冨士大石寺顕正会

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冨士大石寺顕正会
略称 顕正会
前身 妙信講
設立年 1942年
設立者 浅井甚兵衞
種類 宗教法人
法人番号 5011405000447
本部 日本の旗 日本 埼玉県さいたま市大宮区寿能町1-72-1
日本の旗 日本 東京都板橋区常盤台1-14-1(登記上)
公用語 日本語中国語繁体字(国際会館)
会長 浅井昭衞
代表役員 浅井城衞(登記上)
関連組織 顕正新聞社
ウェブサイト http://www.kenshokai.or.jp/
過去名 顕正寺顕正新聞社、日蓮正宗顕正会

冨士大石寺顕正会(ふじたいせきじけんしょうかい)は、日本の仏教宗教団体である。埼玉県さいたま市大宮区寿能町に本部を置き、公称会員数約191万2千人[1]を擁する。宗教法人法に基づく宗教法人であり、届出名称を顕正会。機関紙『顕正新聞』を発行する。

歴史[編集]

第二次世界大戦下の1942年(昭和17年)、日蓮正宗妙光寺東京都品川区)の総代だった浅井甚兵衞が初代講頭となり、妙光寺所属の法華講の一講中として結成した妙信講が前身。当時は戦時下のため折伏弘通は困難を極めたが、甚兵衞は事業経営のかたわら、寸暇を惜しんでは講員を励まし、弘通を進めた[2]

浅井親子らは妙光寺から豊島教会(現・妙国寺板橋区)へと所属変えを行い、その後に法道会(現・法道院。東京都豊島区池袋)へと所属を変えたが、住職の申入れを受け、法道会法華講と合併するため発展的に解散。

その後に法道会から離脱し、妙信講を発足する[3]が、やがて創価学会が中心となって寄進・建立した正本堂の教義上の位置づけをめぐり日蓮正宗・創価学会と激しく対立するようになる。

