大矢根博臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大矢根 博臣
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県三豊郡仁尾町(現:三豊市
生年月日 (1935-07-01) 1935年7月1日(88歳)
身長
体重
174[1] cm
69[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1954年
初出場 1954年8月28日
最終出場 1962年9月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大矢根 博臣(おおやね ひろおみ、1935年昭和10年〉7月1日 - )[1]は、香川県三豊郡仁尾町(現:三豊市仁尾町)出身の元プロ野球選手投手[2]。右投右打。

現役時代はNPBセントラル・リーグ)の中日ドラゴンズ先発投手として活躍し、在籍7年間(1954年 - 1960年)で8452を記録した[1][3]。特に1956年には中日のエースとして20勝を挙げ、1958年には自己最多の24勝[注 1]を挙げた[2]

中日時代の通算防御率は1.99、通算勝率は0.618[9]2020年シーズン終了時点で、前者は中日の球団記録であり、後者も杉下茂服部受弘吉見一起に次ぐ球団史上4位(いずれも通算投球回1000イニング以上の投手に限る)である[9]

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

明治から続く刃物製造業者の実家に三男として産まれたが、小学生のころに戦争が激化し、野球を始めた時期は高校入学後だった[2]

香川県立観音寺第一高等学校時代は甲子園には出場できず、2年生夏の県予選[注 2]1953年〈昭和28年〉)で準決勝まで進んだのが最高位で、志度商業高校相手に敗退[注 3][2]。同じ北四国ブロックに在籍していた松山商業高校愛媛)には、後に中日ドラゴンズで同僚となる空谷泰(児玉泰1953年夏の甲子園優勝投手)がいたが[10]、大矢根は県内屈指の好投手として知られ[2]、「空谷以上の快速球を投げる投手」という評価も得ていた[1]

本人は大学進学を希望[注 4]しており、大洋松竹ロビンス(洋松ロビンス)からの勧誘も固辞していたが、中日の二軍監督・宮坂達雄の熱意にほだされた父親から勧められ[2]1954年(昭和29年)に空谷とともに中日に入団[1]。当時の中日二軍スタッフは監督とマネージャーのみで、一軍の投手コーチ捕手野口明が兼任していた[注 5][11]。プロ入り当時の背番号37[12]

中日時代[編集]

プロ入り当初は同期の空谷に比べ、甲子園出場経験のない大矢根への注目度は低かったが、1年目(1954年)は二軍(新日本リーグ)で下積みを重ねた[2]。その後、敗戦処理で一軍登板の機会を得ると、次第に天知俊一監督の信頼を勝ち得て[11]、同年9月23日の対洋松ロビンス戦(ダブルヘッダー第2試合)[注 6]でプロ初先発[14]。洋松打線を3安打に抑え、2対0で完封勝利を記録する[注 7][14]。リーグ最終戦(10月25日・中日球場)でも洋松に勝ち[13]、2勝を挙げて中日の球団史上初のセ・リーグ優勝に貢献した[注 8][11]。しかし同シーズン終了後に天知は突然辞意を表明し、後任の監督には野口明が就任した[16]。野口体制で迎えたプロ2年目(1955年)に背番号を19に変更し[12]、同年は先発ローテーションに定着して[3]6勝を挙げた[2]

1956年(昭和31年)はエースの杉下茂から「自分の決め球を作れ」という助言を受け、決め球となる「沈むシュート」(ツーシーム)を習得[注 9][2]。同年は杉下が14勝14敗と貯金を作れず[注 10]、チームはセ・リーグ3位に終わったが、自身は中山俊丈[注 11](左腕)とともに左右の両輪として活躍[18]。20勝13敗(21完投[19]・防御率1.53(セ・リーグ3位)[注 12]を記録する活躍を見せ[21]、杉下に代わる中日のエースとして認められるようになった[2]。また同年には40回1/3の連続イニング無失点記録[注 13]を樹立したが[3]、これは2020年10月14日に大野雄大が更新[注 14]するまで、64年間にわたり中日の球団記録だった[24]

