合は鯖街道を通り若狭地方から、岡山県新見の場合は山陰から運ばれる塩干物の塩鯖が貴重な海産物であり、この鯖を利用した寿司が定着した。山陰や若狭では焼いた鯖を乗せることもあり、特に出雲地方では江戸時代から「焼さば寿司」として日常的に食されていた。最近では、漁獲量や輸送手段の問題などから全国に流通していなかった、脂質が21%以上ある「八戸前沖鯖」(通称:とろ鯖)などを使用した「とろ鯖棒寿司」など、新しい鯖寿司も増えてきている。

ふなずし

なれずしは寿司の原形とされているが、その中でも滋賀県鮒寿司は日本に現存する唯一の「ほんなれ」[注釈 3]として有名である。石川県かぶら寿司北海道飯寿司のようにを加えることもある。食べ慣れない内は独特の腐敗臭が嫌われるが、魚肉のタンパク質がうまみ成分であるアミノ酸へ分解されるため、一旦慣れると病みつきになるほど美味であるとされる[7]。このふなずしが変化したものが「押しずし」となる。

大阪寿司

大阪寿司は、江戸前寿司(にぎり寿司・早ずし)に対して、押しずしを指す。近畿の郷土寿司となっている場合が多い。大阪寿司は箱寿司(押し寿司)、酢締めの押し寿司バッテラを表していたが、その後には、ばら寿司(五目寿司)、巻き寿司等も含まれるようになり、にぎり寿司以外を指す言葉となっていった。

バッテラ
語源はポルトガル語のbateira(バテイラ=小舟・ボート)から[8]1893年(明治26年)頃に大阪順慶町の寿司店がコノシロの片身を開き舟形にした物を使った寿司を考案し、その姿がボートに似ていたことからバッテラと呼ばれるようになった。その後コノシロの価格が急騰したため鯖を使うようになり現在のバッテラが完成された、現在のバッテラは酢飯に酢締めにしたを乗せ、さらに白板昆布バッテラ昆布)を重ねた押し寿司。酢による処理で保存性を高めつつ生臭みを押さえ、昆布が旨みと食感を加える。鯖の半身を使うため完成品は細長い形となり、切り分けて食べる。また、押し寿司の舟形の木枠用具がボートの形に似ていたのでこのように呼ばれるようになったとの説もある。
松前寿司
松前寿司とは、鯖の棒ずしを北前船で大阪に集められた北海道産の昆布で巻いた物で、元は大阪で昆布巻き寿司等と呼ばれていた物を、1912年(明治45年)に寿司店「丸万」が松前寿司と名付け登録商標として売り出したことで広がり、その後「丸万」が登録を: 取り下げたため一般的な名称として定着した、現在の昆布で巻くタイプの鯖寿司の源流となったといわれている。
巻き寿司
関西ではかつて細巻が不在であったため、単に巻き寿司といえば一般的に「太巻」を指す[9]。甘みをもたらす具として高野豆腐椎茸の煮しめを用い、田麩おぼろはあまり使われない。そのため他の地方のものと比べ、ほんのりとした甘みと食べ応えがある。瀬戸内の特産である焼穴子が使用されることが多いのも特徴である。
茶巾寿司
椎茸やニンジンなどの入った五目酢飯を、茶巾状に薄焼き卵で包んでカンピョウで結び、小エビをトッピングした寿司。

温ずし

ぬくずし、又は蒸しずしと呼ばれる近畿以西、中国、四国地方に伝わる温かいバラ寿司のこと。同地方共通の方言「ぬくい」は「温かい」の意味でこの方言が通用する地方の冬季限定メニュー。バラ寿司の酢飯に焼き穴子、海老、白身魚、錦糸卵、絹さや、銀杏、桜でんぶ等を色鮮やかに盛り付け、蒸籠で蒸して食べる。発祥は大阪(または京都)とされ明治時代からあるが、手間の掛かる割に利益が少ないためかメニューから外された地域が多い。現在は大阪市京都市岡山市尾道市松山市などの寿司屋で郷土料理として12月から3月頃まで食べられる。どんぶりに盛り付け蓋をして蒸籠で蒸す店と一人前の蒸籠に盛り付けて蒸す店がある。

ばら寿司

岡山県の郷土料理である。酢飯に干瓢などの具材を混ぜ合わせた上に錦糸玉子をまぶし、さらに大きめに切った多用な具材を乗せる。岡山県内でも地方によって具材は様々である。

