姉川 (通報艦)

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姉川
「姉川」1906年(明治39年)3月10日(推定)[1]
「姉川」1906年(明治39年)3月10日(推定)[1]
基本情報
建造所 ジョン・ブラウン社[2](クライドバンク[3])
運用者  大日本帝国海軍
艦種 通報艦[4]
母港[5]
艦歴
進水 1898年[3]9月[2]
除籍 1911年8月22日[6]
要目
排水量 (常備[注釈 1])11,700英トン[7]
長さ 140.1m[2]
垂線間長 467 ft 0 in (142.34 m)[8]
最大幅 57 ft 1+3/8 in (17.41 m)[8]
吃水 21 ft 4 in (6.50 m)[8]
または6.6m[2]
ボイラー ベルビール式[9]石炭専焼缶 30基[8]
主機 3段3筒レシプロエンジン2基[8][9]
推進 2軸[8]
出力 9,047hp[8]
または 12,500hp[2]
速力 16.9ノット[8]
燃料 石炭庫容量 1,583kL[10]
乗員 計画乗員 317名[8]
または1906年定員 439名[11]
兵装 15.2cm単装砲 4門[8]
40口径7.6cm単装砲 4門[8]
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姉川(あねかわ/あねかは[12])は日本海軍通報艦。艦名は滋賀県姉川に因む[13]。ちなみにロシアでの旧名である「アンガラ」も河川名であり、発音が似ているから「姉川」としたという推測もある[14]

概要[編集]

旅順港内で擱座した状態の「アンガラ」。白色船体に帯を巡らせた規定塗装や、後部マストの赤十字旗など、病院船であったことがわかる。ただし、病院船としての保護を受けるには、交戦国への通知が別途要件となる

元々はイギリスのクライドバンク社で1898年(明治31年)9月に進水したロシア義勇艦隊の汽船「モスクワ」。オデッサからウラジオストク旅順へ陸兵や軍需物資を輸送していた。日露間の緊張が高まったため1903年(明治36年)に15cm砲4門などを積み仮装巡洋艦に改装、「アンガラ」と命名され同年末に旅順に来港した。

日露戦争開戦後の1904年(明治37年)3月に備砲を撤去し病院船となっていたが、ロシア海軍は日本側にきちんと通告していなかった。そのため旅順陥落で自沈していた本船を日本軍が浮揚し整備、1905年(明治38年)6月3日に「姉川丸(あねかわまる/あねかはまる)」と命名[15]、翌1906年(明治39年)3月8日に通報艦「姉川」とした[4]

戦後にロシアから病院船の拿捕であると抗議を受け、結局明治天皇からロシア皇帝に贈与する形で返還することとなった。1911年(明治44年)8月22日除籍し宮内省に移管する。9月2日呉港を出港し同月6日のウラジオストク到着後、同地でロシアに引き渡された。

船名は「モスクワ」に戻る。1916年(大正5年)11月に「ペチェンガ(Pechenga)」と改名、1922年(大正11年)までは機関不能の状態でウラジオストクにあった[16]

艦長[編集]

日本海軍[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

姉川丸
  • 石橋甫 大佐:1905年8月12日 - 1905年11月21日
  • 花房祐四郎 大佐:1905年11月21日 - 1906年3月7日
姉川
  • 花房祐四郎 大佐:1906年3月8日 - 1908年5月15日
  • 山本竹三郎 大佐:1908年5月15日 - 1908年12月10日
  • (兼)笠間直 大佐:1908年12月10日 - 1909年10月11日
  • 小黒秀夫 大佐:1910年4月9日 - 1910年6月22日
  • (兼)田所広海 大佐:1910年6月22日 - 1910年9月26日
  • 広瀬順太郎 大佐:1910年9月26日 - 1910年12月1日

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #海軍制度沿革巻八p.11では単に排水量とあるが、#日本補助艦艇物語pp.378-379では常備排水量としている。

出典[編集]

  1. ^ #日本海軍全艦艇史p.469
  2. ^ a b c d e #日本軍艦史p.63
  3. ^ a b #日本海軍艦船名考p.150
  4. ^ a b 明治39年3月8日付 達第29号。#海軍制度沿革巻八p.68にも記載がある。
  5. ^ #海軍制度沿革巻八p.393、明治三十八年六月三日、達七一。
  6. ^ #海軍制度沿革巻八p.72、達九六。
  7. ^ #海軍制度沿革巻八p.11
  8. ^ a b c d e f g h i j k #日本補助艦艇物語pp.378-379
  9. ^ a b #戦利艦艇12画像9
  10. ^ #明治39年軍艦姉川丸現状報告画像11
  11. ^ #海軍制度沿革巻十の1p.487、明治三十九年三月八日(内令七〇)、「通報艦定員表 其四」。将校同相当官20人、兵曹長相当官8人、下士61人、卒350人。
  12. ^ 明治39年3月8日付 達第26号。
  13. ^ 『日本海軍艦船名考』、p. 150。
  14. ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p117-118。
  15. ^ 明治38年6月3日付 達第71号。
  16. ^ この部分は『日本軍監史 第7巻』p445による。『聯合艦隊軍艦銘銘伝』では「アンガラ」に戻ったとする説と「ペジェンカ」と改名したという説があるが、極東地域で長期に渡って就役していたようである、としている。

参考文献[編集]

  • 浅井将秀/編 『日本海軍艦船名考』 東京水交社1928年12月
  • 『海軍制度沿革 巻八』明治百年史叢書 第180巻、海軍省/編、原書房、1971年10月(原著1941年)。
  • 『海軍制度沿革 巻十の1』明治百年史叢書 第182巻、海軍省/編、原書房、1972年4月(原著1940年)。
  • 『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、海軍歴史保存会、1995年11月
  • 片桐大自 『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』 光人社、1993年ISBN 4-7698-0386-9
  • 『世界の艦船増刊第44集 日本軍艦史』、海人社、1995年8月ISBN 4-905551-55-2
  • 福井静夫 『日本補助艦艇物語』福井静夫著作集第10巻、光人社、1993年12月ISBN 4-7698-0658-2
  • 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』 ベストセラーズ、1994年ISBN 4-584-17054-1
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C10100587500 『明治39年1月1日~明治39年12月1日 軍艦姉川丸現状報告』。
    • Ref.C09050798400 『海令機密第20号に対する回答及関係書類7止戦利艦艇(12)』。

関連項目[編集]