  • 1958年(昭和33年)
    • 1月15日 妙信講設立。大石寺第65世法主堀米日淳の配慮により宗門内では極めて異例の認証式が行われ[4]妙縁寺(東京都墨田区吾妻橋)所属となった。講頭に甚兵衞、青年部長に甚兵衞の長男である昭衞、松本日仁と早瀬道応(後の日慈、大石寺第68世法主早瀬日如の実父)が指導教師に就任。本部は当時、東京都文京区にあった甚兵衞の自宅に置かれた[5]
  • 1963年(昭和38年)
    • 10月31日 機関紙「顕正新聞」が日蓮正宗と創価学会からの圧力を受け、廃刊。これに代わる機関誌として月刊『富士』が創刊され、その編集長に昭衞が就任。
  • 1967年(昭和42年) 10月 正本堂発願式。席上、池田大作・創価学会会長は「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と宣言[6]
  • 1968年(昭和43年)1月 大石寺第66世法主細井日達が、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」と発言[7]
  • 1970年(昭和45年)
    • 3月25日 日蓮正宗の宗務役僧、及び創価学会首脳に対し、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を送付[8]
    • 4月3日 浅井父子が大石寺大奥の対面所で細井日達と対面。日達は、正本堂が日蓮大聖人の御遺命の戒壇ではないこと、御遺命の戒壇とは国立戒壇であることを認め、正本堂の誤りを訂正することを約束[9]
    • 5月29日 浅井父子が大石寺対面所で和泉覚・創価学会理事長及び秋谷栄之助副会長、森田一哉副会長と正本堂の意義につき論判。数日後、森田らは細井日達に対し、今後学会は「正本堂は御遺命の戒壇」「広布はすでに達成」とは言わない旨を誓約[10]
    • 9月11日 妙信講と創価学会との間で、「一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない」等と記載された「御報告」と題する書面を作成[11][12]
  • 1971年(昭和46年)11月15日 池田大作・創価学会会長に対し、「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」と題する書面を送付[13]
  • 1972年(昭和47年)
    • 4月28日 細井日達が、「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」との訓諭を発布[12]。妙信講は同日、池田会長に対し、正本堂の意義につき公場対決を申し入れる書状を送付[14]
    • 7月6日 浅井父子が妙縁寺で細井日達と対談。妙信講の申入れにより、日達は訓諭の内容を打ち消す解釈文を宗門機関誌「大日蓮」に掲載することを約束[15][16][12]
    • 7月19日 細井日達が大石寺において浅井父子に訓諭の訂正文を交付。日達は昭衞の指摘を受けて文言を数ヵ所修正し、「大日蓮」8月号に掲載することを約束。しかし、日達は後日、学会の働きかけを受け、この約束を取り消した[16][17][18]
    • 9月13日 浅井父子(主に昭衞)が学会代表の秋谷、教学部長・原島嵩、山崎との間で、宗門末寺常泉寺において、同月28日まで計7回にわたり、正本堂の意義につき論判。その結果、秋谷らは正本堂の意義を訂正する文を聖教新聞に掲載することを約束[16][19][12]
    • 10月1日 正本堂完工式。宗門・学会はこの席にキリスト教神父数名を来賓として参列させた[20]
    • 10月3日 創価学会が聖教新聞(同日付)紙上に正本堂の意義を訂正する文を掲載。「現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂は、なお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである」等[16][21]
    • 10月12日 正本堂落慶法要。池田は聖教新聞(10月3日付)掲載の訂正文に反し、参列した全学会員に対し、副会長・福島源次郎を通して、「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」とのメッセージを伝えさせた[16][22]
  • 1973年(昭和48年)
    • 5月 久々に総本山大石寺への登山を願い出たところ、宗務院の早瀬総監より、「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の御意向である」との返事があった[23]
    • 7月15日 顕正新聞が復刊。
    • 12月22日 東京都板橋区常盤台に会館が完成。本部も甚兵衞宅から移転。
  • 1974年(昭和49年)
    • 5月19日 妙信講第16回総会を開催。席上、昭衞は、「御遺命守護のご奉公未だ終わらず。徹底してその悪を断ち、法のため、国のため、国立戒壇を宗門の公論とせねばならぬ。師子王の心を取り出し、国立戒壇への怨嫉をこの際徹底して打ち砕き、さらに政府への詐わりの回答も断じて訂正せしめる」等と述べた[23]
    • 5月24日 学会の秋谷副会長に「公開討論申し入れ書」を手渡す。秋谷は10日後、公開討論を許否する旨を書面で返答。以後、「国立戒壇の正義を全学会員に教える以外にない」として、「御遺命守護」を特集した顕正新聞(第18号)を全国で配布[23]
    • 7月28日 明治公園で「立正安国野外集会」開催。3,000人が参加し、「八月十五日までに、国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答[24]を撤回せよ。さもなければ妙信講が政府に対し訂正をする」旨の池田宛ての「決議文」を決議。理事を通じて学会本部に直接届けた[23]
    • 8月12日 宗門管長の日達より講中解散処分を受ける。宣告書の処分理由には、「右妙信講は数年来、『国立戒壇の名称を使用しない』旨の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱え・・・」と記載されていた[25]
    • 10月4日 男子部員12人が創価学会本部で「牙城会」のメンバーと乱闘したとして、警視庁機動隊現行犯逮捕された。事件に至るまでの一連の経緯は、後に学会総専門部長山崎正友を中心とした創価学会側の秘密工作に妙信講男子部が乗せられたものと判明するが、和泉理事長は鎮圧直後の声明で妙信講を「狂信的過激派」と激しく非難。一方の妙信講も昭衞が「抗議活動自体を捏造された」と反論。
    • 11月4日、講頭・甚兵衞、理事長・昭衞(いずれも当時の役職名)、幹部と男子部員ら33名が、創価学会本部を襲撃したとして日蓮正宗から信徒除名処分にされる。
  • 1975年(昭和50年)
    • 8月20日 甚兵衞が講頭を退き、第2代講頭に昭衞が就任。
  • 1977年(昭和52年)
    • 4月14日 創価学会との法廷闘争で、東京地方裁判所において和解が成立。和解の内容は、①今後、妙信講の本部会館の御本尊の返還を求めないこと、②今後、「日蓮正宗妙信講」と書かれた本部会館の看板撤去を求めないこと、③新しい寺院(顕正寺)を妙信講のために立てること、の3つを条件として、創価学会からの訴え取下げに同意する、というもの。昭衞は同月26日の総幹部会において「まさに事実上の全面勝利である」と述べた[26]
  • 1978年(昭和53年)
    • 3月5日 埼玉県和光市に顕正寺を建立、落慶入仏式を行う。住職に八木直道が就き、昭衞が導師を務める。
    • 9月14日 東京都生活文化局管理法人課の認証を受け、宗教法人「顕正寺顕正新聞社」(けんしょうじけんしょうしんぶんしゃ)設立。昭衞が会長に就任[27]
  • 1982年(昭和57年)
  • 1985年(昭和60年)
    • 四者体制(男子部、女子部、婦人部、壮年部)となる。
  • 1986年(昭和61年)
    • 4月 再び日本武道館で大総会開催。
  • 1990年(平成2年)
    • 4月27日 顕正会20万達成を背景として、大石寺第67世法主・阿部日顕に対し、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する一書を送付[28]