酒寿司

酒寿司鹿児島県の郷土料理である。塩・酒を合わせた飯と、エビ、イカ、錦糸卵などの具とをすし桶に交互に数段詰め、中蓋をかぶせ、数時間重石をする。寿司と称しているが酒飯であり、饗応には注意が求められる。

歴史

寿司の起源

中尾佐助著『栽培植物と農耕の起源』(1966年(昭和41年))では「ラオスの山地民やボルネオの焼畑民族」の焼畑農耕文化複合の一つとされている。(篠田統 1970)『すしの本』は、東南アジアの山地民の魚肉保存食を寿司の起源と挙げ、高地ゆえ頻繁に入手が困難な魚を、長期保存する手段として発達したものとしている。(石毛直道 & ケネス・ラドル 1990)『魚醤とナレズシの研究 モンスーン・アジアの食事文化』では、東北タイミャンマーあたりの平野部を挙げ、水田地帯で稲作と共に成立した魚介類の保存方法が後に伝わったとしている。

中国で「鮨」の字は紀元前5 - 3世紀に成立した辞典『爾雅』に登場する。「魚はこれを鮨という。肉はこれを醢という」[注釈 4]と対比され、鮨は魚の塩辛と篠田は解釈している[10][注釈 5]後漢の『説文解字』に「鮺は魚の蔵(貯蔵形態)」であるとし、䰼と鮺は同じとする一方、鮨は魚の䏽醬(塩辛)だとして区別した[11][12]。鮺がどのような保存食かは不明だが、10世紀の徐鍇の注は「今俗に鮓に作る」としており[注釈 6]、これをもって「鮓」の濫觴と言える。2世紀末成立の『釈名』で鮓は「葅。塩と米で葅のように醸し、熟してから食べる」とされている。葅は漬物のことである[13]。しかし、3世紀頃に編まれた『広雅』は鮨は鮓なりとして区別せず、東晋の郭璞による『爾雅注』も同じである[14]。篠田はさまざまな記録から「鮓」が中国の古い時代にはあまりポピュラーな食べ物ではなかったことを示し、「南方を起源とする外来食」、つまり東南アジアから伝わったものと位置付けている[15]

日本における文献初見は『養老令』(718年)の「賦役令」で、鰒(アワビ)鮓、貽貝(イガイ)鮓のほかに雑鮨が見える[16]。『令義解』はこれに「鮨また鮓なり」と注解しており[17]、以後も日本では鮨と鮓が区別されず、ともにすしとされた[18]。「正税帳」(729年-749年)にも見える。篠田統、石毛直道らによると、これは外から来たものであり、稲作文化とともに中国は長江あたりから九州に伝わったのではないか、とみている。「鮓」の読みは『新選字鏡』(899年-901年)で「酒志」、「鮨」の読みは『倭名類聚抄』(931年-938年)に「須之」とされている[7]

日本の寿司

平安時代の『延喜式』(927年)「主計式」には諸国からの貢納品が記されており、鮓・鮨の語を多く見出だすことができる。九州北部、四国北部、近畿、中部地区に多く、関東以北には見られないのが特徴的。当時の詳しい製法を知る資料には乏しいが、魚(または肉)を塩と飯で漬け込み熟成させ、食べるときには飯を除いて食べるなれ寿司「ホンナレ」の寿司と考えられている。

室町時代の『蜷川親元日記』(1473年-1486年)に「生成(ナマナレ)」という寿司が登場する。(ちなみに「ホンナレ」は、ナマナレに対して後世に作られた造語。)発酵を浅く止め、これまで除かれていた飯も共に食した寿司のことである。現代に残るホンナレは、ほぼ滋賀県の「ふなずし」に限られる(ただ、熊野地方には「本馴れ鮓」と称するヨーグルト状の鮓がある)が、ナマナレは日本各地に郷土料理として残っている。ナマナレが現代に多く残った理由として、発酵時間が短く、早く食べられることが挙げられようが、日比野光敏著『すしの貌』では「米を捨ててしまうのがもったいない」という感覚もあったのではないかと指摘している[7]

時代が下るとともに酒や酒粕、糀を使用したりと、寿司の発酵を早めるため様々な方法が用いられ即製化に向かう。そして1600年代からは酢を用いた例が散見されるようになる。岡本保孝著『難波江』に、「松本善甫という医者が延宝年間(1673年-1680年)に酢を用いたすしを発明し、それを松本ずしという」とあるが、日比野光敏によれば「松本ずし」に関する資料は他になく、延宝以前の料理書にも酢を使った寿司があるゆえ「発明者であるとは考えられない」としている。誰が発明したかはともかく、寿司に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、いよいよ発酵を待たずに酢で酸味を得て食する寿司、「早寿司」が誕生することになる。

