安渡移矢岬

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安渡移矢岬
Мыс Ловцова
安渡移矢岬とその灯台
安渡移矢岬 Мыс Ловцоваの位置を示した地図
安渡移矢岬 Мыс Ловцоваの位置を示した地図
安渡移矢岬
安渡移矢岬の位置
安渡移矢岬 Мыс Ловцоваの位置を示した地図
安渡移矢岬 Мыс Ловцоваの位置を示した地図
安渡移矢岬
安渡移矢岬 (サハリン州)
安渡移矢岬 Мыс Ловцоваの位置を示した地図
安渡移矢岬 Мыс Ловцоваの位置を示した地図
安渡移矢岬
安渡移矢岬 (北海道広域)
場所

領土問題あり
日本の旗 日本側の行政区分 - 北海道国後郡留夜別村根室振興局管内)

ロシアの旗 ロシア側の行政区分 - 極東連邦管区サハリン州クリル管区
座標 北緯44度27分10秒 東経146度35分2.3秒 / 北緯44.45278度 東経146.583972度 / 44.45278; 146.583972座標: 北緯44度27分10秒 東経146度35分2.3秒 / 北緯44.45278度 東経146.583972度 / 44.45278; 146.583972
所属 国後島
沖合水域 国後水道

安渡移矢岬 (あといやみさき、ロシア語: Мыс Ловцова (ロフツォワ岬)、アイヌ語: atuy-ya (アトゥイ・ヤ、海の・岸))は、北海道根室振興局にある国後島最東端のである。

概要[編集]

岬の東は国後水道を隔てて択捉島ベルタルベ山を望み、太平洋に面している。「アトイヤ」は、アイヌ語で「渡海場」(ないし「日和待ち」)を意味する[1] [注釈 1]

ロシア語のロフツォワを冠した名称は、岬のみならず半島灯台におよんでおり、これらはいずれもエカテリーナ号の艦長ヴァシリー・ミハイロヴィッチ・ロフツォフに由来する。ロフツォフは、1792年(寛政4年)、アダム・ラクスマンが日本と条約を締結するためにオホーツクを出港して根室港を訪れたときの艦長である[注釈 2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 函館市北洋資料館に収蔵された「大日本地名アトイヤ」と書いた標柱について、重田定一はこの標柱が国後島に建てられたものではないかという説を唱えたが、北海道史研究家の河野常吉はこれに対し、アトイヤの地名は択捉島のカモイワッカ岬東方にもあり、択捉島に建てられたものだと主張した[1]。なお、河野は、国後島北東部と択捉島北東部には、シベトロ(シベトロベツ) - カモイワッカオイ(ワッカオイ) - アトイヤ という類似の地名が両島の西から東に向け、同様に配列されていることを指摘している[1]
  2. ^ 軍人アダム・ラクスマンは、ロシア皇帝エカチェリーナ2世の国書を携え、漂流民であった大黒屋光太夫らをともない、根室に来航したが、国書の内容は「ロシアはこの地方で必要な生活物資を日本との交易によって得たい」というものだった[2]松前藩は急いで江戸幕府に報告し、指示を仰いだ[2]。翌寛政5年、幕府はロシア使節ラクスマンに対し、「漂流民の送還については感謝する。しかし江戸への来航は許可できない。日本の国法により通商はできない。長崎においてなら話し合う」と返答した[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c 河野常吉「國後擇捉の建標に關する斷案」『札幌博物学会会報』第4巻第1号、札幌博物學會、1912年9月、43-50頁、NAID 120006774209 
  2. ^ a b c 中学生むけ読みもの「私たちの北方領土」”. 公益社団法人 北方領土復帰期成同盟. 2022年6月10日閲覧。

関連項目[編集]