    • 7月8日 横浜アリーナで2万人の大総会を開催。席上、昭衞は、「もし池田大作が本門寺改称を強行するならば、そのとき全顕正会員はこぞって大石寺に総登山しよう。二十万顕正会の全員が戒壇の大後本尊様の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋めつくし、信心の力を以て本門寺改称を断固粉砕しようではないか」と述べた[29]。  
    • 10月12日 大石寺開創七百年慶讃大法要。席上、阿部日顕は、「大本門寺の寺号公称は、事の戒法の本義更に未来に於て一天四海に光被せらるべき妙法流布の力作因縁に依るべし」と発言[30]。この発言を受けて、昭衞は同月の総幹部会において、「ここに本門寺改称の陰謀は、御本仏日蓮大聖人の御威徳と、大聖人に忠誠を誓い奉る顕正会の捨身の決意により、ついに粉砕された」と述べた[30]
  • 1992年(平成4年)
    • 11月 阿部日顕に対し、「直ちに戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉るべし。御遷座こそ誑惑の完全なる清算である」等と記した諌暁書を送付[31]
  • 1993年(平成5年)
  • 1996年(平成8年)
    • 11月18日 文部省(現・文部科学省。実務は文化庁文化部宗務課が担当)から認証を受け、改めて宗教法人「顕正会」が発足。登記簿上は、「顕正寺顕正新聞社」が名称変更した形となる。
    • 12月22日 総幹部会で「日蓮正宗顕正会」の名称を「冨士大石寺顕正会」に改めると発表。
  • 1997年(平成9年)
    • 7月16日 第1回一国諌暁開始。諫暁書「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」を発行。発刊にあたり、日本の主な新聞51紙に全面広告を打つが、朝日新聞東京本社広告局は受け付けなかった。この書籍は、顕正会員によって広く全国に配布された[32]
  • 1998年(平成10年)
    • 4月5日 本門戒壇の大御本尊が正本堂から元の奉安殿に御遷座[33]
    • 4月10日 日蓮正宗が正本堂解体を決め、大御本尊を遷座したのを受けて、本部会館で「御遺命守護完結奉告式」を行う。昭衞は御宝前において、「大聖人様-。本門戒壇の大御本尊が恐れ多くも誑惑不浄の正本堂に居えられ奉ってより今日まで、実に二十六年の長き歳月が流れました。しかるところ、嗚呼ついに、本年4月5日の午後四時、大御本尊は、清浄なる奉安殿に還御遊ばされました」と言上[33]
    • 6月15日 顕正新聞で「御観念文の改正」を発表。新しい勤行要典が会員に配布される。
    • 7月 正本堂が撤去される[34][35]
    • 9月2日 東京有楽町東京国際フォーラムで『「還御を祝し奉る」記念大会』を行う。7500人が参加。
  • 1999年(平成11年)
    • 12月 埼玉県大宮市(現・さいたま市大宮区)に「青年会館」を開設。
  • 2000年(平成12年)
    • 11月8日 本部をさいたま市大宮区に新築、移転。
  • 2003年(平成15年)
    • 5月 顕正寺を改築し、「冨士大石寺顕正会典礼院」を建立。
    • 11月6日 公称会員数が100万人に達する[34]。これをもって2度目の一国諫暁の準備が本格的に始まる。
  • 2004年(平成16年)
    • 4月28日 第2回一国諌暁開始。諌暁書第2弾「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」を発行。新聞広告を全国5紙(読売朝日毎日日経産経)に打とうとするが、全社に拒否される。顕正会側は「学会の圧力があったのであろう」と主張。この書籍は、顕正会員によって全国に約1500万部配布された[36]
    • 5月16日 パシフィコ横浜国立大ホールで初の「全国高校生大会」を開催。多数の高校生が参集した。
  • 2005年(平成17年)
    • 3月25日 昭衞が阿部日顕に対し、公場対決を求める書面を送付。この書面には「勝負決着後の責務」として、「小生が敗れた時は、直ちに顕正会を解散する。貴殿が敗れた時は、直ちに御開扉を中止し、貴殿は猊座を退き謹慎する。」と記されていた[37]
    • 4月2日 対決申入書に対し、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」名義で、「対決など受け入れるべき道理はない」旨の回答書が届いた[37]
    • 4月27日 昭衞が阿部日顕に対し、重ねて対決申入書を送付[37]
    • 5月4日 「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」名義で、再び対決を拒否する旨の回答書が届いた[37]
    • 5月8日 朱鷺メッセで「新潟県大会」を開催。1万人が参加。
    • 8月28日 昭衞が阿部日顕に対し、「対決を逃避した阿部日顕管長に『最後に申すべき事』」と題する一書を送付。同書中、「これが小生の最後の諫めである。・・・以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ慎んで御本仏日蓮大聖人に言上し奉り、御裁断を仰ぎ奉るのみである」と記し、重ねて不敬の御開扉中止と日顕の退座謹慎を迫る[37]
    • 9月4日 横浜アリーナで「男子部幹部大会」開催。男子部員13000人が参加。
    • 11月7日 阿部日顕が大石寺で御開扉の導師を務めようとした際、須弥壇の大扉が開かず、御開扉が中止となる[37]
    • 12月15日 阿部日顕、退座。
  • 2006年(平成18年)
  • 2007年(平成19年)
  • 2008年(平成20年)
  • 2009年(平成21年)
    • 4月 沖縄県那覇市に沖縄会館を建設。
    • 8月23日 再び長野・エムウェーブで「男子部大会」を開催。3万人が参加。
  • 2010年(平成22年)
    • 1月 総幹部会で城衞が理事長に就任[38]
    • 4月 横浜市港北区に神奈川会館を建設。
  • 2011年(平成23年)
    • 1月25日 総幹部会で壮年部が廃止され、男子部に統合される。四者体制から三者体制となる。
    • 11月 公称会員数が150万人に達する[34]
  • 2012年(平成24年)
  • 2013年(平成25年)
    • 11月4日 さいたまスーパーアリーナにて女子部大会を開催。3万5000人が参加。
  • 2014年(平成26年) 
    • 1月1日 本部元旦勤行で昭衞がこの年を「国難元年」と銘打つと発言[39]。 
    • 9月7日 さいたまスーパーアリーナにて男子部大会を開催。5万人が参加。
    • 11月7日 第6代創価学会会長・原田稔が全国総県長会議において、学会の会則第2条の「教義条項」改正について説明し、その際、「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」と発言[40]。昭衞は、同月の総幹部会において、この会則変更及び原田会長の発言につき、「これぞ極限の大謗法、無間地獄の業因」と述べ、学会員に対し、「早く悪師を捨て、成仏の叶う大道念に立て」と訴えた。
  • 2015年(平成27年)
    • 1月5日 この日付の顕正新聞に昭衞が「国難二年」と題する年頭の辞を発表。
    • 1月25日 この日付の顕正新聞を「学会を救う特集号」と銘打ち発刊、以後、創価学会員に広く配布。
    • 11月3日 宮城県利府町セキスイハイムスーパーアリーナにて「南東北大会」開催。1万2千余名が参加[41]
  • 2016年(平成28年)
    • 1月5日 この日付の顕正新聞に昭衞が「国難三年」と題する年頭の辞を発表。また「学会を救う特集号Ⅱ」[42]と銘打つ。
    • 9月25日 「別府国際コンベンションセンター」にて「九州大会」開催。1万1千余名が参加[43]
    • 12月4日 神戸ワールド記念ホールにて「近畿大会」開催。1万1千余名が参加[44]
  • 2017年(平成29年)
    • 1月5日 この日付の顕正新聞に昭衞が「国難四年」と題する年頭の辞を発表。
    • 4月9日 静岡県袋井市エコパアリーナにて「中部大会」開催。1万余人が参加[45]