握り寿司(江戸前寿司)の誕生

浮世絵に描かれた寿司(歌川広重・江戸後期)


「妖術と いう身で握る 鮓の飯」『柳多留』(1827年作句、1829年(文政12年)刊)が、握り寿司の初出文献である。握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎ともいわれる。

江戸前(江戸の前=現在の東京湾)の魚介類と海苔を使用する江戸前寿司は、江戸中の屋台で売られるようになった。

戦後の寿司

第二次世界大戦直後、厳しい食料統制のさなか、1947年(昭和22年)飲食営業緊急措置令が施行され、寿司店は表立って営業できなくなった。東京では寿司店の組合の有志が交渉に立ち上がり、1合の米と握り寿司10個(巻き寿司なら4本)を交換する委託加工として、正式に営業を認めさせることができた。近畿をはじめ全国でこれに倣ったため、全国で寿司店といえば江戸前ずし一色となってしまった。当時を知る職人は、「あらかじめダミーの米を入れる袋を用意して店頭に置き、取り締まりを逃れて営業したこともある」と述べている。

戦後の高度成長期になると、衛生上の理由からすでに屋台店は廃止され、廉価な店もあるにはあるものの、寿司屋は高級な料理屋の部類に落ち着いた。1960年代から1970年代にかけて、サラリーマンを題材とした漫画では、夜遅くまで外で飲み歩く亭主が、妻の機嫌を取るために寿司の折り詰めを買って帰るという姿が描かれることもしばしばあった。

安価な寿司

回転寿司、持ち帰り寿司
1958年(昭和33年)に大阪で回転寿司店「廻る元禄ずし」が開店し、廉価な持ち帰り寿司店「京樽」や「小僧ずし」も開業。1980年(昭和55年)頃には日本各地に普及し、寿司は家族で訪れるような庶民性も取り戻していった。
宅配寿司
主にフランチャイズでアルバイトを使用し、電話注文を受けて注文元へ届けるスタイルの宅配専門寿司店。持ち帰り寿司店も行っている場合がある。

世界の「sushi」へ

長い鎖国が解かれ、明治になると移民として南米へ、北米へと渡る者も多く、各地で日本人コミュニティが生まれた。アメリカ合衆国で最初の日本料理店「大和屋」がサンフランシスコに開店したのが1887年。ロサンゼルスでは、後にリトル東京と呼ばれる地域に日本食レストラン「見晴亭」が1893年開店し、1903年に蕎麦屋、1905年には天ぷら屋、そして1906年には寿司屋が開店する。戦前のリトル東京の日本料理店は、主に最大数万人規模のコミュニティにまで膨れ上がった日系人のための食堂であった。しかし、第二次世界大戦でアメリカ合衆国と敵対国になったことにより、日系人コミュニティは強制収容という形で衰退してしまう。

アボカド・サーモンを「裏巻」したカリフォルニアロールのバリエーション

戦後のリトル東京の寿司屋は、しばらく1930年代に創業した稲荷寿司と巻き寿司、型抜きした酢飯に魚を乗せただけの寿司を提供する店一軒のみであった。1962年にガラスのネタケースが海を渡り、老舗日本料理店「川福」の一角に本格的なカウンターを設えた「sushi bar」[注釈 7]ができ、続いて「栄菊」、カリフォルニアロール発祥の店となる「東京会館」も、1965年にネタケースを設えて「sushi bar」は3軒となった。当初は寿司を食べる白人はほとんどいなかったが、1970年代に入ると徐々に白人社会にも受け入れられ、1970年代後半には寿司ブームともいわれるほどに成長していった。「すしバー」では江戸前寿司だけでなく、各店で独自にアレンジした料理も提供され、欧米では「すしバー」の名称が正統派の寿司店や寿司レストランを含む総称になりつつあるとも言われている[19]

生の魚や海苔にあった抵抗感を覆してブームといわれるまでになったのは、寿司は低脂肪で健康的な食べ物というイメージが定着したことの他、カウンターをはさんで職人と対面して注文するという形式の面白さが挙げられる[要出典]。客は、なじみの職人の前に陣取りあれこれと注文して、バーカクテルを注文するがごとく自分だけの特別な寿司を楽しみ、職人も、握り寿司より巻き寿司の方がバラエティがつけやすいため、これに応じて次々に新しい寿司を考案していった[要出典]。寿司に魅せられたユダヤ人弁護士が職人を引き抜いて寿司屋を開き、顔の利くハリウッドの有名俳優たちが夜毎訪れて話題になったのもブームを後押しし、寿司屋の常連「寿司通」になることはステータス・シンボルとなった[要出典]

