大湊 (伊勢市)

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大湊町
—  町丁  —
大湊(1983年)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
大湊町の位置(三重県内)
大湊町
大湊町
座標: 北緯34度31分37.3秒 東経136度44分5.9秒 / 北緯34.527028度 東経136.734972度 / 34.527028; 136.734972
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Mie Prefecture.svg 三重県
Flag of Ise, Mie.svg 伊勢市
地区 大湊地区
人口 (2011年5月31日)
 - 計 3,614人
等時帯 日本標準時 (UTC+9)
郵便番号 516-0001
市外局番 0596
ナンバープレート 三重

大湊(おおみなと)は、三重県伊勢市にある港町宮川河口付近の三角州にあり、中世から近世伊勢湾における商業海運の中心地であった。住所表記上の町名は大湊町(おおみなとちょう)。

1943年(昭和18年)に宇治山田市に編入され、1955年(昭和30年)に市名改称により伊勢市となった。

概要・歴史[編集]

伊勢神宮神郡であった伊勢国度会郡に属しており、近くに神宮直属の塩田(大塩屋御園)が存在したことから鎌倉時代以前から開けて、東海道東国各地にあった荘園からの年貢や各地から伊勢神宮への奉納品、生活物資の集積点として、また東国から神宮への参拝客の海の玄関口としてなど、神宮と東国を結ぶ中継地また伊勢における物流拠点として栄えた。

南北朝時代には伊勢神宮と南朝及び北畠氏との連携が強化され、1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)には、義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠親房結城宗広らが大湊から東国へ向かって船出して途中で難破し、親王らは伊勢国に引き返したが、親房の船だけが常陸国に漂着している。

室町時代には北畠氏の支配下に入るが、上納金と引き換えに24名の会合衆による自治が認められるようになった。1498年(明応7年)に明応地震による津波で1000軒の家屋が破壊されて5000人もの死者を出したにも関わらず、11年後に地元の国人愛洲氏(庶流の愛洲久忠が著名)との諍(イサカ)いがあった際に100の献金を行って和解している。1565年(永禄8年)の冬には1ヶ月の集計で船の入港が119隻、そこから納められた入港税が34貫870文(当時の米価は一石あたり600文(60疋/0.6貫)前後とされている)であったという。大湊は北畠氏のみならず、尾張織田氏三河徳川氏駿河今川氏相模北条氏など有力戦国大名とも強く結びついていた。このように当時の大湊は博多などと並ぶ日本の代表的な商業都市の1つであった。

安土桃山時代に織田信長が北畠具教を討ち、子の織田信雄に北畠氏を継がせると、伊勢湾は事実上織田氏の支配下に置かれるようになる。大湊側も抵抗を続けるものの、最終的に織田政権に屈して九鬼嘉隆の影響下に置かれた。

江戸時代には廻船問屋が自治を司り、廻船業者を対象とした船宿も発達し、港町としての繁栄を続けたが、河口の土砂の堆積により港湾機能が衰え、鳥羽の台頭もあり、次第に衰退していくことになる。ただし、港としての役割を失っても、古くから造船の町として栄えており[1]、造船に関連して、家釘、船釘、錠などの鉄工業も発達していた。

近代になり、多くの造船工を必要としたことから、1896年(明治29年)には町内に大湊工業補習学校(後に大湊造船徒弟学校、現:三重県立伊勢工業高等学校)の設立に至るほどであった[2]が、日本の造船業は高度経済成長期まで繁栄するものの、オイルショック期からは陰りが見えはじめた。倒産、廃業、業態転換などにより、大湊においても造船産業は衰退した。また伊勢工業高校の造船科も2005年(平成17年)4月1日に廃止となった。

度会郡大湊町[編集]

