宗教的包括主義

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宗教的包括主義(Religious inclusivism)とは、他の宗教の存在を認め、その教えに一定の価値があることを承認するものの、究極的な自宗教の優越性への信念は放棄しない思想である。この場合他の宗教は自宗教の理想を一段劣った形で伝えるものとみなされる。

概要[編集]

宗教的包括主義は、他宗教を表立って攻撃せず、その教えに一定の価値があることを承認し、尊重するという点で宗教的排他主義とは異なる。しかし、自宗教の絶対的優越性への信念を放棄しない点で宗教多元主義とも異なる。

キリスト教[編集]

キリスト教徒で宗教的包括主義の支持をする者の中には、ノリッジのジュリアンオーガスタス・ホプキンス・ストロング英語版[1]C. S. ルイス[2][3]ジョン・ウェスレー[4][5]クラーク・ピノック英語版[6]カール・ラーナージョン E. サンダース英語版、テランス L. ティーセン、ロバート・ブラッシュ等がいる。

パウロは「異教徒は(ユダヤ・キリスト教の神の)律法を持っていなくても、心(良心)に律法が刻まれていることがあり、イエスは心にあるものによって人を裁く(ローマの信徒への手紙 2:12-16)」と教えている(Romans 2:12-16)[7]

2:10 善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。2:11 なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。 2:12 そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。2:13 なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。2:14 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。 — ローマ人への手紙(口語訳)2:10-2:14

使徒言行録17:23-28では、パウロはギリシャ人は知らぬうちに神を崇拝していたと述べている。

17:23 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。17:24 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。17:25 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、17:26 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。17:27 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。17:28 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。 — 使徒言行録(口語訳) 17:23-28

使徒言行録10:1-48によると神を畏れ、善き行いをする者は、国籍・民族に関係なく神に受け入れられる。

10:34そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、10:35 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。 — 使徒言行録(口語訳) 10:1-48

マタイによる福音書25:31-46は神による審判は宗教への所属でなく、一人ひとりの他者への思いやりに基づくと明らかにしている。

教父の中には、キリスト教徒でない者が神の知恵に参加することについて、より広く包括的な見解を持っていた者がいることが知られている。 ユスティノスは『第一の弁明』の第46章で、ロゴスに触発された異教徒は、たとえ非有神論的な哲学を信奉する者であっても、すべてキリスト教徒であると主張している。

「私たちは、キリストが神の子であることを教えられてきました。そしてキリストは、すべての民族の男女が分け与えられたロゴスであることを上で示唆しました。そしてギリシャ人ではソクラテスヘラクレイトスなどのように、無神論者と思われていても、ロゴスとともに生きた人たちはキリスト教徒である」[8]

キリスト教カトリックでは、ローマ帝国国教となって後長らく『教会の外に救いなし』というドグマが掲げられており、キリスト教カトリック以外のすべての宗教はキリスト教とは異質で無価値なものであるという信念が支配していた。カトリックから分離したプロテスタントは『キリスト教の外に救いなし』とこの文言を修正したが、やはりキリスト教以外の宗教に価値を認めないという点では同じであった。しかし非キリスト教圏に赴いた人々の中には、一定程度包括主義的な見方を示す人々も居た。 旧約聖書・新約聖書では「偶像崇拝は悪」と明記されているために、必然と仏教や神道とは対立する。[要出典]

カトリック[編集]

カトリックでは最終的に第2バチカン公会議においてこの文言は放棄され、現在は公式に包括主義の立場に立って他宗教との『対話』を行っている。ドイツの神学者カール・ラーナーらが提唱した「匿名のキリスト者」という概念は、他宗教の信者もその生き方において無意識の内にキリストを賛美しているのだという思想であり、第2バチカン公会議に決定的な影響を与え、現代のエキュメニズムの立場において広く受け入れられている。これらの動きについて、排他主義的な思想を持つ人々からの批判がある一方で、キリスト教の絶対性への信仰を放棄していないことから、宗教多元主義者からの批判も見られる。ならばキリスト者は「匿名の仏教徒」なのかといった反論が排他主義、多元主義両方の立場からなされている。

イスラーム[編集]

イスラームでは、啓典の民という呼称などに見られるように早くから一定程度包括主義的な姿勢を他宗教に対して見せており、そのため前近代において他宗教の信者は差別と抑圧の元ではあるものの、共存を許されていた。また宗教多元主義に近いレベルで他宗教への寛容性を説いた思想家、スーフィー達も少なくなかった。

その他の宗教[編集]

前近代の仏教ヒンドゥー教などにおいても排他主義のみならず、包括主義も広く見られた。

指摘[編集]

他宗教を良きものとして判断するにあたっての判断基準があくまでも自宗教の価値観にとどまっているものとなりがちであるということが、包括主義の限界としてしばしば指摘される。一例としては、キリスト教的な価値観で判断すれば、一夫多妻一妻多夫を不道徳であると一方的に決め付けてしまうなどということがある(ただしこれらには非宗教的視点から見た女性差別男性差別という問題も含まれている)。

出典[編集]

  1. ^ Strong, Anthony H. (1907). Systematic Theology. Old Tappan, NJ: Revell. pp. 842–43. OCLC 878559610 
  2. ^ Lewis, 1967, Mere Christianity, New York: Macmillan, 65.
  3. ^ John Sanders, 1992, No Other Name: An Investigation into the Destiny of the Unevangelized, Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans, 251–57.
  4. ^ Wesley, 1986, "On Faith" in The Works of John Wesley, 3rd ed. volume 7, Peabody, MA: Hendrickson, 197.
  5. ^ John Sanders, 1992,No Other Name: An Investigation into the Destiny of the Unevangelized, Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans, 249–51.
  6. ^ Clark Pinnock, 1992, A Wideness in God's Mercy: The Finality of Jesus Christ in a World of Religions, Grand Rapids: Zondervan.
  7. ^ Darlington, Stephen (31 December 2018) (English). Pearson Edexcel Religious Studies A level/AS Student Guide: Christianity. Hodder Education. ISBN 978-1-5104-3258-1 
  8. ^ Martyr, Justin (1997). Barnard, Leslie William. ed. The First and Second Apologies. New York: Paulist Press. ISBN 978-0-8091-0472-7. https://archive.org/details/firstsecondapolo00just_0 , p. 55.

関連項目[編集]