ロサンゼルスで火のついた寿司ブームは、その後日本の経済的進出も相まって、アメリカを中心とする世界各地に急速に広まった。1983年には、ニューヨークの寿司店「初花(はつはな)」が、ニューヨーク・タイムス紙のレストラン評で最高の4ッ星を獲得しており[20]、この頃までには高級フランス料理店に並ぶ評価を得る寿司店が出現するまでにイメージが転換していたことが窺える。現在、「スシ」はテリヤキ天ぷらと並ぶ日本食を代表する食品になっており、日本国外の日本食レストランの多くでは寿司がメニューに含まれている。特に北米では人気があり、大都市では勿論、地方都市のスーパーマーケットですら寿司が売られていることが珍しくない。

世界各地のスシ・レストランには韓国人など日本人以外の経営・調理によるものが増加し、日本人による寿司店の割合は10パーセント以下とまで言われるほど減少している[21]。そのため、日本の伝統的な寿司の調理法から大きく飛躍(あるいは逸脱)した調理法の料理までもが「スシ」として販売されるようになった。酢をあわせていない飯に魚や中国料理を乗せて「スシ」だと称するところまである(日本国外における寿司職人養成の一端に付いては、前述の項目「#職人 (しょくにん)」を参照)。このような現状から日本の農林水産省は「正しい日本食を理解してもらうための日本食の評価」を日本国外の日本食店に行う計画を打ち出したが、欧米の一部には、これを新しい食文化の誕生を疎外するものであると批判的に見る向きもあった。日本でも、アメリカの新聞・ワシントン・ポスト紙が2006年12月24日付け記事[1]で用いた「スシ・ポリス(Sushi Police、スシ警察)がやってくる!」との表現が過大に取り上げられた。このような反応を受けて農水省は認証制度の導入を止め、和食の国際的普及を目指す特定非営利活動法人(NPO)の「日本食レストラン海外普及推進機構(JRO)」が民間の立場から推奨店を決定する方式を取ることとした[22]

経済発展目覚しいロシアでも寿司ブームが起こり、富裕層を中心に愛好家が増えている。日本人が寿司文化を世界に広めたために、今度は寿司ネタが世界市場で高騰すると言う現象が起きている。

販売・消費形態

販売

寿司は鮨屋回転寿司などの店内で料理として出される。寿司屋は出前を行なうこともある。

スーパーマーケットデパートの地下の惣菜コーナーでは詰め合わせや握り寿司2つ程度の小さなパックなどが売られる。弁当販売店の形式で、持ち帰り用寿司を売るチェーン店もある。巻き寿司、ちらし寿司はしばしば家庭でも作られる。

かつての江戸では露天での販売も盛んで日本国内に広がった程であったが、衛生上の理由から屋台での寿司等生魚を使用した食品の販売は昭和初期までにその多くが規制されている。なお、韓国タイには近年寿司を扱う屋台が現れた。

勘定

会計は一つ一つの寿司に値段が掲示されていない場合が多い(回転寿司屋などを除く)。これは寿司ネタが時価の影響を受けるからである[注釈 8]。一方、佐川芳枝「寿司屋のかみさんうちあけ話」(講談社 1995年5月)の「高くてびっくり安くてびっくり」にて、寿司の職人でも他の店に行けば値段が分からないこと、どんぶり勘定で客を見て値段を決めている店があることが書かれている。また、同じネタでも客を見て切る部位を変えるので値段も違うという主張も載せられている。日本の法律では商品の内容とサービスまた価格を偽ることが違法とされており、値段を店員へ尋ねることができる。

衛生

握り寿司は、人間の手で腐敗しやすい生鮮魚介類と酢飯を握る工程を行うものであり、その過程で雑菌が付着することは避けられない。従って、夏期においては握ったものをすぐ食べることが望ましい。米やネタに匂いが移る危険性があるので、臭いを発する強力な洗剤や殺菌薬等で手を洗うことは避け、寿司職人は用を足した後丁寧に手洗いに努めているケースがある。また、酢(酢酸)には殺菌の効果がある。客によっては職人がカウンターから離れ戻ってきたときは、しばらく注文を差し控えるなど気にする人もいるが、どちらにしてもこれは想像力の問題で、実際に衛生上の問題があって寿司が安全ではないと言った大きな事件は日本において発生してはいない。

