孫弘

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孫 弘(そん こう、? - 252年)は、中国三国時代に仕えた人物。揚州会稽郡の出身。

経歴[編集]

陰険で腹黒かった。本性を隠して目上の者にへつらい、中書令となった。二宮事件では孫覇派にとり入った。

張休は以前から孫弘に憤りを感じていたという。ある時、張休は孫覇派の人達に讒言され、交州に左遷されることとなった。245年、孫弘がこの機会を逃すまいと、さらなる讒言をしたため、張休は孫権から自殺を命じられた。

孫権が孫和と孫覇の両人をほぼ同等に処遇すると、立太子を期待する孫覇派と廃太子を防ごうとする孫和派の対立を招いた。結局、孫和は皇太子を廃されたうえに幽閉され、孫覇も処刑された(二宮事件)。皇太子には新たに孫亮が立てられたが、この処置に反対した孫和派の朱拠は、棒叩き100回の刑を受けた上に新都郡の丞に左遷されてしまった。

252年、孫権が危篤になると、孫弘は諸葛恪孫峻滕胤呂拠と共に後事を託された。孫弘は孫権が危篤である機会を利用し、詔書を捏造して追手を派遣し、朱拠を自殺させたという。次の日、孫権が死去し孫亮が即位したが、孫弘は諸葛恪と仲が悪かったことから、孫権の死を隠して諸葛恪を排除しようと謀った。しかし、孫峻がこの事を諸葛恪に告げたため露見し、諸葛恪に誅殺されてしまった。