寺平忠輔

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寺平 忠輔(てらだいら ただすけ、1901年明治34年)- 1968年昭和43年)[1]3月10日)は、日本陸軍軍人、最終階級は中佐北平[注釈 1]特務機関補佐官として盧溝橋事件発生深夜から事件不拡大に尽力した。大東亜戦争復員後は、盧溝橋事件解明に生涯を捧げた。没後の1970年7月、著書『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』が発刊。事件渦中の人物が直接記した詳細な手記であると共に、戦後聴取した関係者の証言が加筆され、盧溝橋事件の日本側の第一級資料として、今日に至るまで研究が重ねられている。

来歴・人物[編集]

1901年(明治34年)、静岡県出身[2]静岡県立静岡中学校を経て[3]1923年大正12年)、陸軍士官学校35期)卒業後、陸軍委託学生として1928年昭和3年)、東京外国語学校に入学、3年間支那語を修めた[2]1931年(昭和6年)、陸軍省勤務[2]1932年(昭和7年)、支那駐屯軍司令部付、1936年(昭和11年)[注釈 2][注釈 3]、北平特務機関補佐官となり[2][注釈 4]1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件に際会、事件の不拡大と北京を戦火から守るために尽力した[2]1939年(昭和14年)、支那派遣軍総司令部付[2]1941年(昭和16年)、第11軍司令部付(漢口)として対支長期持久戦で建設諸工作を推進[2]1944年(昭和19年)、岡村寧次大将のもとに柳桂作戦を実施、ついで岡部直三郎大将のもとに穀倉湖南の治安維持にあたり、1945年(昭和20年)敗戦を迎えた[2]。復員後は『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』の執筆推敲に心血を注ぎ、完成間もない1968年(昭和43年)早春、病死[2]

著書[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 寺平 忠輔 - Webcat Plus”. webcatplus.nii.ac.jp. 2022年11月4日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』カバー
  3. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 51頁。
  4. ^ 『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』p34
  5. ^ 『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』p87
  6. ^ 『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』p47
  7. ^ 『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』p20

注釈[編集]

  1. ^ 北京の名称について 昭和3年、国民革命軍北伐戦が完成した時、蒋介石は首都を南京にさだめ、同時に、一つの国に南京と北京、二つの都があるのは不吉だという見地から、北伐平定に因んで6月20日、北京を改めて北平(ペイピン)とした。直隷省河北省と変わったり、中央公園が中山公園と呼ばれるようになったのも、皆この時である。昭和12年秋、江朝宗を首班とする北京特別市政府が成立し、北平が再び元の北京にかえるまで、九年余り、この北平という名が通用していたわけである。盧溝橋事件はこの北平時代に起こっている。」ー『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』454ページ 付記
  2. ^ 二・二六事件発生時の所属について次のような会話が残っている。「1966年。某誌に掲載された「二・二六事件随想/三十年」を紹介しておく。筆者は末松太平である。『数年前 私は静岡の有志でいとなまれた二・二六事件慰霊祭に列席した。場所は清水鉄舟寺だった。慰霊祭のあとは歓談の席となった。…隣席にゐた寺平忠輔氏が私に述懐した。「私は当時佐倉の連隊にゐて反乱軍鎮圧のため出動したのだが、若し上から撃ち合ひを命ぜられても絶対に部下に射撃は命じないと、連隊の若い将校ののあいだで申し合せできてゐました」と。寺平氏は私より三期か四期後輩で、当時佐倉の連隊の中尉だった。盧溝橋事件の時は大尉で北支の特務機関補佐官をしてをり、拡大、不拡大で苦労したやうである。『毎日グラフ別冊・日本の戦争』の中に、停戦交渉に宛平県城内に乗り込むため、城壁を単身、縄をつたってよぢのぼっている寺平大尉の写真が載ってゐる。』」(ママ)ー末松太平事務所(息子の末松建比古)2015年8月15日記事(2022/11/6確認)。
  3. ^ ただし、ここで末松太平は寺平の年齢・陸士の期数を誤って認識している。末松太平は1905生まれ・陸士39期卒、一方、寺平は1901年生まれ・陸士35期卒で、寺平の方が年上かつ先輩。
  4. ^ 松室孝良北平特務機関長の後任として松井太久郎が発令された。寺平は「私は内地でこの人事異動を知った」と記したのち、続けて「翌12年(1937年)3月、機関補佐官、浜田弘少佐が…転出していった後、計らずも私がその後任として発令され、…大陸の土を踏むこととなった。」と述べており、寺平の機関補佐官任命は実際には1937年3月以降のことであり、それまでは内地にいたことを示している。ー『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』p34