日本国外では、手で握る作業を不潔なものと見なし職人が薄いゴム手袋やビニール手袋を嵌めることを求める規則がある場合があるが、日本においては魚介を生食する料理の調理を素手で行うことは家庭でも行われているごく一般的な手法であるうえ、職人の微妙な手指の感覚を阻害するものであると見なされ、そのような習慣はない。ただし日本国内でもスーパーなどで持ち帰りの寿司を作る場合や、回転寿司店で手袋を着用していることがある。昨今では、世界的な日本食ブームのおかげもあり、日本人以外のいわゆる「通」を自称する人々の間でも、「素手で握る寿司が一番」という風潮がある。これは単に伝統にこだわっているだけではなく、特に西洋人の間では「日本の寿司職人は、素手で握っても食中毒を起こさない衛生的で清潔な職人」という西洋人独特のイメージを持っている人もいる。

寿司関連の作品

文学

ドラマ

漫画

楽曲

古典芸能

  • 義経千本桜(追っ手を逃れ寿司屋となった平維盛が「弥助(のちに寿司の符丁となる)」と名乗る)

映画

画像

注釈

  1. ^ 吉野(1971)ではこれ以外にも、酢、寿し、寿斗、壽司などの表記を挙げている。
  2. ^ (永瀬牙之輔 1983)『すし通』、(宮尾しげを 1960)『すし物語』。しかし、この記述は、『釈名』以来諸々の文献で米で醸すとされていること、国内の文献「延喜式」内膳司にある米を使うと言う記述と矛盾する。米を使わないすしについては、「すしあはび」(黒川道祐「遠碧軒記」)、「宇治丸」や「釣瓶ずし」(永瀬牙之輔著『すし通』)が述べられている。「宇治丸」のすしや「釣瓶ずし」は、飯を入れるとしている文献もある((篠田統 1970)『すしの本』)。趣旨が不明瞭だが、「鮓の飯は辻の犬も食わず」と言う記述もある(九二軒鱗長「和国小姓気質」1720年)。
  3. ^ 「ほんなれ」は平安・鎌倉時代からある「なまなれ」という言葉に対して近代に作られた言葉である。
  4. ^ 実際の記述は、「肉謂之敗,魚謂之餒,肉曰脫之,魚曰斮之,冰脂也,肉謂之羹,魚謂之鮨,肉謂之醢,有骨者謂之臡。肉魚肉魚と順に説明している文の中にあるので、魚の羹(米の入ったスープ)であるかのようにも見えるが、現在のところ魚の醢と解釈されている(狩谷棭斎「箋注倭名類聚抄」)。醢は後代の『説文解字』、また『周礼注疏』では麹と塩と酒で漬けたものとされている。魚の調理法についての詳細は載せられていない。「塩辛」が魚と塩だけで作られたものと考えるのは、想像まで。
  5. ^ ここで言う「塩辛」は篠田統の説にあるデンプン質を用いないもののこと。『釈名』の米を使うと言う説明との対比だが、爾雅の鮨にデンプン質を使わなかったと言うのは篠田統説で、根拠が示されておらず、爾雅にも記載されていない。
  6. ^ 张舜徽・撰 編(中国語)『説文解字約注』 下、中州书画社出版、1983年、35-36頁。OCLC 11235810 日本で9世紀末に編まれた『新撰字鏡』も、鮓の異字として䰼、鮺などを挙げる。(篠田統 1966, p. 134)は「鮓は鮺の俗字」という部分を『説文解字』のものとして引用しているが、それは本文ではなく段玉裁説文解字注』の注である。
  7. ^ 「sushi bar」の「bar」とは横に長いもの、つまり、この場合は「寿司を出すカウンター」という意味(転じて「寿司屋」や「寿司を出す店」そのものも指す)Weblio英和辞典・和英辞典「sushi bar」で、アルコール飲料を注文する必要はなく、未成年でも座れる。
  8. ^ 女性連の客は高くふっ掛けられると言う都市伝説がある。

