孝端顕皇后

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孝端顕皇后王喜姐

孝端顕皇后(こうたんけんこうごう、1564年11月7日嘉靖43年10月4日) - 1620年5月7日万暦48年4月6日))は、万暦帝皇后である。姓王 喜姐(おう きしゃ)[1]

浙江余姚の出身。従九品文思院副使の王偉の長女として生まれた。万暦6年(1577年)、選抜されて皇后となった。父の王偉は伯爵(永年伯)に封じられた。

真赤の服を好み[2]、後宮の主として聡明かつ謹厳な性格で、極めて有能であった。万暦帝の文書の収集、整理、皇太后たちへの孝事をこなし、太子朱常洛(のちの泰昌帝王皇貴妃の子)を支持し、皇帝の寵妃(鄭皇貴妃)には寬容で、自身に皇帝の寵愛はなくとも皇后の地位を盤石にした。一方で、鬱憤を晴らすために宮女や太監(宦官)たちへの虐待を数多く行い、時には折檻して死に至らしめたと後年、太監劉若愚が『酌中志』で回顧している。

万暦48年(1620年)、万暦帝に先立つこと4か月にして崩じた。孝端貞恪荘恵仁明媲天毓聖顕皇后諡号を贈られ、定陵に次代の生母王皇貴妃とともに帝と合葬された。生涯のライバル鄭皇貴妃は立后を謀ったが失敗に終わり、金山への埋葬を余儀なくされた。

子女[編集]

  • 朱軒媖(栄昌公主)

脚注[編集]

  1. ^ 餘姚雙雁万暦皇后王喜姐宗譜(原姓黄)
  2. ^ 定陵考古報告

参考文献[編集]

  • 明史
  • 『明神宗実録』
  • 『酌中志』
  • 『万暦野獲編』
  • 『万暦起居注』