1957年(昭和32年)は肘痛に苦しみ[1]規定投球回には到達できず[注 15][25]、12勝に終わったが[1]、同年10月12日の対大阪タイガース23回戦(甲子園球場)でノーヒットノーラン[26](2リーグ制施行以降ではセ・リーグ史上9回目)を達成した[27]。この試合における与四死球は3、奪三振はわずか2で[27]、本人は試合後に「調子はよくなかったが、その分慎重に投げたのがよかった」と振り返っていた[26]

1958年(昭和33年)はエース杉下が衰えて11勝[注 16]に終わったが[14]、自身はシュート中心の技巧派投手に転向し、自己最多の24勝[注 1]を挙げた[1]。また、防御率1.61は金田正一国鉄スワローズ・防御率1.30)、藤田元司読売ジャイアンツ〈巨人〉・防御率1.53)に次ぐセ・リーグ投手成績3位だった[29]。同年はオールスターゲーム第2戦(広島市民球場)にも出場したが、4回表に中西太(西鉄)から3点本塁打を打たれている[30]。杉下は同年限りで現役を引退し、翌1959年 - 1960年に中日の監督を務めた[31]が、1961年に毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)で現役復帰した[28]

1959年(昭和34年)は[32]、春季キャンプ中盤に腰を痛め、12試合登板・5勝と不振に終わる[2]。同年5月3日の対巨人戦では先発登板が発表されていたが、試合前にブルペンで腰痛を発症し、出場を回避した[注 17][33]

1960年(昭和35年)には15勝を挙げて復調の兆しを見せ、「1年おきのエース」とも言われた[34][1]が、チームは投手陣の崩壊[注 18]により、セ・パ分立後では初のBクラス(5位)に終わる[35]同年のオールスターゲームでは第1戦(川崎球場)・第3戦(後楽園球場)にそれぞれ登板した[36][37]

交通事故・トレード[編集]

しかし1960年11月26日、自身の運転する乗用車で滋賀県甲賀郡石部町石部(現:湖南市)の国道1号大阪方面に向けて運転していたところ、前方に停車していたトラックに追突[38]。乗用車は横転し、対向車と激突して大破した[38]。この事故により、乗用車に同乗していた女性2人(24歳・19歳)が全身強打で即死し、自身も頭蓋骨骨折の重傷を負った[注 19][38]。野球の動作に関わる箇所には怪我はなかったが[注 20]、この出来事で精神的ショックを受け、「名古屋にはいられない」とトレードを志願[注 21][2]。12月17日に小淵泰輔とのトレードで西鉄ライオンズへ移籍することが発表された[39]

同年、5位に低迷した中日球団は杉下に代わり、濃人渉新監督[注 22]の就任が決まっていたが、濃人は日鉄二瀬社会人野球)時代に師弟関係にあった小淵の獲得を希望し、投手陣の補強が課題となっていた西鉄[注 23]にトレードを打診[42]。その交換相手として、中日側は12月12日に児玉(旧姓:空谷)・中山・河村保彦の3投手から1人を選ぶよう西鉄側に提示[42]。これに対し、西鉄側は西亦次郎球団社長らフロント最高幹部と、川崎徳次監督による協議の結果、大矢根が先述の事故から「他球団に移籍して出直したい」と志願していることを把握したため、「第1候補は児玉、第2候補は河村。2人が拒否した場合は大矢根を指名する」と決定[43]。直接交渉に入ると、中日側が児玉・河村のトレード要員を撤回したため、大矢根と小淵のトレードが成立した[注 24][43]。この時、中日は大矢根に対し、事故被害者への慰謝料170万円+大矢根自身への功労金200万円を支給している[注 25][43]

中日退団後[編集]

西鉄ライオンズ時代(1961年 - 1962年)の背番号は1[49]。環境を変えて心機一転を図ったが[2]、西鉄では在籍2年間でわずか2勝4敗の成績に終わり[43]1962年(昭和37年)限りで現役を引退した[2]

現役引退後は東海ラジオ放送野球解説者に就任し、中日ドラゴンズOB会副会長も務めた[注 26]ほか、愛知県名古屋市内でクラブを経営[注 27]していた[2]。85歳になった2020年令和2年)には自身の連続無失点球団記録を大野が更新したことに伴い、中日球団の親会社である中日新聞社から取材を受け、「自身が球団記録を持っていたことは覚えていなかった」というコメントを発表した[19]

選手としての特徴[編集]