教義[編集]

  • 日蓮大聖人を末法下種の本仏と崇敬し、大聖人出世の本懐たる弘安二年の「本門戒壇の大御本尊」を帰命依止の本尊とし、血脈付法の二祖日興上人を末法下種の僧宝と仰ぎ、日蓮大聖人の御遺命たる広宣流布国立戒壇建立を成就して、真の日本国安泰および世界平和を顕現することを目的としている。
  • 「国立戒壇」とは、日蓮大聖人が門下に御遺命された「本門の戒壇」を指す。この「本門の戒壇」建立こそ、本門戒壇の大御本尊の妙用により、日本を仏国とする唯一の秘術であり、日蓮大聖人の唯一つの御遺命であると主張する[46](後述)。

仏法の実践[編集]

  • 「末法の仏道修行は勤行折伏に尽きる」とされている。勤行とは御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る修行であり(自行ともいう)、これを人に勧めるのが折伏である(化他ともいう)[47]
  • 勤行の実践、即ち日蓮大聖人の仏法上の御名である「南無妙法蓮華経」 を、「お慕わしい」「有難い」との恋慕渇仰の信心で唱え奉ることで、直ちに体である御本尊・日蓮大聖人に通じ、凡夫が御本尊・日蓮大聖人と一体になり、仏にならせて頂ける。心法も変わり、宿命も変わることで、現世には幸せになり、臨終には成仏の相を現じ、後生も守られると説く[47]
  • 顕正会員は、朝夕の勤行に於いて、自宅より大石寺に安置されている戒壇の大御本尊を遥拝する勤行(遥拝勤行)に徹しているのも大きな特徴である。「遥拝勤行」とは、冨士大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を、わが家より遥かに拝み参らせる勤行であり、その功徳は御本尊の御前で行う勤行と全く同じであるとされている[47][48]
  • また、折伏の実践により、日蓮大聖人の格別の御守護を頂き、御本仏の眷属としての生命力が湧き、過去の罪障が消滅すると説かれている[47]

国立戒壇と本門戒壇[編集]

「本門の戒壇」とはいかなる戒壇か、その建立の時・手続・場所は、日蓮大聖人が「三大秘法禀承事(三大秘法抄)」「一期弘法付嘱書」に明示したとしている。

「三大秘法抄」には、「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」 [49]という記述がある。また、「一期弘法付嘱書」には「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てられるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」[50]と記されている。

このように、御遺命の本門戒壇は、国家意志の表明を建立の必要手続とするゆえに、端的に「国立戒壇」と呼称されてきた[46]

