富尾似船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
富尾 似船
ペンネーム 弥一郎(通称)、重隆(名)、芦月庵・似空軒2世・柳葉軒・似船(号)[1]
誕生 寛永6年(1629年
山城国京都
死没 宝永2年7月16日1705年9月3日
山城国京都醒ヶ井通七条下ル鎌屋町
墓地 東山大谷本廟
職業 俳人
言語 日本語
教育 荻野安静
活動期間 江戸時代前期
ジャンル 俳諧
文学活動 貞門派談林派
代表作 『安楽音』『堀河之水』
デビュー作 『芦花集』
活動期間 明暦2年(1656年) - 宝永2年(1705年)
親族 富尾嘯琴
テンプレートを表示

富尾 似船(とみお じせん、寛永6年(1629年) - 宝永2年7月16日1705年9月3日))は江戸時代前期の俳人荻野安静に師事して貞門派に属したが、延宝期に談林派に転じた。

経歴[編集]

寛永6年(1629年)生まれ[1]。早くは明暦2年(1656年)2月鶏冠井令徳編『崑山土塵集』に発句が入集する[2]。明暦3年(1657年)頃荻野安静に入門し、貞門派に属した[3]寛文5年(1665年)剃髪し[3]、同年歳旦から似船と号した[4]。寛文9年(1669年)安静が死去し、延宝2年(1674年)遺集『如意宝珠』を刊行した[5]

延宝3年(1675年)江戸から談林派誹諧が伝わると、同年菅野谷高政編『誹諧絵合』に百韻を入集させて関心を示し、延宝5年(1677年)『誹諧猿蓑』に至って完全に談林派に移行し、貞門派に留まった中島随流等による激しい批判に晒された[6]。延宝7年(1679年)車屋町通[7]元禄4年(1692年)五条通東洞院東入ル朝妻町[8]、次いで堀川通七条南(醒ヶ井通七条下ル[9])鎌屋町に転居した[10]。月に何度も法楽の会を催し、門弟以外からも歳旦発句を集めて板行料を徴収した[11]

宝永2年(1705年)7月16日77歳で死去し[12]大谷本廟に葬られた[1]

編著[編集]

  • 寛文5年(1665年)3月刊『芦花集』[13]
  • 延宝4年(1676年)3月刊『独吟大上戸』[14] - 散佚[3]
  • 延宝4年(1676年)3月記『石山寺入相鐘』[15]
    同年の石山寺観音開帳への道中記[16]。『仮名草子集成』第2巻収録。
  • 延宝5年(1677年)9月序『誹諧隠蓑』[17]
    安静追善のため『如意宝珠』の続編として刊行したが、内容は談林派への転向を反映し[18]、釈教語を多用する[19]。『隠笠』との2部構成だったが、現存しない[20]
  • 延宝7年(1679年)9月刊『火吹竹』 - 散佚[3]
  • 延宝9年(1681年)3月刊『安楽音』[21]
    序文・発句・付句・連句すべてに漢詩文調を盛り込むが[22]、表面的な語感により諧謔性を意図するに留まり、漢詩の持つ閑寂枯淡な境地を再現するには至っていない[23]
  • 元禄2年(1689年)4月刊『苗代水』[24][25]
  • 元禄4年(1691年)5月刊『勢多長橋』[26] - 『未刊雑俳資料』6期収録。
  • 元禄7年(1694年)5月刊『堀河之水』[27][28]
    自宅堀川通七条南鎌屋町近辺の名所の案内書。「七条御旅所」「田中の社」「瓜田夕照」「南里刈藍」「村路若草」「東寺の昏鐘」「七条商客」「堀河蛙声」「橋上秋月」(木津屋橋)「祇陀林藤」(歓喜寺)を「七条出屋敷十景」とする[10]。『京都叢書』第9、『新修京都叢書』第5巻収録。
  • 元禄10年(1697年)11月刊『千代正月集』[29] - 巻5のみ現存[3]

発句[編集]

和漢・仏教の故事に取材した衒学的な句が多い[3]

  • 『鄙諺集』「何を風の口ばしりてや夕時雨」
    風を擬人化し、夕時雨の原因を風が口走ったせいだとする[4]
  • 『崑山土塵集』「出て見よきもんつふす程比叡の雪」
    「肝を潰す」と比叡山の位置する「鬼門」との掛詞[4]
  • 『隠蓑』「むつごとや五十六億七夕まで」
    牛郎織女の睦言が56億7千年後の弥勒下生まで続くことを願う句。俗語と釈教語による非対称感を意図する[19]
  • 『安楽音』「粤(コヽニ)薬子嫦娥ツタヘテ五位六位」
    嫦娥の不老不死薬が正月の宮中行事伴御薬儀で薬子・五位蔵人六位蔵人に試飲されることを空想する[30]
  • 『安楽音』「屏風峙テリ是レ雛の世界桃ノ林」
    雛壇の情景を漢詩文調で誇大に表現する[31]

門人[編集]

  • 堀江林鴻[12]
  • 福田鞭石[12]
  • 佐藤有扇 - 号は桂花庵。享保15年(1730年)11月3日70歳で没。弟子に山県攀高、その弟子に山中梅応[12]
  • 舟露 - 有扇の徒弟[12]
  • 村山滴水 - 号は風流子[12]
  • 若江鉤軒 - 名は令之[12]

同時代の評価[編集]

延宝3年(1675年)菅野谷高政は『誹諧絵合』序文で似船を「法印都の図を模するが如し。さびしからずして双なし。」と評価する[14]

