大舘尚氏

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大舘尚氏
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 享徳3年(1454年
死没 天文15年(1546年)以降[1]
改名 重信(初名)→尚氏→常興(法名)
別名 十郎(仮名)、長楽軒・宝秀軒(
官位 従四位下、治部少輔、兵庫頭、弾正少弼、左衛門佐、伊予
幕府 室町幕府奉公衆内談衆
氏族 大舘氏
父母 父:大舘教氏
正室:山名豊之の娘
光重治部少輔)、高信兵庫頭)、
晴光藤安、娘(足利義晴側室)、娘(玄秀室)
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大舘 尚氏(おおだち ひさうじ)は、室町時代後期(戦国時代)の武将大舘教氏(「教」字は足利義教偏諱)の子。叔母に大舘佐子。初名は重信(しげのぶ)、のち尚氏に改名。また、法名常興(じょうこう)でも知られている。

生涯[編集]

寛正4年(1463年)に父・教氏が38歳で急死すると、祖父持房の後見を受けて、8代将軍足利義政(義教の子)に出仕する。

文明元年(1469年)に将軍世子足利義尚に付けられて申次となり、義尚の将軍就任後は御供衆申次衆を務めて奉公衆第五番番頭を兼務、二階堂政行結城政胤尚豊らと共に将軍側近として活躍した。また、義尚の偏諱を受けて、尚氏と改名した。

長享元年(1487年)の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)には奉公衆第五番を率いて参加、政行・政胤らと共に評定衆に任じられて、義尚の政務決裁に参与した。2年後に義尚が急逝すると、即時撤退を唱えて六角氏の反撃を食い止めた。だが、義尚の元で権力を振るった政行・政胤らに連座して失脚して番頭も解任された。その後も幕府に用いられて永正2年(1505年)に従四位下に叙せられる。

また、若狭の青保・松永・安賀・鳥羽・宮川各荘など北陸地方における幕府御料所代官を務めた。12代将軍足利義晴の代には幕臣の長老として重んじられて申次・内談衆に任じられ、娘を義晴の側室にするなど破格の待遇を受けた。また、義晴の養育係と推定される佐子局(清光院)も三淵晴員の姉が常興(あるいは大舘氏一族)の養女になって義晴に仕えたとする説もあり、常興の実娘も彼女の跡を継いで佐子局と名乗ったとされている[2]。また、娘の一人が本願寺一族の玄秀に嫁いでいるが、玄秀は大館氏の所領である加賀国若松荘に拠点を置いている若松本泉寺の親族である。

尚氏は有職故実に詳しく、能筆として知られた他、和歌連歌蹴鞠にも通じていた。有職故実の著書としては、『大舘常興書札抄』・『大舘年中行事』などがある他、晩年に執筆された日記大舘常興日記』は戦国期の室町幕府の動向を知る上で貴重な史料となっている。このため、三条西実隆公家僧侶とも親交が厚かった。更に役職柄、各地の戦国大名との連絡役を務めることが多く、特に越後長尾氏との取次に関する史料が残されている。義晴-尚氏-長尾為景晴景の交渉は、次代の足利義輝-大舘晴光-長尾景虎(上杉謙信)へと継承されることとなる。

晩年は出家して常興と名乗り、伊予入道とも称したが、天文15年(1546年)の舎利寺の戦い後に近江国に逃れた義晴に老齢であった尚氏が同行したとされている[3]ことから、具体的な没年は不詳であるが、この時点では健在であったと考えられている[注釈 1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 木下昌規は尚氏の没年を天文10年代(1541-50年)末と推定している[4]

出典[編集]

  1. ^ 生没年は『日本史大事典』説。
  2. ^ 設楽薫「将軍足利義晴の嗣立と大館常興の登場」『日本歴史』第631号、2000年。 /所収:木下昌規 編『足利義晴』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第三巻〉、2017年。ISBN 978-4-86403-162-2 
  3. ^ 『戦国人名辞典』(2006年)。
  4. ^ 木下昌規 著「総論 足利義晴政権の研究」、木下昌規 編『足利義晴』思文閣出版〈シリーズ・室町幕府の研究3〉、2017年、29頁。ISBN 978-4-86403-253-7 

参考文献[編集]