思い切りよく内角を突く投球術と、曲がりながら落ちるシュートを武器に活躍した[11]。プロ入り当初は速球カーブを織り交ぜる投球スタイルだったが、杉下からの助言を受けてシュートを習得したことが飛躍につながった[2]。また奪三振は少なく、少ない球数で力よりも技で勝負する投手だった[19]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1954 中日 7 2 0 0 0 2 0 -- -- 1.000 112 27.1 24 1 3 -- 2 12 2 0 8 7 2.25 0.99
1955 32 12 4 2 2 6 5 -- -- .545 577 145.0 123 3 33 2 2 75 4 0 33 25 1.55 1.08
1956 43 30 21 8 7 20 13 -- -- .606 1090 281.1 222 6 43 2 5 119 1 0 60 48 1.53 0.94
1957 29 18 10 4 1 12 7 -- -- .632 639 161.0 123 6 42 3 4 96 0 0 42 41 2.29 1.02
1958 53 38 21 6 4 24 13 -- -- .649 1286 329.2 243 15 93 11 6 147 0 0 67 59 1.61 1.02
1959 12 11 1 0 0 5 1 -- -- .833 273 62.1 66 3 16 0 1 31 0 1 27 21 3.00 1.32
1960 45 28 13 3 0 15 13 -- -- .536 880 216.2 190 15 54 4 2 85 0 0 78 69 2.86 1.13
1961 西鉄 15 11 1 0 0 2 4 -- -- .333 227 52.1 61 2 11 0 1 16 1 0 30 23 3.91 1.38
1962 11 2 0 0 0 0 0 -- -- ---- 85 21.0 24 3 2 0 0 6 1 0 13 13 5.57 1.24
通算:9年 247 152 71 23 14 86 56 -- -- .606 5169 1296.2 1076 54 297 22 23 587 9 1 358 306 2.12 1.06
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 37 (1954年)[12]
  • 19 (1955年 - 1960年)[12]
  • 1 (1961年 - 1962年)[49]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 中日の投手でシーズン24勝以上を挙げた投手は、大矢根以外では服部・杉下・権藤博小川健太郎の計4人のみである[2]。このうち服部は現役時代の背番号10を中日球団の永久欠番に指定されている[4]ほか、杉下・権藤・小川の3名はいずれも沢村栄治賞(沢村賞)を受賞したことがある[5][6]。なお、服部は1リーグ時代(1949年)に24勝を挙げている[7][8]
  2. ^ この大会前にはクラス対抗のリレー大会に参加したが、その際に腰に全治3か月の重傷を追っていたため、野球の練習はほとんどできていなかった[2]
  3. ^ もし同試合で勝利して決勝戦に進出していた場合、空谷の所属する松山商業高校と対戦するはずだった[2]
  4. ^ 慶應義塾大学早稲田大学が近隣でキャンプを張った際には志願して参加していた[2]
  5. ^ 大矢根自身は2016年に『中日新聞』記者から取材を受けた際、「(現在と比べて)コーチが少なかった」と述べている[11]
  6. ^ 第109試合・中日球場[13]
  7. ^ この試合は途中までパーフェクトで抑えていたが、「早いうちに大記録を出すと潰れる」という言い伝えを聞いていた天知監督は7回ごろ、大矢根に「ヒット打たれろ」と指示[11]。これを受けて大矢根はノーサインで真ん中に投げるようになり、9回に初被安打を記録した直後に杉下に交代した[11]
  8. ^ その後、チームは日本シリーズ西鉄ライオンズを下し、球団史上初の日本一に輝いたが、シリーズでは大矢根の登板機会はなかった[15]
  9. ^ シュートの習得時期は1957年とする文献もある[14]。シュートを投げ始めた動機は、ライバルの空谷が「野茂(英雄)のような投げ方」で、「スピードでは(空谷に)勝てない」と考えたためだった[11]
  10. ^ ただし、防御率は2.00だった[17]
  11. ^ 同年は中山も20勝を挙げ、リーグ4位の防御率1.61を記録したほか、空谷も規定投球回には到達しなかったものの、初の2桁勝利となる11勝を挙げ、防御率1.75を記録した[18]
  12. ^ 渡辺省三(大阪タイガース・防御率1.45)、堀内庄(巨人・防御率1.46)に次ぐ[20]
  13. ^ この間、8月5日(対国鉄スワローズ戦) - 同月19日(対広島カープ戦)の5回まで(計5試合)で、3回の完封勝利を記録した[3]。なおこの無失点記録の継続中、奪三振数は最多でも1試合あたり6だった[19]
  14. ^ 大野は最終的に45イニング(同シーズン時点でNPB単独12位)まで連続無失点記録を伸ばし[22]、同年の沢村賞を受賞した[23]
  15. ^ 同年の規定投球回到達者は中山(23勝・防御率はリーグ3位の1.82)と空谷の2人[25]
  16. ^ 大矢根に次ぐチーム2位の勝利数である[28]
  17. ^ 中山俊丈が代わりにリリーフ扱いで登板[33]。ただし大矢根の登板は記録された[33]
  18. ^ 2年目の板東英二が10勝を挙げたが、児玉(前年20勝)と中山俊丈がともに3勝に終わった[35]
  19. ^ 中日では大矢根以前に石川緑も自動車事故を起こしていた[38]
  20. ^ 頭蓋骨骨折に加え、左手甲ほか全身を打撲したが、右腕には大事はなく[38]、約1か月後(西鉄へのトレード発表時)に西鉄の川崎監督は「もう大丈夫だ。(春の)キャンプからでも投げられそう」とコメントしていた[39]