延宝7年(1679年)岡西惟中『近来俳諧風体抄』は談林派による漢語・釈教語の多用を批判し、似船の句「晴明やくろゝ砕て祈たり」「六賊のをしこみ不動なかする」「宋玉が一流うたふほとゝぎす」「評判の屈原からくりの月」「秋津洲の外にながれて灸の膿」「火々出見ノ尊銭湯にいる」を取り上げ、「たゞごとのみとりあつかふ俳諧は、一句力なく、たよ/\として、みるにたらず。」と酷評する[32]

中島随流は同年『誹諧破邪顕正』で、貞門時代の似船は「器用の口才」だったが、「天魔の入かはり」により「異風異形の島もの」になってしまったとし、「同腹中の狂者」と批判する[33]。延宝8年(1680年)『誹諧猿黐』では似船の漢詩文調を「唐人かと見れば平仄韻字の鎧もなし。又日本侍かとおもへばかぴたんひたゝれを着たり。」と揶揄している[11]。元禄5年(1692年)『貞徳永代記』でも堀江林鴻『京羽二重』に掲載された似船の句を批判し、同年弄松閣只丸『あしぞろへ』、元禄6年(1693年)林鴻『あらむつかし』が似船擁護の論陣を張った[34]

延宝7年(1679年)松江重頼『誹諧熊坂』は、「扨又都の其内におほき雀のとび体は、三条如泉四条の似船、ちう/\さへづる五句付の銭」として、五句付興行により点料で儲けていることを批判する[35]

元禄15年(1702年)室賀轍士編『花見車』は似船について、仏学・書に通じ、毎年歳旦の興行で名を知られるが、会合に顔を見せずに執筆に専念しているとして、「老女郎の巧者」に喩える[36]

親族[編集]

  • 父 - 貞享元年(1684年)8月12日没。似船は一周忌に「夢の父頃は芋うるむかしかな」と詠んだ[37]
  • 一族:富尾左兵衛嘯琴 - 版下筆工。似船の編著の多くも担当した。住所は新町通六条[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 雲英 1968, p. 15.
  2. ^ 雲英 1969, p. 40.
  3. ^ a b c d e f 雲英 1968, p. 16.
  4. ^ a b c 雲英 1968, p. 17.
  5. ^ 雲英 1967, p. 107.
  6. ^ 雲英 1968, p. 18.
  7. ^ 雲英 1969, p. 45.
  8. ^ 雲英 1969, p. 48.
  9. ^ 雲英 1969, p. 51.
  10. ^ a b 中西 2004.
  11. ^ a b 雲英 1968, p. 21.
  12. ^ a b c d e f g 誹家大系図.
  13. ^ 蘆花集. 巻第1-2 - 早稲田大学図書館
  14. ^ a b 雲英 1969, p. 43.
  15. ^ 石山寺入相鐘. 上,下 - 早稲田大学図書館(饗庭篁村旧蔵)
  16. ^ 小川 1978, p. 19.
  17. ^ 隠蓑. 巻上 - 早稲田大学図書館
  18. ^ 雲英 1967, pp. 107–108.
  19. ^ a b 雲英 1968, p. 19.
  20. ^ 雲英 1967, p. 106.
  21. ^ 安楽音』(所蔵:祐徳稲荷神社中川文庫) - 新日本古典籍総合データベース
  22. ^ 雲英 1971, p. 48.
  23. ^ 雲英 1971, pp. 48–49.
  24. ^ 苗代水. 巻1-3 - 早稲田大学図書館(雲英末雄旧蔵)
  25. ^ なはしろ水 五 - 石川県立図書館月明文庫
  26. ^ 勢多長橋 - 愛知県立大学図書館
  27. ^ 堀河之水. 巻1 - 早稲田大学図書館(雲英末雄旧蔵)
  28. ^ 堀河の水 - 愛知県立大学図書館
  29. ^ 千代の睦月. 春,夏,秋,冬部 - 早稲田大学図書館
  30. ^ 雲英 1968, p. 20.
  31. ^ 雲英 1971, p. 43.
  32. ^ 雲英 1969, p. 44.
  33. ^ 山崎藤吉「延宝時代談林派の概況」『芭蕉全伝』1903年http://www.bashouan.com/Database/Zenden/016.htm 
  34. ^ 雲英 1969, p. 49.
  35. ^ 雲英 1971, p. 44.
  36. ^ 雲英 1969, p. 50.
  37. ^ 雲英 1969, p. 46.

参考文献[編集]

  • 生川春明『誹家大系図』 下巻、好間亭、1838年http://opac1.aichi-pu.ac.jp/kicho/kohaisyo/books/027_506-507_1/102719970/102719970_0014.html 
  • 中村俊定, 雲英末雄「誹諧隠蓑巻上(翻刻・解説)」『国文学研究』第35号、早稲田大学国文学会、1967年、105-131頁、ISSN 03898636NAID 120005480524 
  • 雲英末雄「富尾似船の俳風」『連歌俳諧研究』第1968巻第35号、俳文学会、1968年9月、doi:10.11180/haibun1951.1968.35_15 
  • 雲英末雄「富尾似船年譜稿」『近世文藝』第16号、日本近世文学会、1969年6月、doi:10.20815/kinseibungei.16.0_40 
  • 雲英末雄「「安楽音」の俳諧史的位置--俳諧の漢詩文調を考える」『国文学研究』第45号、早稲田大学国文学会、1971年10月、40-49頁、ISSN 03898636NAID 120005480683 
  • 小川武彦「仮名草子資料「石山寺入相鐘」の解題と翻刻」『跡見学園女子大学紀要』第11号、跡見学園女子大学、1978年3月、p19-35、ISSN 03899543NAID 110004645424 
  • 中西弘「堀川今昔2」『京都域粋』第41号、エクセル、2004年8月30日。