日蓮正宗では、日蓮大聖人の御遺命を奉じて、この国家的に建立されるべき「本門の戒壇」の実現を700年来叫び続けてきた。以下、その一部を抜粋する[46]

二祖・日興:「広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山に立てられるべきなり」(富士一跡門徒存知事)
三十一世・日因:「国主此の法を持ち広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置する事、御遺状(注「一期弘法付嘱書」)の面に分明なり」
五十六世・大石日応:「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天生ヶ原と申す嚝々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって・・・」(御宝蔵説法本)
六十四世・水谷日昇:「国立戒壇の建立を待ちて六百七十四年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)
六十五世・堀米日淳:「大聖人は、広く此の妙法が受持されまして国家的に戒壇が建立せられる。その戒壇を本門戒壇と仰せられましたことは、三大秘法抄によって明白であります」(日蓮大聖人の教義)
六十六世・細井日達:「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」[51]

また、創価学会もかつては日蓮正宗の信徒団体であったため、「国立戒壇」を唯一の目的としていた。学会2代会長の戸田城聖は「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」[52]、3代会長の池田大作も「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります[53]と述べていた[46]

しかし池田は1965年(昭和40年)に「正本堂」建立を発願した後は正本堂が御遺命の戒壇であると主張するようになった[54][55][56]。また当時宗門側トップだった日達もこれに賛同し、正本堂が御遺命の戒壇に当たる旨を公表した[57][58][59]

これに対し、顕正会は富士門流系教団において唯一、日蓮の御遺命は「正本堂」ではなく「国立戒壇」であると主張し、学会・宗門を諫め続けているとの立場を取る[60]

「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」との主張について[編集]

  • 昭衞は「前代未聞の大闘諍」「他国来難」が迫っており、これを防ぐには広宣流布、国立戒壇建立以外にないと主張している。これは日蓮大聖人が『立正安国論』の中で仏法に背く罰として必ず「他国侵逼難」[61]が起こること、及び同論奥書に「未来亦然るべきか」[62]と示されることによる[63]
  • これらの災難が迫る原因につき、「一には 日本一同が未だに日蓮大聖人に背き続けていること」「二には 創価学会が政治のために、大聖人の唯一の御遺命たる『国立戒壇建立』を抛ったこと」と主張している[64]
  • 昭衞は、顕正会が「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」と主張する理由につき、「この恐るべき亡国の大難が起きても、もしその起こる所以を知らなければ、人々はただ恐れ戦くのみで、これが『日蓮大聖人に背くゆえ』とは知るよしもない。したがって日蓮大聖人に帰依信順することもない。そうであれば、日本はそのとき必ず亡ぶ。よって日蓮大聖人の弟子として私は、前もってこれを全日本人に告げ知らしめて国を救わんと、本書を著した次第である」と記している[64]

他教団との関係と争点[編集]

  • 日蓮正宗宗門、創価学会、正信会日蓮宗[65]など他の日蓮系教団のいずれとも教義上厳しく対立している。各教団ごとに主義主張(教義解釈)に違いはあるが、宗門および創価学会・正信会の両正宗系教団が共通して敵視しているのが顕正会であり、その理由の共通項は「国立戒壇」であるとされる[66]
  • 創価学会に対しては、終戦後、僧侶が堕落している時に救国の折伏に立ち上がったことにつき、「私は、敗戦の廃墟の中に立ち上がった創価学会の弘通の功を、誰よりも認めている」と述べている[67]。しかし、学会が「国立戒壇」を否定したこと、及び、2014年に会則の教義条項を改正して「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」と決定したことは大謗法であると主張し、諫め続けるとともに、名誉会長の池田や現会長の原田稔らを「池田大作一党」と称し、痛烈に非難している[46][68]。他方、一般の学会員に対しては、「同じく信心の力を起こしながら悪師に随うゆえに臨終に悪相を現ずること痛々しく思っております。何としても八百万学会員を救いたい」等と繰り返し述べている[69][68][70]
  • 宗門に対しても、日蓮大聖人の御遺命は「国立戒壇」であると主張し、諫め続けている[46]。なお、細井日達が1979年(昭和54年)7月22日午前5時、静岡県富士宮市のフジヤマ病院で突如激甚の心臓発作に襲われ、大事の「御相承」もなし得ず急死したことについては、「御遺命違背の罰」としている。即ち、貫首としての最大の責務は「御相承」であるところ、国立戒壇建立の御遺命に背けばすでに「貫首」ではなく、それゆえ日達は「授」の資格を失い、日顕には「受」の資格が無かったとして、「まさに御遺命違背という未曽有の大悪出来のゆえに、未曽有の異常事態が発生したのだ。すべては大聖人様の深き深き御仏意による。広布前夜には、このような”異常事態”も起こるのである」と主張している。 もっとも、「血脈」については「ただし、かかる不祥事があろうとも、血脈は断じて断絶しない。もし御遺命を堅持される貫首上人がご出現になれば、忽ちに血脈は蘇る。下種仏法の血脈は金剛不壊である。ここに大聖人様の甚深の御配慮がましますのである」と述べている[71]

