大野龍太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大野 龍太(おおの りゅうた、1892年11月15日 - 1957年2月6日)は、日本大蔵官僚大蔵次官

来歴・人物[編集]

神戸一中第一高等学校、1917年7月東京帝国大学法科大学政治学科卒業。同年、大蔵省入省。

1927年2月に大蔵省特別銀行課長兼蔵相秘書官に。のち蔵相秘書官首相秘書官を挟んで、特銀課長在任中の事柄を問われ訴追された(帝人事件)。そのため1934年5月から1937年12月まで休職。

帝人事件が検察側の控訴断念により終息したことで、1938年6月に理財局長に。翌年1939年1月から1940年7月まで次官を務めた。1942年4月から戦時金融金庫副総裁、1944年3月から1945年10月まで同・総裁に。

戦後の1946年から1951年8月まで公職追放

家族[編集]

栄典[編集]

参考文献[編集]

  • 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(戦前期官僚制研究会編、東京大学出版会、1981年)

脚注[編集]

  1. ^ 大野輝吉『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  2. ^ 丹波謙蔵『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  3. ^ 神戸元町に本社があった丹波屋商店についてレファレンス協同データベース
  4. ^ 大野龍太『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
公職
先代
石渡荘太郎
日本の旗 大蔵次官
1939 - 1940年
次代
広瀬豊作