安積団

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安積団(あさかだん)は、815年から10世紀まで日本の陸奥国に置かれた軍団の一つである。安積郡に置かれたと推定されるが、正確な位置は不明である。

歴史[編集]

陸奥国には8世紀に複数の軍団が置かれたが、安積団がその中にあったかは不明である。弘仁2年(811年)以降は存在せず、弘仁6年(815年)8月に陸奥国が4個軍団を増やしたときに、安積団が設置された。以後、陸奥国では6団6000人が6交代制で常時1000人の兵力を駐屯地に維持することになった[1]。安積団の兵士は、白河団行方団とともに3軍団で常時500人を多賀城国府に駐屯させたようである。この時の定員は、標準的な各団1000人であろう。

後に磐城団が増設されて7団7000人となり、承和10年(843年)に1000人を増員して7軍団に割りふった[2]。安積団の増員後の兵力は不明だが、引き続き多賀城の守備にあたった[3]

年代不明だが、多賀城跡の外郭を画す大溝の中から、安積団会津郡の兵士が交代勤務を終えて玉前関[4]を通って会津に帰ることを報告した木簡が見つかっている[5]。正確には報告書を書くための習書で、多賀城で書かれて廃棄されたらしい[6]。交代勤務を実例で示すものであり、中通りの安積団が会津まで徴兵区としていたこともわかり、他の軍団の配置と考え合わせ、安積郡・信夫郡・会津郡の3郡の兵士で安積団を作ったのであろう[7]

10世紀に編まれた延喜式にも陸奥国に7団を置くことが規定されており、軍団の構成は変わらなかったと考えられる[8]。11世紀までに廃絶した。

脚注[編集]

  1. ^ 類聚三代格』巻第十八。黒板勝美・編『類聚三代格(後編)・弘仁格抄』551-552頁。
  2. ^ 『続日本後紀』承和10年4月19日条。
  3. ^ 元慶年間(877年から884年)の太政官符に、鎮守府の守備にあたる軍毅が15人、国府守備にあたる軍毅が20人とある。前者を3軍団、後者を磐城団を加えた4軍団と按分すれば5人ずつで割り切れる。平川南『漆紙文書の研究』282頁。
  4. ^ 木簡には「玉前剗」。
  5. ^ 『多賀城市史』第1巻252頁。高倉敏明『多賀城』104-105頁。平川南『東北「海道」の古代史』134頁。『多賀城跡木簡』II、第370号木簡、56頁。同じく図版編では35-37頁。
  6. ^ 『多賀城跡木簡』II、第370号木簡、57頁。
  7. ^ 『多賀城市史』第1巻253頁。
  8. ^ 橋本裕は、変更の可能性もあると見る(「律令軍団一覧」、『律令軍団制の研究』(増補版)159-160頁)。

参考文献[編集]

  • 黒板勝美編『新訂増補国史大系 類聚三代格(後編)・弘仁格抄』、吉川弘文館、普及版1971年。初版1934年。
  • 高倉敏明『多賀城 古代国家の東北支配の要衝』(日本の遺跡30)、同成社、2008年、ISBN 978-4-88621-452-2
  • 多賀城市史編纂委員会『多賀城市史』第1巻(原始・古代・中世)、多賀城市、1997年。
  • 宮城県多賀城跡調査研究所『多賀城跡木簡』II(宮城県多賀城跡調査研究所資料 III)、2013年。
  • 宮城県多賀城跡調査研究所『多賀城跡木簡』II・図版編(宮城県多賀城跡調査研究所資料 III)、2013年。
  • 橋本裕「律令軍団一覧」、『律令軍団制の研究』(増補版)、吉川弘文館、1990年(初版は1982年発行)、ISBN 4-642-02244-9 に所収。論文初出は『続日本紀研究』199号、1978年10月。
  • 平川南『漆紙文書の研究』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-02232-5
  • 平川南『東北「海道」の古代史』、岩波書店、2012年。