政治的思想[編集]

  • 王仏冥合・国立戒壇建立こそが、国家安泰と世界平和をもたらし、人々を真に幸福にする、究極の政治理念であると説く。これは日蓮大聖人の「立正安国論」における「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや」[72]、及び「三大秘法抄」における「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、乃至、勅宣並びに御教書を申し下して、乃至、戒壇を建立すべき者か」との御指南に基づく[73]
  • 民主主義については、共産主義よりはすぐれているものの、究極の政治理念ではないとする。それは民主主義は権力の横暴に対し「民意を尊重せよ」との民衆の自己主張であるが、末法においてはその民衆が三毒強盛であるから、今度は衆愚政治になって国を亡ぼす、また、民主主義は多数決がその原理であるが、人の多さと正しさとは関係がない、との理由による。「所詮、独裁も民主主義も、正しい仏法を根底にしなければ、国土に三災七難を招き、人民が苦悩することにおいては同じ」と説く[73]
  • 顕正会はいかなる政党にも与せず、権力に諂わず、自ら政治に出て権力を得ようとすることもなく、ただ信心の力をもって毅然と時の政治権力を諫め、国立戒壇を建立すべしと迫る、「在野の諌暁団体」との姿勢を貫いている[74]
  • 福島第一原子力発電所事故が発生してからは、「原発は日本を滅ぼす、即時廃絶せよ!」と主張し、原発に反対している[75][76]
  • 日清日露アジア・太平洋(大東亜)戦争は日本による侵略戦争ではなく、大局的に見れば自衛のための祖国防衛戦争であったと主張している[77]

活動[編集]

勤行
『法華経』のうち、方便品の冒頭から十如是までと、如来寿量品の長行と自我偈を読誦ののち、「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。夕方)の毎日2回。特に毎週日曜日の午前には何回かに分けて、朝の勤行を各会館に集合して一堂に行う「日曜勤行」が開催される。 日曜勤行では、非会員が初体験出来る「入信勤行」も紹介される。
会合
総幹部会(毎月下旬)
ビデオ放映会
御書講義(浅井昭衞が不定期に開催)
布教活動
顕正会では「折伏(しゃくぶく、「破折屈伏」の略)」と呼ばれている。
『顕正新聞』の購読者の開拓
会員間においては「推進」と呼称される。
広布御供養
年1回12月に「広布御供養」と称して会員から寄付金を募っている(顕正会に会費は無いので年一回の会員の寄付のみで会が成り立っている)。顕正会には1人が出せる金額に下限と上限が設けられており、下限は1万円から、上限は8万円までである。また、任意参加である。
教学の研鑽
会員は「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」(冨士大石寺顕正会)という書籍を中心に教学を学んでいる。同書には、「日蓮大聖人とはいかなる御方か」、「人生の目的と幸福論」、「十界論」、「三世常住の生命」、「仏法の実践」という仏法の基礎的な教義に加え、「日蓮大聖人と釈迦仏の関係」、「日蓮大聖人の一代御化導」、「冨士大石寺の歴史」、「日蓮大聖人の御遺命」という日蓮大聖人門下が身につけるべき基本の教学、さらに「御遺命守護の戦い」という顕正会の学会・宗門に対する諌暁の歴史が記されている。また、各自でその他の顕正会発行書籍(「立正安国論謹講」、「開目抄を拝し奉る」、「六巻抄」等)の拝読等を通じて教学研鑽に励んでいる。
毎年1月に教学試験が実施されており、会員には受験が奨励されている。年によって異なるが、いずれも顕正会発行の書籍等が試験範囲となる。
年間行事
  • 1月1日 - 元旦勤行
  • 1月 - 教学試験
  • 2月7日 - 日興上人御報恩勤行会
  • 4月28日 - 立宗御報恩勤行会
  • 9月12日 - 竜の口法難御報恩勤行会
  • 10月13日 - 御大会式
  • 11月15日 - 日目上人御報恩勤行会

施設一覧[編集]

冨士大石寺顕正会本部
冨士大石寺顕正会札幌会館

海外[編集]

公式HPには45ヶ国に組織があると記載されている[76]

主要役員[編集]

  • 会長 浅井昭衞
  • 理事長兼総男子部長 浅井城衞
  • 総合女子部長 佐野直子
  • 総合婦人部長 湯浅悦子

脚注[編集]

