宗教的包括主義

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宗教的包括主義(Religious inclusivism)とは、他の宗教の存在を認め、その教えに一定の価値があることを承認するものの、究極的な自宗教の優越性への信念は放棄しない思想である。この場合他の宗教は自宗教の理想を一段劣った形で伝えるものとみなされる。

宗教的包括主義は、他宗教を表立って攻撃せず、その教えに一定の価値があることを承認し、尊重するという点で宗教的排他主義とは異なる。しかし、自宗教の絶対的優越性への信念を放棄しない点で宗教多元主義とも異なる。

イスラームでは、啓典の民という呼称などに見られるように早くから一定程度包括主義的な姿勢を他宗教に対して見せており、そのため前近代において他宗教の信者は差別と抑圧の元ではあるものの、共存を許されていた。また宗教多元主義に近いレベルで他宗教への寛容性を説いた思想家、スーフィー達も少なくなかった。

キリスト教カトリックでは、ローマ帝国国教となって後長らく『教会の外に救いなし』というドグマが掲げられており、キリスト教カトリック以外のすべての宗教はキリスト教とは異質で無価値なものであるという信念が支配していた。カトリックから分離したプロテスタントは『キリスト教の外に救いなし』とこの文言を修正したが、やはりキリスト教以外の宗教に価値を認めないという点では同じであった。しかし非キリスト教圏に赴いた人々の中には、一定程度包括主義的な見方を示す人々も居た。 旧約聖書・新約聖書では「偶像崇拝は悪」と明記されているために、必然と仏教や神道とは対立する。


カトリックでは最終的に第2バチカン公会議においてこの文言は放棄され、現在は公式に包括主義の立場に立って他宗教との『対話』を行っている。ドイツの神学者カール・ラーナーらが提唱した「匿名のキリスト者」という概念は、他宗教の信者もその生き方において無意識の内にキリストを賛美しているのだという思想であり、第2バチカン公会議に決定的な影響を与え、現代のエキュメニズムの立場において広く受け入れられている。これらの動きについて、排他主義的な思想を持つ人々からの批判がある一方で、キリスト教の絶対性への信仰を放棄していないことから、宗教多元主義者からの批判も見られる。ならばキリスト者は「匿名の仏教徒」なのかといった反論が排他主義、多元主義両方の立場からなされている。

前近代の仏教ヒンドゥー教などにおいても排他主義のみならず、包括主義も広く見られた。

創価学会の『折伏教典』は、キリスト教が求めているものの本体は、南無妙法蓮華経の本尊それ自体であるとしている[1]

他宗教を良きものとして判断するにあたっての判断基準があくまでも自宗教の価値観にとどまっているものとなりがちであるということが、包括主義の限界としてしばしば指摘される。一例としては、キリスト教的な価値観で判断すれば、一夫多妻一妻多夫を不道徳であると一方的に決め付けてしまうなどということがある(ただしこれらには非宗教的視点から見た女性差別男性差別という問題も含まれている)。

脚注[編集]

  1. ^ 『折伏教典』「おもな邪宗教の批判」p.191 創価学会教学部

関連項目[編集]