  21. ^ ベースボール・マガジン社 (2005) は「真のエースへの飛躍が期待されたが、交通事故などが大成を阻んだ」と[14]、ベースボール・マガジン社 (2016) は「交通事故で負傷し、ショックもあって西鉄へ(トレードされた)」と述べている[1]
  22. ^ 濃人は「天知カラー」の一掃を図り、同時期(1960年オフ)に岡嶋博治(→阪急ブレーブス)・伊奈努(→阪神)を相次いで放出した[40]ほか、1961年オフにも森徹(→大洋ホエールズ)・井上登(→南海ホークス)と[41]、生え抜きの主力選手たちを次々と放出していた[2]。また1961年オフには、児玉も捕手の吉沢岳男とともに近鉄バファローズへ放出された[41]。ただし、広瀬いくと (2020) は「大矢根のトレードは事故を受けて大矢根自身が志願したものであり、岡嶋・伊奈らとのトレードと同列に語られるべきではない」と述べている[2]
  23. ^ 西鉄は当時、計算できる投手が稲尾和久しかいなかった[42]
  24. ^ 大矢根は12月15日に名古屋を訪れた西鉄の川崎監督からトレードの話を聞かされて承諾し[39]、同月19日に西鉄球団事務所でトレードに調印した[44]
  25. ^ なお、大矢根は西鉄移籍後の1961年5月11日に業務上過失致死容疑で福岡地検から在宅起訴され[45]、同年6月20日に福岡地裁にて開かれた初公判で「前から来た車のライトに目がくらみ、ブレーキを踏む余裕もなかった」と述べた[46]。これに関し、被告人・大矢根の弁護人は「自動車の運転手は(対向車の)ライトで心神耗弱を起こす」として、交通事故の刑事裁判では初となる鑑定を申し入れた[46]。結局、大矢根は同年7月4日に福岡地検から禁錮8月を求刑され[47]、同月18日に禁錮8月・執行猶予2年の判決を言い渡された[48]
  26. ^ 1999年11月28日の第32回OB会総会で副会長として新任され[50]、2002年11月24日の総会でも再任された(任期は2003年1月1日から2年間)[51]
  27. ^ 2007年に中日が球団史上2回目(大矢根の入団年である1954年以来)となる日本一(日本シリーズ優勝)を達成した際、大矢根は名古屋市中区内でスナックを経営していた[52]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n ベースボール・マガジン社 2016, p. 44.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 広瀬いくと「64年前の連続無失点記録ピッチャー・大矢根博臣の足跡:達人に訊け!>広瀬いくとの発掘!B面ドラゴンズ史」『中日新聞Web中日新聞社、2020年10月26日。2020年11月25日閲覧。オリジナルの2020年11月25日時点におけるアーカイブ。
  3. ^ a b c d 【中日】大野雄大が45回連続無失点の球団新…前記録保持者・大矢根投手はどんな選手?」『スポーツ報知報知新聞社、2020年10月23日。2020年11月24日閲覧。オリジナルの2020年11月24日時点におけるアーカイブ。
  4. ^ 渋谷真「渋谷真コラム・龍の背に乗って[強竜列伝・服部受弘] 奇跡の代打逆転満塁本塁打…しかもそのままマウンド上がって“勝ち投手”に 中日の永久欠番「10」の歴史」『中日スポーツ中日新聞社、2020年9月18日。2020年11月27日閲覧。オリジナルの2020年11月27日時点におけるアーカイブ。
  5. ^ ベースボール・マガジン社 2005, p. 153.
  6. ^ 渋谷真「渋谷真コラム・龍の背に乗って 実は今季「世界で最も完投」…大野雄のカギは“防御率と奪三振” 中日で憲伸以来16年ぶり沢村賞なるか」『中日スポーツ』中日新聞社、2020年10月30日。2020年11月27日閲覧。オリジナルの2020年11月27日時点におけるアーカイブ。
  7. ^ ベースボール・マガジン社 2005, p. 33.
  8. ^ ベースボール・マガジン社 2016, p. 89.
  9. ^ a b 記録集 > ドラゴンズ投手通算リーダーズ(在籍通算)”. 中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト. 中日ドラゴンズ. 2020年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月18日閲覧。
  10. ^ ベースボール・マガジン社 2016, pp. 43–44.
  11. ^ a b c d e f g h 『中日新聞』2016年3月30日朝刊第二運動面26頁「CDの系譜 1954 初の日本一 インタビュー 54年入団 大矢根博臣さん 職人と一緒で見て勉強」(中日新聞社)
  12. ^ a b c d ベースボール・マガジン社 2016, p. 125.
  13. ^ a b ベースボール・マガジン社 2016, p. 100.
  14. ^ a b c d e ベースボール・マガジン社 2005, p. 47.
  15. ^ 中日ドラゴンズ 2016, pp. 84–85.
  16. ^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 88.
  17. ^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 89.
  18. ^ a b ベースボール・マガジン社 2016, p. 41.
  19. ^ a b c d 渋谷真「渋谷真コラム・龍の背に乗って 85歳の楽しみは野球のTV観戦…「そんな記録を私がねぇ」中日・大野雄が掘り起こした64年前の投手」『中日スポーツ』中日新聞社、2020年10月23日。2020年11月24日閲覧。オリジナルの2020年11月24日時点におけるアーカイブ。
  20. ^ 年度別成績 1956年 セントラル・リーグ”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構 (1956年). 2020年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  21. ^ ベースボール・マガジン社 2013, p. 58.
