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孫氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

孫氏(そんし)は、漢姓の一つ。

中国

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2020年の中華人民共和国第7回全国人口調査中国語版国勢調査)に基づく姓氏統計によると中国で12番目に多い姓であり、1944.33万人がいる[1][2]。一方、台湾の2018年の統計では第49位で、86,107人がいる[3]。 正史『新唐書』巻七十三の宰相世系三下(略して宰相世系表ということが多い)では、孫氏の3つの流れを書いている。以下、『新唐書』宰相世系表及びそれを増補した『古今図書集成』明倫彙編巻百四十五の「孫姓部彙考」、宰相世系表や歴代正史を元に考証した歴史学者石井仁の『富春孫氏考』に依って記す。

  • 姫姓孫氏
    • 衛康叔の八世の孫、の武公和の子孫が称したとされる。晋の仙人孫登がこの子孫である。[5]
  • 嬀姓孫氏(陳氏・田氏)
    • 孫氏で最も栄えたのはこの嬀姓孫氏である。この家は元々陳無宇の三男の陳書(孫書)が莒を討伐して、その功績により孫姓を与えられたものである。

『新唐書』宰相世系表には、「四世の孫を桓子無宇という。無宇に恆・書の二子あり。書字は子占,齊の大夫なり、莒を伐って功有り、景公、孫氏を賜姓し,食采を楽安に於いてす。」とある。このことからこの系統を楽安孫氏という。この孫書の孫が兵法家である著名な孫武である。孫武は「孫子」(呉孫子)と尊称され、後にその業績は『孫子兵法』として伝えられた。孫武の息子を孫明といい、富春を領地としたことからこの系統を富春孫氏という。孫明の子が戦国時代の兵法家で自らも「孫子」(斉孫子)と尊称され斉に仕えて活躍した孫臏である。その後、富春孫氏は前漢・後漢を通じて地方の官吏を歴任し、後漢孫堅及び孫策親子の代になって急激に勢力を伸ばすことに成功した。石井仁は『後漢書』に、前漢武帝末期の富春孫氏の孫幸なる人物が海南島で原住民に襲われて死亡した記録[6]があることなどから、海上貿易で富を蓄えていたのではないかとしている。[7] 富春孫氏の孫堅の家系は孫策の弟・孫権が、兄の死後その家督を継承し、三国時代においてを建国した。楽安孫氏からは蜀の孫乾などが出ている。その後、呉はにより滅亡させられるが、その後も楽安孫氏・富春孫氏ともに繁栄し、楽安孫氏からは唐代に二人の宰相を出している。[8]富春孫氏からは中華民国の臨時大総統孫文が出た。富春は富陽と改められ、現在では浙江省富陽市という。[9]現在では孫氏の末裔は現在の浙江省杭州市富陽区南部の龍門古鎮という村に住んでいるとされ、この村では9割の人間が孫姓であり、9月1日の孫権の誕生日を祝日としている。[10]

また、同じ富陽区の場口鎮の外れにある集落にも孫氏の末裔がいるとされ、「孫氏宗祠」を守っている。

著名な人物

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朝鮮

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ベトナム

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(トン)は、ベトナムの姓の一つ。

著名な人物

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琉球

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(そん)は、琉球王国の士族が持った唐名(からなー)の姓の一つ。

氏族

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脚注

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  1. ^ 中国信息报 2022年11月11日 2版 - “百家姓”规模及其占全国总人数比重” (中国語). 中国信息报 (2022年11月11日). 2023年2月11日閲覧。
  2. ^ “百家姓”人口占全国人口比重达84.55%” (中国語). 中国信息报 (2022年11月11日). 2023年2月11日閲覧。
  3. ^ 全國姓名統計分析”. 中華民国内政部. p. 280 (2018年10月). 2023年1月18日閲覧。
  4. ^ 『古今図書集成』「孫姓部彙考」
  5. ^ 『古今図書集成』「孫姓部彙考」
  6. ^ 『後漢書』巻八十六・列伝第七十六に「(前漢)武帝末,珠崖太守會稽孫幸調廣幅布獻之,蠻不堪役,遂攻郡殺幸。幸子豹合率善人還復破之,自領郡事,討擊餘黨,連年乃平。豹遣使封還印綬,上書言狀,制詔即以豹為珠崖太守。」とある。
  7. ^ 『富春孫氏考』
  8. ^ 『新唐書』宰相世系表
  9. ^ 高原「ぶらり旅 浙江省・富陽市 名画を生んだ絶景の地」『人民中国』インターネット版2012年8月13日、2025年4月20日閲覧
  10. ^ 高原2012

参考文献

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  • 山口直樹『三国志を行く-群雄決起編』世界文化社、2006年。ISBN 4-418-06115-0 

関連項目

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