雄略天皇

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大泊瀬皇子から転送)
雄略天皇
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「雄略天皇」

在位期間
安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日
時代 伝承の時代古墳時代
先代 安康天皇
次代 清寧天皇

陵所 丹比高鷲原陵
漢風諡号 雄略天皇
和風諡号 大泊瀬幼武天皇
大泊瀬幼武、大泊瀬?、幼武?
別称 大泊瀬幼武尊
大長谷若建命
大長谷王
獲加多支鹵大王
倭王
父親 允恭天皇
母親 忍坂大中姫応神天皇皇孫)
皇后 草香幡梭姫皇女仁徳天皇皇女)
子女 清寧天皇
栲幡姫皇女
磐城皇子
星川稚宮皇子
春日大娘皇女仁賢天皇后)
皇居 泊瀬朝倉宮
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雄略天皇 (ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、日本の第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。『日本書紀』での名は大泊瀬幼武天皇。考古学的に実在がほぼ確定している古墳時代の天皇。

概略[編集]

雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の第五皇子。母は誉田天皇(応神天皇)の孫の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。木梨軽皇子・穴穂天皇(安康天皇)の同母弟。「記紀」によれば反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せて帝権を飛躍的に拡大させ、強力な専制君主として君臨したとされる。養蚕の推奨、新羅への出兵、への遣使などの政策を積極的に実施した。

兄である穴穂天皇(安康天皇)の崩御後、帝位継承の邪魔となる兄弟や従兄たちを粛清した後即位した。このとき誅殺した葛城円大臣の娘の葛城韓媛を妃とし白髪皇子(清寧天皇)を得た。また吉備上道臣田狭から妻の吉備稚媛を奪い磐城皇子星川稚宮皇子を得た。皇后は大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の皇女である草香幡梭姫皇女で血縁上は伯母にあたり、間に子はない。

『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭にその名が掲げられていることから、雄略天皇の時代が歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたことが窺える[1][2]。それまでの日本列島は各地の有力豪族による連合体であったが、雄略天皇の登場により大王による専制支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったとする見方もある[3]

埼玉県の稲荷山古墳より出土した鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵」(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))が『古事記』にある名称「大長谷若建」の中の「若建」(ワカタケルとしている)と『日本書紀』の名称「大泊瀬幼武」の中の「幼武」(これもワカタケルとしている)と類似しているとされていることから「考古学で存在が確認された最古の天皇」であるとされる。

[編集]

  • 大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
  • 大泊瀬天皇 (おおはつせのすめらみこと) - 『日本書紀
  • 大泊瀬皇子 (おおはつせのみこ) - 『日本書紀
  • 大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと) - 『古事記
  • 大長谷王(おおはつせのみこ) - 『古事記
  • 大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと) - 『日本書紀
  • 有徳天皇(おむおむしくましますすめらみこと) - 『日本書紀

漢風諡号である「雄略天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。『古事記』では、即位前の雄略天皇に対して「大長谷王」(おおはつせのみこ)という表記が度々見られる。通常、即位前の天皇に「命」(みこと)の称号を用いる『古事記』に於いて、「王」(みこ)の称号が用いられているのは異例である。

事績[編集]

即位前[編集]

允恭天皇7年12月、後に雄略天皇と呼ばれる大泊瀬皇子は允恭天皇とその皇后である忍坂大中姫応神天皇皇孫)の間に生まれた。誕生の際には神々しい光が宮殿に満ちたという。人並み外れて逞しく成長したが、同時に乱暴でもあった。

父帝が崩御した際、その弔問には新羅の使節も訪れたが、新羅人がなまりながら畝傍山(うねびやま)と耳成山(みみなしやま)を褒めたのを聞いた倭国の飼部(うまかいべ、部民)の部民は新羅人が采女(うねめ)に言い寄っていると思い込み、さらにそれを聞いた大泊瀬皇子は、新羅人を拘束して詰問した。新羅人は弁解して事なきを得たが、このことを大変恨めしく思い、その後、貢物や交易船の数を減らしてしまった。