出典

  1. ^ 京のいっぴん物語 」第75回 ハレの日に欠かせない 京の寿司、KBS京都、2008年。
  2. ^ 五目寿司とちらし寿司の違いって何?
  3. ^ 大辞泉小学館)。
  4. ^ 江戸時代中頃に登場した「押し寿司」
  5. ^ お寿司屋さんの歩き方 寿司の歴史
  6. ^ 銚子名物・伊達巻
  7. ^ a b c 日比野光敏『すしの事典』(初版)東京堂出版、2001年5月25日。ISBN 4-490-10577-0OCLC 48771646 
  8. ^ 京樽HP「知って美味しいバッテラのお話」
  9. ^ 山本山 3.関西と関東では巻き寿司に使う海苔に関してなにか違いはありますか?
  10. ^ 篠田統 1966, p. 132.
  11. ^ 蔵克和 著、王平・校訂 編(中国語)『説文解字新訂』中華書局、2002年、773頁。ISBN 7101036007OCLC 52180056 
  12. ^ 篠田統 1966, p. 134.
  13. ^ 篠田統 1966, p. 135.
  14. ^ 篠田統 1966, p. 138.
  15. ^ 篠田統 1966, pp. 132–138.
  16. ^ 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫・校注『律令』(日本思想大系新装版、岩波書店、1994年(平成6年)。初版1976年(昭和51年))250頁。
  17. ^ 黒板勝美校訂『令義解』(新訂増補国史大系普及版、吉川弘文館、1968年(昭和43年)。初版1939年(昭和14年))115頁。
  18. ^ 櫻井信也「日本古代の鮨(鮓)」『続日本紀研究』第339号、2002年。 
  19. ^ 2006年産経web海外で急増、定着する「すしバー」
  20. ^ JAY McINERNEY (2007年6月10日). “Sushi Books by Trevor Corson and Sasha Issenberg - Books - Review”. ニューヨーク・タイムス. http://www.nytimes.com/2007/06/10/books/review/McInerney-t.html?ex=1339128000%20&%20en=8610061c0b815d90%20&%20ei=5088%20&%20partner=rssnyt%20&%20emc=rss 2012年11月26日閲覧。 
  21. ^ 2006年12月17日Jcastニュース「すしポリス」に米国猛反発 火付け役は中国、韓国人?
  22. ^ “海外の日本食レストラン推奨ガイドラインを策定”. 産経新聞. (2008年1月29日). http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080129/trd0801291806007-n1.htm 
  23. ^ 岡本かの子「鮨」青空文庫
  24. ^ DEAD SUSHI - Official Site 『デッド寿司』
  25. ^ 寿司が人間を襲う映画「デッド寿司」、予告編が海外ユーザーに大受け? - アメーバニュース

参考文献

  • 二村隆夫・監修 編『丸善単位の辞典』丸善、2002年3月。ISBN 978-4621049891 
  • 篠田統『すしの本』柴田書店、1970年。OCLC 37797780 
  • 吉野昇雄「すしの事典」『近代食堂』、旭屋出版、1971年3月。 
  • 山川正光『絵でみるモノの数え方辞典―ことば百科』誠文堂新光社、2004年10月。ISBN 978-4416804438 
  • 宮尾しげを『すし物語』井上書房、1960年。OCLC 33614002 
  • 篠田統『すしの話』駸々堂出版、1978年7月。OCLC 674250959 
  • 吉野昇雄『鮓・鮨・すし―すしの事典』旭屋出版、1990年。ISBN 978-4751100387OCLC 23970902 
  • ケネス・ラドル『魚醤とナレズシの研究 : モンスーン・アジアの食事文化』岩波書店、1990年。ISBN 4000027212OCLC 674434560 
  • 長崎福三『江戸前の味』成山堂書店、2000年12月。ISBN 4-425-82921-2 
  • 木下謙次郎続々美味求真』中央公論社、1940年。 
  • 柳多留』1829年。 
  • 内田栄一『浅草寿司屋ばなし-弁天山美家古-』筑摩書房、1990年8月。ISBN 4-480-02456-5 
  • 内田栄一『江戸前の鮨-浅草弁天山「美家古寿司」四代目-』晶文社、1989年4月。ISBN 4-7949-5803-X 
  • 浅見安彦、橋本常隆『すし調理師入門』柴田書店、1970年。OCLC 703790997 
  • 佳藤木一整編『すし技術教科書(江戸前ずし編)』旭屋出版、1975年。OCLC 703791318 
  • 永瀬牙之輔、平野雅彰『すし通』東京書房社〈日本食文化体系13〉、1983年。OCLC 11187676 
  • 中山幹『すしの美味しい話』社会思想社、1996年11月。ISBN 4-390-60413-9 
  • 為後喜光『特選おすし113 : 家庭の味』家の光協会、1992年3月。ISBN 4-259-53705-9 

関連文献

関連項目

外部リンク

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