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  1. ^ 2017年7月末現在。顕正新聞平成29(2017)年8月5日号
  2. ^ 「顕正会『試練と忍従』の歴史」(冨士大石寺顕正会)13~14頁
  3. ^ 「顕正会の歴史と使命」 顕正新聞社
  4. ^ 下山正恕「冨士大石寺顕正会」(76~77頁)によれば、この認証式の際、堀米日淳より「今まで法華講というのは墓檀家のように言われてきたが、法華講とは熱原の法華講衆にその源を発するのです。妙信講は熱原の法華講衆を鑑として、戦う法華講となって御奉公しなさい。まず三千の弘通を成し遂げてごらんなさい」との激励があり、妙信講幹部一同は感涙にむせんだという。
  5. ^ 「顕正会の歴史と使命」 顕正新聞社
  6. ^ 「発誓願文」 - 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」(冨士大石寺顕正会)316~317頁
  7. ^ 大白蓮華201号
  8. ^ 「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)48頁
  9. ^ 「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)48~50頁
  10. ^ 「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)66~67頁
  11. ^ 「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)69~70頁
  12. ^ a b c d 山崎正友「盗聴教団」(1980年、晩聲社)40~52頁)。
  13. ^ 「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)72頁
  14. ^ 「顕正会の歴史と使命」P76-77
  15. ^ 「顕正会の歴史と使命」P82-84
  16. ^ a b c d e 原島嵩「池田大作先生への手紙」(1980年、晩聲社)20~23頁
  17. ^ 「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)85~86頁
  18. ^ 元学会顧問弁護士の山崎正友によれば、創価学会側から北条浩副会長(当時)が登山し、細井日達に対し、「解釈文を出されるのは結構だが、その内容によっては大変なことになる」等と圧力をかけ、解釈文を出させないようにしたという「盗聴教団」(1980、晩聲社)49~50頁)。
  19. ^ 「顕正会の歴史と使命」P88-90
  20. ^ 「顕正会の歴史と使命」P92
  21. ^ 「顕正会の歴史と使命」P90-91
  22. ^ 「顕正会の歴史と使命」P92~93
  23. ^ a b c d 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」(冨士大石寺顕正会)p408-410
  24. ^ ここでいう「政府への欺瞞回答」とは、創価学会が昭和45年4月23日、文部省(当時)に回答した次の内容を指す(「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」p352-353)。 一、本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。 二、既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行われており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。 三、一時、本門戒壇を"国立戒壇”と呼称したことがあったが、本意は一で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である。
  25. ^ 処分理由中の「昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』」とは、細井日達が正本堂を指して「広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と定めた訓諭である。この件について顕正会は、「まさしく妙信講は国立戒壇の御遺命のゆえに、信徒団体として死罪にも等しい解散処分を受けたのである」と主張している(「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」P410-411)。
  26. ^ 「御遺命守護の戦い」(冨士大石寺顕正会)234~235頁
  27. ^ 「宗教法人顕正会」登記簿履歴事項全部証明書
  28. ^ 「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)126頁
  29. ^ 「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)127~128頁
  30. ^ a b 「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)129~130頁
  31. ^ 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」(冨士大石寺顕正会)435頁。
  32. ^ 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」(冨士大石寺顕正会)438頁
  33. ^ a b 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」P440-441
  34. ^ a b c 「弘通の足跡」顕正会公式HP[1]
  35. ^ 『仏法入門』(聖教新聞社 ISBN 9784412016279)P92
  36. ^ 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」P445
  37. ^ a b c d e f 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」P448-453
  38. ^ 理事長ポストは旧妙信講時代の1974年に設けられて以来35年ぶりの復活で、現在の顕正会になってからは初めて。引き続き男子部長を兼務。
  39. ^ 「元旦勤行『国難元年』に凛冽の決意」 - 顕正新聞 2014年1月15日号1面
  40. ^ 「第67回総務会を開催 会則・教義条項の改正を議決」 - 聖教新聞 2014年11月8日付1・3面
  41. ^ 「南東北大会 歓喜の結集一万二千人」 - 顕正新聞 2015年11月25日号1面
  42. ^ 「創価学会『極限の大謗法』さらに徹底 戒壇の大御本尊否定の勤行要典・会則変更 顕正会はいよいよご在世の信心に立ち還る」 - 顕正新聞 2016年1月5日号3面
  43. ^ 顕正新聞 2016年10月15日号1面
  44. ^ 顕正新聞平成29年1月25日号
  45. ^ 顕正新聞平成29年4月25日号