  22. ^ 中日大野雄大、連続イニング無失点記録45で止まる」『nikkansports.com日刊スポーツ新聞社、2020年10月29日。2020年11月24日閲覧。オリジナルの2020年11月24日時点におけるアーカイブ。
  23. ^ 中日新聞』2020年11月24日朝刊一面1頁「大野雄 初の沢村賞」(中日新聞社)
  24. ^ 5度目の完封勝利の中日・大野雄は無失点36イニングに 34イニング超え球団64年ぶり 31イニング超えは11年浅尾以来」『中日スポーツ』中日新聞社、2020年10月14日。2020年11月24日閲覧。オリジナルの2020年11月24日時点におけるアーカイブ。
  25. ^ a b ベースボール・マガジン社 2016, p. 42.
  26. ^ a b c 朝日新聞』1957年10月13日東京朝刊第12版9頁「大矢根(中日)もノーヒットノーラン 対阪神 セ・リーグ六人目 中日3-0阪神 甲子園(23回戦中日14勝8敗1分)」(朝日新聞東京本社
  27. ^ a b c 無安打無得点試合 (ノーヒットノーラン)”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年11月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月24日閲覧。
  28. ^ a b 中日ドラゴンズ 2016, p. 91.
  29. ^ 年度別成績 1958年 セントラル・リーグ”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構 (1958年). 2020年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  30. ^ 1958年度オールスター・ゲーム 試合結果(第2戦)”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構 (1958年7月29日). 2020年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  31. ^ 中日ドラゴンズ 2016, pp. 92–93.
  32. ^ a b 中日ドラゴンズ 2016, p. 92.
  33. ^ a b c 宇佐美徹也 1993, p. 776.
  34. ^ ベースボール・マガジン社 2013, p. 76.
  35. ^ a b 中日ドラゴンズ 2016, p. 93.
  36. ^ 1960年度オールスター・ゲーム 試合結果(第1戦)”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構 (1960年7月25日). 2020年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  37. ^ 1960年度オールスター・ゲーム 試合結果(第3戦)”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構 (1960年7月27日). 2020年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  38. ^ a b c d e 『朝日新聞』1960年11月26日東京夕刊第3版7頁「【水口=滋賀県】プロ野球選手またドライブ事故 大矢根(中日投手)が重体 乗用車横転、衝突 同乗の二女性即死」(朝日新聞東京本社)
  39. ^ a b c 『朝日新聞』1960年12月18日東京朝刊第12版9頁「【福岡】小淵と大矢根のトレードきまる」(朝日新聞東京本社)
  40. ^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 95.
  41. ^ a b 中日ドラゴンズ 2016, p. 96.
  42. ^ a b c 坪内道則 1987, p. 172.
  43. ^ a b c d 坪内道則 1987, p. 173.
  44. ^ 『朝日新聞』1960年12月20日東京朝刊第12版9頁「【福岡】大矢根調印」(朝日新聞東京本社)
  45. ^ 『朝日新聞』1961年5月11日東京夕刊第3版7頁「【福岡】大矢根投手を起訴」(朝日新聞東京本社)
  46. ^ a b 『朝日新聞』1961年6月20日東京夕刊第3版7頁「【福岡】“ライトに目がくらむ” 大矢根投手の初公判 法廷で“ナイター問答”」(朝日新聞東京本社)
  47. ^ 『朝日新聞』1961年7月5日東京朝刊第12版11頁「【福岡】大矢根投手に禁錮八月求刑」(朝日新聞東京本社)
  48. ^ 『朝日新聞』1961年7月18日東京夕刊第3版7頁「【福岡】大矢根投手に執行猶予判決」(朝日新聞東京本社)
  49. ^ a b 背番号の歴史”. 埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト. 埼玉西武ライオンズ (2020年). 2020年11月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月24日閲覧。
  50. ^ 『中日新聞』1999年11月29日朝刊第一運動面23頁「渡辺に努力賞 中日OB会総会」(中日新聞社)
  51. ^ 『中日新聞』2002年11月25日朝刊第二運動面20頁「新会長を選出 中日OB会総会」(中日新聞社)
  52. ^ 『中日新聞』2007年11月2日朝刊第一社会面39頁「07年竜 日本一 1954年日本一OB 『亡くなった仲間たちに見せたい』 『人生最良の瞬間』」(中日新聞社)
  53. ^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 84.
  54. ^ a b 中日ドラゴンズ 2016, p. 253.