また皇子の常に暴強たる様は、従姉妹にあたる反正天皇皇女たちへの求婚を拒絶され「朝に皇子と会った者は夕方に殺され、夕方に会った者は朝に殺されると聞きます、顔も性格も良くない自分たちに皇子の妻は務まりません」とまで言われるほどだった。

これを憂えた兄の穴穂天皇(安康天皇)は叔父の大草香皇子にその妹、すなわち天皇の叔母にあたる草香幡梭姫皇女を大泊瀬皇子の妃に差し出すよう命じた。大草香皇子は病床にあり妹の将来が心配だったため、妹の身分を保証する婚姻を喜んで受け入れた。しかし仲介役の根臣(坂本臣等の祖)が大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りするため、天皇に「大草香皇子は拒否した」と讒言をした。激怒した穴穂天皇は大草香皇子を殺害し、その妃である中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后とした。

即位[編集]

安康天皇3年8月9日、穴穂天皇(安康天皇)は皇后の連れ子である眉輪王(『古事記』では7歳とある)により父の敵として暗殺された。事件を知った大泊瀬皇子は動きの鈍い兄たちを非難し、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王をも殺そうとした。二人は葛城氏円大臣の邸に逃げ込んだが、大泊瀬皇子は三人共に焼き殺してしまった。穴穂天皇(安康天皇)は皇太子を指名することなく崩御したが、従兄弟の市辺押磐皇子履中天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる。しかし大泊瀬皇子は市辺押磐皇子とその弟の御馬皇子(みまのみこ)を狩りに連れ出して謀殺してしまった。市辺押磐皇子の子らは播磨へと逃走して潜伏し、後に仁賢天皇顕宗天皇となる。

混乱に乗じて競争相手を一掃した大泊瀬皇子は11月に帝位に就いた。

即位元年3月、叔母にあたる前述の草香幡梭姫皇女を立后。年齢差からか二人の間に子はなかったが、皇后は暴走しがちな天皇をうまく制御した。

専制[編集]

平群真鳥を大臣に、大伴室屋物部目大連に任じた大泊瀬幼武大王こと雄略天皇は、有力豪族を自らの足下に屈服させ、大王による強力な統治を確立しようとした。かねてより皇室の外戚として権勢を振るってきた葛城氏に対しては、上述の通り族長の円大臣を眉輪王を匿った廉で共々焼き殺し、その勢力を政権から駆逐した[注 1]

即位7年、最大の地域豪族であった吉備氏に対しても反乱鎮圧の名目で軍を送り(吉備氏の乱)、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備氏を弱体化させた。

即位13年8月、播磨国文石小麻呂を討伐した。

即位18年8月、伊勢国朝日郎を討伐した。

考古学的な調査からも、幼武大王が在位していたとみられる5世紀末頃より、地方豪族の首長墓から大型の前方後円墳が姿を消していることが確かめられている[5]

神事[編集]

即位9年2月、凡河内直香賜采女宗像大社へ神を祀るため遣わした。しかし香賜が神域の壇所に至り祭祀を行おうとする際、采女に淫らな行為を働いた。それを聞いた天皇は「神を祀り福を祈ることに際しては、慎しみ潔すべきである」と言い激怒し、難波日鷹吉士弓削連豊穂らを遣わして香賜を死罪にした。これが文献で確認できる中では、日本国内最初期の死罪である。

