定式幕

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定式幕(じょうしきまく)とは、三色に染めたを縦に縫い合わせて作った引幕。おもに歌舞伎の舞台で使われる。 歌舞伎の舞台では演目や場面によって様々のが使われるが、定式幕は芝居の幕開きと終幕に使われる。「定式」とは「常に使われるもの」といった意味である。

国立劇場の定式幕

定式幕をはじめとして、歌舞伎の引幕はいずれも上手から下手に引いて閉じるのが普通だが、江戸時代には下手から上手に引いて閉じていた[1][2]。また上方の芝居で定式幕に相当する引幕は、本来は縦縞ではなく横縞に縫い合わされて作られたもので、上手下手の双方から幕を引いて舞台の真ん中で閉じる形式だったが、明治中頃から江戸と同様の形式となり現在に至っている。

配色[編集]

江戸中村座の定式幕(黒-白-柿色)
現在は平成中村座が使用している。
江戸市村座の定式幕(黒-萌葱-柿色)
現在は国立劇場や大阪新歌舞伎座が使用している。中村座の白を萌葱に。
江戸森田座/守田座の定式幕(黒-柿色-萌葱)
現在は歌舞伎座や京都南座が使用している。

江戸三座のあった時代にはそれぞれ配色が異なり、中村座下手(舞台に向って左)から黒・白・柿色市村座は黒・萌葱・柿色、森田座(守田座)は黒・柿色・萌葱の3色を繰り返したものだった。

式亭三馬の『戯場訓蒙図彙』(しばいきんもうずい。1803年初版)には定式幕について、「さかい町の芝居(= 中村座)は紺・柿・白の三色を用ひ来る。木挽町(= 森田座)と市村座は紺・柿・緑の三色を用ひて、白を用ゆる事なし」とあり[3]、現在黒の部分は紺色(濃紺か)ともいわれていたことがうかがえる。

中村座・市村座[編集]

幕府所有の巨船安宅丸の櫓を人足に漕がせた時、初代中村勘三郎が櫓を漕ぐ音頭を取り、その褒美にもらった帆布を中村座の幕にしたのが起りだといわれている。

六代目尾上梅幸によれば、中村座の定式幕は御船手組で使われた日よけの幕を頂戴したものだともいう。また中村座の座元の娘が市村座の座元のところへ嫁ぐことになった時、その縁で市村座でも中村座の幕を使うことが出来るようになった。しかし白い色だと汚れが目立つので、のちに白を萌葱に変えて使うようになったのだという。

昭和41年(1966年)に国立劇場が開場すると、その定式幕には黒・萌葱・柿色の市村座定式幕が使用されることになった。

平成12年(2000年)に公演を始めた平成中村座では、黒・白・柿色の中村座定式幕を踏襲している。

森田座[編集]

現在定式幕と呼ばれて使われているものは、黒・柿色・萌葱の森田座定式幕の様式に倣うものが多い。これは歌舞伎座定式幕がこの森田座定式幕を踏襲していることによる。明治のはじめに名興行師として知られた守田座改メ新富座の座元・十二代目守田勘彌は、一時期発足して間もない歌舞伎座に招かれてその諸事万端を司っていたが、歌舞伎座が建つ木挽町はかつて森田座がその中心となって栄えた芝居町だったことから、この歌舞伎座の定式幕に自らの森田座定式幕をちゃっかりと転用した。以後年を重ねてもこれを怪しむ者が出てこなかったことから、これが歌舞伎座定式幕として定着し今日に至った。

なお、近年の研究では逆の見解も出てきている。今尾哲也は『歌舞伎<通説>の検証』(2010年)で、江戸期の千代紙浮世絵では配色の並び順が通説と異なっているものがあることから、市村座と歌舞伎座、森田座と国立劇場が同じ並び順と結論づけた[4]

脚注[編集]

  1. ^ 文楽は現在でも後者のやり方を採っている。
  2. ^ 清元節所作事道行旅路の花聟』では、鷺坂伴内が花道のおかる勘平のあとを追おうとすると、定式幕に阻まれて幕とともに上手に引っ込むという演出から幕を引く勝手が逆になっている。
  3. ^ 式亭三馬. “電子図書 戯場訓蒙図彙”. 日本芸術文化振興会 文化デジタルライブラリー. 2018年4月9日閲覧。
  4. ^ 読売新聞2015年1月23日17面「和のかたち」各劇場の定式幕(文化部 冨野洋平)

参考文献[編集]

  • 『演劇百科大事典』(第3巻)- 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編(1986年、平凡社
  • 女形の芸談』- 六代目尾上梅幸(1988年、演劇出版社)
  • 文化デジタルライブラリー -『戯場訓蒙図彙』の影印画像とその翻刻がある。

外部リンク[編集]