参考文献[編集]

  • 坪内道則「むずかしさ実感した大矢根、小淵のトレード」『風雪の中の野球半世記』(第1版第1刷)ベースボール・マガジン社、1987年3月25日、172-173頁。ISBN 978-4583026268 
  • 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑【昭和11年→平成4年】』(第1刷発行)講談社(印刷所:廣済堂)、1993年8月1日。ISBN 978-4062061087 
  • 池田哲雄 編『中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡』ベースボール・マガジン社〈スポーツシリーズNo.234〉、2005年6月1日、47頁。ISBN 978-4583613246  - 『B・B MOOK』350
  • 『完全保存版 日本プロ野球偉人伝 vol.4 (1956→58編) 球史を彩るスーパースターたちの伝説 西鉄黄金時代の44人』 4巻、ベースボール・マガジン社〈球史発掘シリーズ〉、2013年7月17日、58,76頁。ISBN 978-4583620107  - 『B・B MOOK』951
  • 中日ドラゴンズ、中日スポーツ(企画協力) 編『中日ドラゴンズ80年史』(初版第1刷)中日新聞社(発行者:白井文吾)、2016年3月18日。ISBN 978-4806207009 
  • 池田哲雄 編『中日ドラゴンズ80年史 シリーズ3 1936-1973』ベースボール・マガジン社、2016年6月2日、44頁。ISBN 978-4583624440  - 『B・B MOOK』1310

関連項目[編集]

外部リンク[編集]