平安初期の『止由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』[注釈 1]によれば、即位22年(崩御の前年)に伊勢神宮外宮を建立したと伝えられる。元来は豊受大神は葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏の没落後はあまり省みられなかったが、崇敬の声が大きくなり丹波国にも祀られていたものを、外宮を設立することで収拾を図ったのではないかとする説がある。[要出典]豊受大神と名が似ている飯豊天皇は、その揺り返しの中で政務を執った可能性もある。[要出典]また、雄略天皇の皇女で斎宮である栲幡姫皇女(稚足姫皇女)が、湯人(ゆえ:皇子女の沐浴等に仕える役職)の盧城部連武彦の子供を妊娠したと、阿閉臣国見に讒言され、無実を訴えるため自殺した事件が3年4月条に記されている。皇女の母である葛城韓媛が父の円大臣から即位前の雄略に妃として献ぜられた、とする記事より約3年後のこととなり、献ぜられる前に韓媛が皇女を産んでいないと年代が合わない。むしろ上記讒言事件は、外宮の設立と年代が近かったのではないかと推測される。[要出典]尚、阿閇臣国見は讒言が誤りだと判明した後、伊勢神宮では無く石上神宮に逃げ込んでいる。

外交[編集]

即位2年、百済から池津媛という美女が天皇に献上されるが入内前に石川楯という者と姦通してしまい、激怒した天皇が両者を木に括り付けて焼き殺すという事件が起きた。

即位4年、これを受けて美女ではなく王子を送るべきと判断した百済の蓋鹵王は弟の昆支王(軍君)を派遣し、日本の天皇に仕えるよう命じた。軍君は大和に向かう途中の筑紫で兄王から賜った女性が出産したため母子を百済に送り返した。『書紀』ではこの子が後の武寧王とされる。

即位8年2月、新羅の求めに応じて日本府軍が高句麗を破る。[注 2]

即位9年5月、新羅に軍隊を送り込んだが、将軍の紀小弓が戦死してしまった上に内部分裂で敗走した。

即位20年、高句麗が倭国と友好関係にあった百済を攻め滅ぼした。[注 3]

即位21年、天皇は任那から久麻那利の地を汶洲王に与えて百済を救い興したという。

即位23年4月、百済の三斤王が亡くなると入質していた昆支王の次子の未多王に筑紫の兵500人をつけて帰国させて東城王として即位させ[注 4]、安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。

この他、呉国()から才伎(てひと、手工業者)の漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招来し、また分散していた秦民(秦氏の後裔)の統率を強化して養蚕業を奨励するなど、渡来人技術者を重用した。『書紀』によれば、独善的だった雄略が例外的に信頼して寵愛したのは史部(書記官)である渡来系の身狭村主青(むさのすぐりあお)と、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)であったとされる。この二人は即位8年と即位12年に大陸への使者として派遣されている。これに関連して即位6年に呉国から使者があったとする短い記述が『書紀』にある。

崩御[編集]

即位22年1月1日、白髪皇子(後の22代清寧天皇)を皇太子とした。

即位23年8月、病のため崩御。『古事記』では己巳年(489年?)8月9日に宝算124歳、『日本書紀』では宝算62歳で崩御したとする。まもなく吉備氏の血を引く星川皇子が母の吉備稚媛に唆されて星川皇子の乱を起こしたが、大伴室屋草香部氏がこれを鎮圧して、ヤマト王権の優位を決定的にした。

系譜[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10 崇神天皇
 
彦坐王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
11 垂仁天皇
 
丹波道主命
 
山代之大筒木真若王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上毛野氏
下毛野氏
 
12 景行天皇
 
倭姫命
 
迦邇米雷王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本武尊
 
13 成務天皇
 
息長宿禰王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
神功皇后
(仲哀天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16 仁徳天皇
 
菟道稚郎子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中天皇
 
18 反正天皇
 
19 允恭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
意富富杼王
 
忍坂大中姫
(允恭天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子
 
木梨軽皇子
 
20 安康天皇
 
21 雄略天皇
 
 
 
 
 
乎非王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女
 
24 仁賢天皇
 
23 顕宗天皇
 
22 清寧天皇
 
春日大娘皇女
(仁賢天皇后)
 
彦主人王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
手白香皇女
(継体天皇后)
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃・皇子女[編集]