おおみなとちょう
大湊町
Ise Ominato at Showa10.jpg
1935年(昭和10年)の大湊
廃止日 1948年12月1日
廃止理由 編入合併
宇治山田市、大湊町宮本村浜郷村宇治山田市
現在の自治体 伊勢市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方東海地方
都道府県 三重県
度会郡
面積 2.30km²
総人口 2,662
(『三重県市町村合併誌』、1943年
隣接自治体 宇治山田市
度会郡二見町御薗村豊浜村
大湊町役場
所在地 三重県度会郡大湊町
 表示ノート編集履歴 ウィキプロジェクト

町村制の施行により、大湊は1889年(明治22年)4月1日に度会郡大湊町として単独町制を敷いた[3]1943年(昭和18年)12月1日、大湊町は宮本村浜郷村とともに宇治山田市に編入された[4]

歴代町長[編集]

町長 就任 退任
1 山中崔十 1890年6月17日 1899年6月27日
2 松崎与次郎兵衛 1899年7月26日 1903年9月2日
3 市川源吉 1903年9月3日 1909年6月4日
4 松本久七 1909年8月8日 1911年8月8日
5 西川駒三郎 1911年12月28日 1914年12月26日
6 山中崔十 1915年2月9日 1926年8月31日
7 新家元郎 1926年9月1日 1927年6月30日
8 田辺久吉 1927年9月27日 1929年12月25日
9 牛場勘四郎 1929年12月25日 1930年1月30日
10 浜地文平 1930年6月15日 1931年8月25日
11 菊川万次郎 1931年12月10日 1933年3月7日
12 岡冨士雄 1934年10月6日 1943年12月1日

現代[編集]

大湊の町並み
  • 郵便番号:〒516-0001
  • 人口: 3,614人、1,448世帯 (2011年5月31日現在、住民基本台帳人口による[5]

現在、町内の大部分は本土からは切り離されており、2つの橋で結ばれている。三角州とその対岸部の徳田新田を合わせて大湊町となっている。観光スポットではないものの、古来から栄えた所であり、河崎ほどではないが、古い家屋や町並みが残っている。また大湊の港にはヨットハーバーが設置されているが、一般の船舶は大湊を含む広い地域に築かれた宇治山田港に出入りするのがほとんどである。

かつて、大湊には川や海から運ばれる、伊勢神宮正殿社殿用の木材を集積・仕分けする貯木池が存在していた[6]。場所は現在の大湊小学校から東側全域で、小学校の敷地内に大湊貯木場跡の石碑がある。

1954年(昭和29年)にビキニ環礁での水爆実験の被害にあい被ばくしたマグロ延縄漁船「第五福竜丸」を放射能除去後に、東京水産大学(現:東京海洋大学)の練習船「はやぶさ丸」への改造を受託した造船所もこの町内に存在した[7]

小・中学校の学区[編集]

市立中学校に通う場合、学区は以下のようになる[8]

町名 地域 小学校 中学校
大湊町 下記除く全域 大湊小学校 港中学校
一部 神社小学校

主な施設[編集]

交通[編集]

主な出身者[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 大湊港造船所(度会郡大湊町) - 三重県 生活・文化部文化振興室
  2. ^ 大湊町立造船徒弟学校(度会郡大湊町) - 三重県 生活・文化部文化振興室
  3. ^ 伊勢市 (1968):33ページ
  4. ^ 伊勢市 (1968):20 - 21ページ
  5. ^ 伊勢市環境生活部戸籍住民課"人口統計情報"(2011年7月4日閲覧。)
  6. ^ 神宮貯木場(度会郡大湊町) - 三重県 生活・文化部文化振興室
  7. ^ 第五福竜丸の航跡をたどる『廃船』を観る会 6月10日 - 東京都立第五福竜丸展示館
  8. ^ 伊勢市教育委員会"通学区域から見る 「伊勢市立小中学校一覧」"(2013年9月20日閲覧。)
  9. ^ 菊川鉄工所(度会郡大湊町) - 三重県 生活・文化部文化振興室

参考文献[編集]

  • 伊勢市 編『伊勢市史』伊勢市役所、昭和43年3月31日、954p.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]