安宅丸

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『御船図』安宅丸。19世紀の想像図。
安宅丸をテーマにした観光船(東京)

安宅丸(あたけまる)は、江戸時代初期の寛永9年(1632年)、江戸幕府第三代将軍徳川家光向井将監に命じて新造した、軍船形式の御座船である。別名は天下丸

2年後の寛永11年(1634年)に伊豆伊東で完成。現在の東京湾に回航され、翌年の6月2日には品川沖で家光が試乗。その後に江戸深川に係留された。最も信頼できる史料である[1]『安宅御船仕様帳』や『安宅御船諸色註文帳』によると、全体は和洋折衷の船型で船首に長さ3間の竜頭を置き、竜骨の長さが125(38メートル弱)、肩幅が53.6尺(約20メートル)で推定排水量が1500トン、(ろ)数は2人掛りの100挺であった。上部は安宅船に準じた日本式の軍船艤装を施し、2層の総で船首側に2層の天守を備え、その巨大さから「日本一の御舟」[2]などと呼ばれ、江戸の名物の一つでもあった。外板の厚みは1尺もあり、当時の関船を主力とした他の大名の水軍力では破壊は不可能であり、さらに防火・船喰虫対策として、船体・上構全てに板を張っていた。

しかし、あまりに巨大であったため大艪100挺でも推進力が不足であり、実用性がなく、将軍の権威を示す以外にはほとんど機能しなかったとされる。これについては、「浅い喫水も併せて、江戸防衛の為の移動要塞としての任務が主なため」との意見もある。また、建造を命じたのは徳川秀忠であり、その後に将軍職を襲った家光によって絢爛豪華な装飾が付けられたという[3]

維持費用が大きく、奢侈引き締め政策の影響[4]もあり、天和2年(1682年)に幕府によって解体された。以後は、関船系の「天地丸」が幕府の最大艦となった。

後年には、巨大さ・豪華さのために多くのテキストに記述されたが、ほとんどの場合に誇張や誤りがあり、『徳川実紀』ですら誤伝を採録している。また、「蔵の中で伊豆に帰りたがった」「解体後の板を穴蔵の蓋に用いていたが、それを安宅丸の魂がゆるさず召使いの女に憑いて主人を脅し蔵を作りかえさせた」などの民俗伝承も生まれた。

現代の東京湾では、外見を模した遊覧船「御座船安宅丸」が日の出桟橋発着で観光クルーズを行っている。排水量486トンで、全長は約50メートルである[5]

脚注[編集]

  1. ^ 『国史大辞典』による
  2. ^ 東海道名所記』
  3. ^ 石井謙治『日本の船を復元する』(学習研究社 2002年)
  4. ^ 『徳川実紀』には「古今比類なき大船なので、水主・揖取をはじめ関わる人は数百人いる、結果的に一年に十万の税が必要といわれた。よって堀田正俊が、下々の奢侈を禁止するためにも、まずお上が無駄な費用を省くべきであると建議し、解体に至った」とある。
  5. ^ 【各駅停話】ゆりかもめ(13)日の出/新生 家光の「天下丸」『朝日新聞』夕刊2018年11月29日(社会面)2018年12月4日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]