宝永永字丁銀

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宝永永字丁銀(ほうえいえいじちょうぎん)とは、宝永7年3月6日(1710年4月4日)より鋳造が開始された丁銀の一種。秤量貨幣である。単に永字丁銀(えいじちょうぎん)とも呼ばれる。

また宝永永字丁銀および宝永永字豆板銀を総称して永字銀(えいじぎん)あるいは永中銀(えいちゅうぎん)、また単に中銀(ちゅうぎん)と呼ぶ。

概要[編集]

表面には「大黒像」および「寳」の文字および両端の二箇所の「宝」字に加えてその内側にやや小型の「永」字極印が打たれ「常是」の極印は無い。これは、元禄15年8月15日(1702年9月6日)、大黒常是(長左衛門家五代常栄)が関久右衛門の奸計により荻原重秀から召放しを受けた結果であった[1][2][3]。永字丁銀の十二面大黒は未確認である[4]。また「宝」字極印の玉の上部がウ冠まで突き抜けていることを特徴とする[5][6]

略史[編集]

元禄16年11月23日(1703年12月31日)に起きた元禄の関東大地震に続き、宝永4年10月4日(1707年10月28日)には全国的に大揺れとなった宝永の大地震、同11月23日(1707年12月16日)には富士山噴火江戸火山灰の降灰に見舞われ[7][8]、加えて将軍の代替り、皇居の建造など諸工事の必要経費がかさみ、幕府の財政はますます困窮した[9][10]

宝永6年正月10日(1709年2月19日)、五代将軍徳川綱吉が没し、徳川家宣が将軍職に就くこととなった。2月3日(1709年3月13日)、その代替わりの諸費用についてに家宣が重臣を集めて尋ねたところ、荻原重秀は相次ぐ天災対策費に加え、宝永5年3月8日(1708年4月28日)の宝永の大火における内裏炎上に伴う建替えなどの出費が嵩むとして幕府財政の窮状を訴え、この緊急事態を切り抜けるには金銀吹替えの他にないとした[9][10]

折たく柴の記』常御座所改造及金銀改制廃止封事(引用)。

今重秀が議り申す所は、

御料すべて四百万。歳々に納らるゝ所の金は凡七十六七万両余。(此内長崎の運上といふもの四万両、酒運上といふもの六千両、これら近江守申行ひしところなり)此内夏冬御給金の料三十万両余を除く外、余る所は四十六七万両余なり。しかるに去歳の国用、凡金百四十万両に及べり。此他に内裏を造りまゐらせらるゝ所の料凡金七八十万両を用ひらるべし。されば、今国財の足らざる所、凡百七八十万両に余れり。たとひ大喪の御事なしといふとも、今より後に用ひらるべき国財はあらず。 いはんや、当時御急務御中陰の御法事料、御霊屋作らるべき料、将軍宣下の儀行はるべき料、本城に御わたましの料、此外内裏造りまゐらせらるべき所の料猶あり。しかるに、只今御蔵にある所の金、わづかに三十七万両にすぎず。此内二十四万両は、去年の春駿三州の灰砂を除くべき役を、諸国に課せて、凡百石の地より、金三両を徴れしところ凡四十万両の内、十六万両をもて、其用に充てられ、其余分をば、城北の御所造らるべき料に残し置かれし所也。これより外に、国用に充らるべきものはあらず。たとひ今これを以て、当時の用に充てらるゝとも、十分が一にも足るべからずといふなり。

加賀守をはじめて、皆々大きに驚きうれへて、かさねて近江守に議らしむるに、

前代の御時、歳ごとに其出るところ、入る所に倍増して、国財すでにつまづきしを以て、元禄八年の九月より、の製を改造らる。是より此のかた、歳々に収められし所の公利、総計金凡五百万両、これを以て常にその足らざる所を補ひしに、同じき十六年の冬、大地震によりて、傾き壊れし所々を修繕せらるゝに至りて、彼歳々に収められし所の公利も忽につきぬ。 そののち、又国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば、宝永三年七月かさねて、また銀貨を改められしかど、なほ歳用にたらざれば。去年の春、対馬守重富が計ひにて、当十大銭を鋳出さるゝ事をも申行ひ給ひき。(此大銭の事は、近江守もよからぬ事のよし申ししとなり)今に至て此急を救はるべき事、金銀の制を改造らるゝの外、其他あるべからずと申す。

荻原重秀の訴えに対し、家宣は吹替え以外に手段は無いものかと下問したところ、新井白石が応えて意見を述べた。白石曰く、重秀の云うところの昨年充当した財源は一昨年の税収であり、37万両に加えて昨年の税収である76-7万両、合計110余万両があるはずである、各支出は重要性に応じて翌年までかけて分割して支払えば良いとした。