  46. ^ a b c d e f 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」第9章「日蓮大聖人の御遺命」
  47. ^ a b c d 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」第5章「仏法の実践」
  48. ^ 「譬えば、天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠いけれども打ちては須臾に聞こゆ。御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来たれり。乃至、御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」- 千日尼御前御返事、『創価学会版 新編日蓮大聖人御書全集』p1316
  49. ^ 『創価学会版 新編日蓮大聖人御書全集』p1022
  50. ^ 『創価学会版 新編日蓮大聖人御書全集』P1600
  51. ^ 大白蓮華1960年1月号
  52. ^ 大白蓮華1956年2月号巻頭言「自らの命に生きよ 広宣流布の二つの意義」
  53. ^ 大白蓮華1956年3月号巻頭言「広宣流布と文化活動」
  54. ^ 顕正会は、創価学会が「国立戒壇」を否定して「正本堂」を御遺命の戒壇であると主張し出した動機につき、池田が「国立戒壇は憲法違反」との評論家や共産党からの批判を恐れ、公明党の選挙に不利になると考えたため、と主張している(「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」第9章「日蓮大聖人の御遺命」)。
  55. ^ 1967年(昭和42年)10月の正本堂発願式における池田の発言など多数(「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」第9抄「日蓮大聖人の御遺命」)。
  56. ^ 池田は「国立戒壇の国は権力者ではなく民衆」という新たな解釈の下、日蓮仏法を奉じる民衆の代表たる正宗総講頭、および当時その地位にあった創価学会会長の発願で戒壇は建立できると説明した。「本抄の背景・大意 立正安国について」 - 創価学会教学部編『世界広布の翼を広げて 教学研鑽のために「立正安国論」』(聖教新聞社 ISBN 978-4412016194)P15-16
  57. ^ 顕正会は、日達はじめ日蓮正宗が「国立戒壇」の御遺命を捨て、「正本堂」こそ御遺命の戒壇であるとの学会の主張に賛同した理由につき、池田の威圧に屈し、学会員による莫大な供養金に心を蕩かされたゆえ、と主張している(「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」第9章「日蓮大聖人の御遺命」)。
  58. ^ 日達は、1968年(昭和43年) 1月、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」と発言し、1972年(昭和47年)4月28日には、「後代の誠証となす」と前置きした上で、「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」との訓諭を発布した。 - 「顕正会の歴史と使命」P76~77
  59. ^ 大白蓮華1968年1月号
  60. ^ 「冨士大石寺顕正会とは」顕正会公式HP
  61. ^ 「第42章 二難を予期し謗法の対治を促す」 - 『世界広布の翼を広げて 教学研鑽のために「立正安国論」』P207-216
  62. ^ 『創価学会版 新編日蓮大聖人御書全集』P33
  63. ^ 「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」5頁には、「日本は今、亡国の前夜を迎えている。その亡国は、どのような災難によってもたらされるのかといえばーまもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病(感染症)等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆(国内の分裂抗争)と他国侵逼(外敵の侵略)が起こるのである。これは凡夫の私が言うのではない。日蓮大聖人が立正安国論の奥書に『未来亦然るべきか』と示されるところによる」と記載されている。
  64. ^ a b 冨士大石寺顕正会「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」
  65. ^ 組織内では「身延派」と呼ぶ。
  66. ^ 「それぞれの主義主張(教義解釈と言うべきか)には、それなりの違いがある。・・・それでいて、宗門・法華講連合会、創価学会、正信会・檀徒会が共通して敵視しているのが、冨士大石寺顕正会なのである」、「顕正会敵視の根っ子は『国立戒壇』である。・・・見方を変えれば、大石寺門流内の複雑そうな抗争も、極めて単純なものなのである。即ち『国立戒壇』を主張するかしないか、だけなのだ。その他の抗争の原因は、かつて週刊誌が酷評したように"銭ゲバ”であったり、枝葉末節の問題に過ぎない」 - 下山正恕「冨士大石寺顕正会」p23‐24
  67. ^ 下山正恕「冨士大石寺顕正会」(株式会社日新報道、1998年)p52
  68. ^ a b 「創価学会ついに「戒壇の大御本尊」を否定 これぞ極限の大謗法、無間地獄の業因 早く悪師を捨て、成仏願う大道念に立て」 - 顕正新聞 2015年1月25日号5面
  69. ^ 「池田大作は30年間暴力団を使っていた!! 偽善の裏で”邪魔者は消せ” 私は八百万学会員を救いたい」 - 顕正新聞 2013年11月5日号5面
  70. ^ 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」p467-468
  71. ^ 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」P420-421
  72. ^ 「第46章 結論として立正安国を論ずる」 - 『世界広布の翼を広げて 教学研鑽のために「立正安国論」』P230-235
  73. ^ a b 「浅井先生の質問会より」『民主主義は究極の政治理念でしょうか』
  74. ^ 「顕正会『試練と忍従』の歴史」P61-64「仏法と政治」
  75. ^ 浅井会長講演・一月度総幹部会/2012年1月24日 - 顕正会公式ホームページ
  76. ^ a b 顕正会HP
  77. ^ 『自虐史観を捨て仏法史観に立て』

参考文献[編集]

  • 浅井昭衞『基礎教学書 日蓮大聖人の仏法』(2015、冨士大石寺顕正会)
  • 淺井昭衞『日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ』(2004、冨士大石寺顕正会)
  • 下山正恕『冨士大石寺顕正会』(1998、株式会社日新報道)
  • 週刊新潮2005年9月29日号(掲載ページ調査中)島田裕巳 「創価学会」も恐れる過激な原理集団 「顕正会」研究(創価学会批判の一部として記載されたもの)
  • 教祖逮捕―「カルト」は人を救うか ISBN 4796617191 月刊現代1999年12月号に掲載された記事の親鸞会関連の記述も含めた加筆版が掲載されている。

外部リンク[編集]