孝毅皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

孝毅皇后(こうきこうごう、1614年以前[1] - 隆武2年8月9日1646年9月17日))は、南明隆武帝の皇后。姓は曾氏

経歴[編集]

南昌の人。書生の曾文彦と何氏の娘として生まれた。崇禎5年(1632年)、朱聿鍵(のちの隆武帝)は唐王となり、曾氏は王妃(正室)となった。溌剌とした、強く剛勇な気性であった。

崇禎10年(1637年)、朱聿鍵が庶人に落とされ、曾氏も共に鳳陽高墻(皇族の監獄)に収監された。獄中で、朱聿鍵は度重なる体罰によって一度は危篤状態に陥った。曾氏は常に夫の側から離れず、崇禎帝に抗議して上書した。崇禎17年(1644年)、崇禎帝が自殺し、弘光帝が南京で即位すると恩赦を受け、広西平楽に移されることになった。移送中に弘光帝が清軍に囚われたとの報を受けた朱聿鍵は、自ら皇帝に即位し、曾氏は皇后となった。曾氏は政治に対し熱心に参画し、隆武帝とたびたび喧嘩をしていた。

隆武2年(1646年)7月、清軍が福州を攻撃すると汀州に逃れたが、翌月に清の李成棟の軍によって捕らえられた。途中、九龍灘において、清軍の警備が手薄な状態に乗じて、入水自殺した。10人ほどの宦官殉死した。翌年、永暦帝により孝毅貞烈慈粛賢明承天昌聖襄皇后諡号が贈られた。

子女[編集]

  • 朱琳源(太子)− 兎唇を持つ。隆武2年6月1日(1646年7月13日)に生まれ、同年8月に混乱の中で死去した。

伝記資料[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 19歳で朱聿鍵と結婚した。崇禎5年6月2日に朱聿鍵が唐王となった際に王妃となった。