今歳の国用にあつべきもの、わづかに三十七万両のあるのみ也。これしかるにはあらず。彼申す事の去年用ひられし所の国財は、即是去々年の課税なり。されば、今年の国用となさるべき所は、たとひ彼の申す所のごとくたりとも、去年納められし所の七十六七万両と、今ある所の金三十六七万両とをあはせて総計一百十余万両もあるべし。 また当時の急に用ひらるべき物も、各色まづ其値を給らざれば其事辨ぜずといふにもあらず。其の事の緩急にしたがひ、一百十余万両の金をわかちて、或は其全価をも給り、或は其半価をも給りて、来年に及びて、其値をことごとく償はれんに、その事辨得ずといふ事なかるべし。

(中略)

去年の御物成を以て、今年の御用に充つる事、近江守しらざるべきかは、しかるに、此事をば申さで、今年の用ふべきもの、わづかに三十七万両にすぎずと申ししは、御聴をおどろかして、其おもふところを遂ぐべきため也。その本謀は下に詳に見えたり。

貨幣吹替えに消極的であった家宣は、「悪質なものを出せば天譴をうけて天災地変を生ずるおそれがある」と白石の意見を採りいれ、吹替えの建議を禁止した[11]

一方で新井白石らは宝永7年夏頃に市中に見慣れぬ悪銀が流通していることに気が付くが、これは宝永7年3月6日(1710年4月4日)に、将軍の承諾を取り付けることなく荻原重秀の計らいにより勘定組頭保木弥右衛門、勘定小宮山友右衛門の二人に連署させ、銀座の内々の証文によって、独断専行で銀貨吹替えを遂行したのであった。このため、旧銀貨との交換手続きおよび通用に関する触書などが出されることは無かった[12][9]

翌月4月2日(1710年4月30日)には三ツ宝銀、翌年8月2日(1711年9月14日)には四ツ宝銀と相次いで将軍の承諾なしに悪銀が鋳造され、市場には幾種もの銀が混在して流通し銀相場は混乱した。正徳4年8月2日(1714年9月10日)に良質の正徳銀が鋳造された後も暫く混在流通の状態は続き、享保3年閏10月(1718年)に出された御触れ「新金銀を以当戌十一月より通用可仕覚」により正徳銀が通用銀に変更された同年11月(1718年12月22日)までは三ツ宝銀・四ツ宝銀と共に通用銀としての地位を保持した。

漸く享保7年末(1723年2月4日)に元禄銀二ツ宝銀・三ツ宝銀、および四ツ宝銀と共に通用停止となった[13]

一ヶ月足らずでさらに品位を低下させた三ツ宝銀の鋳造となったため、江戸時代の一般流通目的の丁銀としては鋳造期間が短く、かつ鋳造量が最も少なく、現存数も極めて稀少である[14]

宝永永字豆板銀[編集]

宝永永字豆板銀(永字小玉銀)

宝永永字豆板銀(ほうえいえいじまめいたぎん)は宝永永字丁銀と同品位の豆板銀で、「寳」文字および「永」字を中心に抱える大黒像の周囲に小さい「永」字が廻り配列された極印のもの「廻り永」を基本とする。

両面に大黒印の打たれた「両面大黒」は未確認であり、また「大字永」、「群永」あるいは「大字宝」なども確認されていない。宝永永字丁銀同様、豆板銀の中では鋳造量も現存数も最も少ない[14]

永字銀の品位[編集]

『旧貨幣表』によれば、規定品位は銀40%(五割六分引ケ)、銅60%である。

永字銀の規定品位

明治時代造幣局により江戸時代の貨幣の分析が行われた。古賀による永字銀の分析値は以下の通りである[15]

雑分はほとんどがであるが、少量のなどを含む。

永字銀の鋳造量[編集]

『吹塵録』および『月堂見聞集』によれば丁銀および豆板銀の合計で5,836余(約21.8トン)である[16]

公儀灰吹銀および回収された旧銀から丁銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は永字銀では鋳造高の10%と従来より高く設定され[17]、また吹替えにより幕府が得た出目(改鋳利益)は1,477貫余であった[18][17][19]

脚注[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 青山礼志『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』ボナンザ、1982年。
  • 郡司勇夫・渡部敦『図説 日本の古銭』日本文芸社、1972年。
  • 久光重平『日本貨幣物語』毎日新聞社、1976年、初版。ASIN B000J9VAPQ
  • 井上幸治・児玉幸多ほか『図説 日本の歴史12変動する幕政』集英社、1975年。
  • 石原幸一郎『日本貨幣収集事典』原点社、2003年。
  • 小葉田淳『日本の貨幣』至文堂、1958年。
  • 草間直方『三貨図彙』、1815年。
  • 三上隆三『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年。ISBN 978-4-492-37082-7
  • 滝沢武雄『日本の貨幣の歴史』吉川弘文館、1996年。ISBN 978-4-642-06652-5
  • 瀧澤武雄,西脇康『日本史小百科「貨幣」』東京堂出版、1999年。ISBN 978-4-490-20353-0
  • 田谷博吉『近世銀座の研究』吉川弘文館、1963年。ISBN 978-4-6420-3029-8
  • 『日本の貨幣-収集の手引き-』日本貨幣商協同組合、日本貨幣商協同組合、1998年。

関連項目[編集]