天皇系図 15~26代

皇后の草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)は叔母に当たる。即位後、求婚に向かう道の途中で、志貴県主(参考:志貴県主神社)の館が鰹木を上げて皇居に似ていると難癖をつけて布を掛けた白犬を手に入れ、それを婚礼のみやげ物にして草香幡梭姫皇女を皇后とした。葛城韓媛は前述の眉輪王の事件で焚殺した葛城円大臣の娘。また、吉備稚媛吉備上道田狭の元妻で、女房自慢を聞きつけた天皇が田狭を任那国司に飛ばし、留守の間に奪い盗ってしまっている。以上のように大泊瀬天皇(雄略天皇)はかなり強引にその后妃を集めている。

大泊瀬天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女仁賢天皇の皇后となっており、その娘の手白香皇女継体天皇の皇后となって欽明天皇を産んでいることから、その血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いている。

年譜[編集]

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[6]。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

  • 允恭天皇7年
    • 12月、誕生
  • 安康天皇3年
  • 雄略天皇元年
  • 雄略天皇2年
    • 7月、百済から池津媛が献上されるが、入内前に姦通したため処刑
  • 雄略天皇3年
    • 4月、伊勢神宮の斎宮に任じた栲幡皇女が流言により自殺
  • 雄略天皇5年
    • 4月、百済から池津媛の代わりに王弟の昆支が派遣される
  • 雄略天皇6年
    • 4月、呉が使者を派遣
  • 雄略天皇7年
  • 雄略天皇8年
  • 雄略天皇9年
  • 雄略天皇10年
    • 9月、身狭村主青・檜隈民使博徳が帰国
  • 雄略天皇11年
    • 7月、百済から呉国人を名乗る貴信という者が亡命
  • 雄略天皇12年
    • 4月、身狭村主青・檜隈民使博徳を呉に派遣(倭王武の遣使?)
  • 雄略天皇13年
  • 雄略天皇14年
    • 1月、身狭村主青・檜隈民使博徳が帰国。使者と工女を連れ帰る
  • 雄略天皇15年
    • 全国に分散していた秦氏を秦酒公に統率させる
  • 雄略天皇16年
    • 7月、秦酒公に養蚕・紡績技術の普及を命じる
  • 雄略天皇18年
    • 8月、物部目が伊勢の朝日郎を討伐
  • 雄略天皇19年
  • 雄略天皇20年
    • 百済が高句麗に滅ぼされる
  • 雄略天皇21年
  • 雄略天皇22年
    • 1月、白髪皇子を立太子
  • 雄略天皇23年
    • 7月、病気のため太子に政務を委ねる
    • 8月、崩御
  • 清寧天皇元年
    • 10月、丹比高鷲原陵に葬られる

皇居[編集]

都は、近畿の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる(別に河内の志紀(大阪府八尾市)とする説もある)。伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡とされ話題を呼んだ。これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる。(近年の発掘調査で石垣を伴う区画施設が検出され,倭王武(雄略天皇)の支配拠点とみることに異論はないだろう [7]。)なお、『日本霊異記』によれば、磐余宮(いわれのみや)にもいたという。

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)の名は丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)。宮内庁により大阪府羽曳野市島泉8丁目にある「島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)」に治定されている(古墳2基を合わせて治定)。それぞれ直径75メートルの円墳、一辺50メートルの方墳。宮内庁上の形式は円丘

『古事記』には、顕宗天皇が父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく雄略陵を破壊しようとしたので、意祁命(後の仁賢天皇)が自ら雄略陵の墳丘の一部のみを破壊して溜飲をさげさせたとある。また『日本書紀』にも、顕宗が陵を破壊しようとしたが皇太子億計(仁賢)がこれを諌めて思い止まらせたとする。

上記とは別に、大阪府松原市西大塚にある宮内庁の大塚陵墓参考地(おおつかりょうぼさんこうち)では、雄略が被葬候補者に想定されている[8]。遺跡名は「河内大塚山古墳」で、墳丘長335メートルの前方後円墳である。ただし埴輪が無い等の特徴から前方後円墳終末期のものである可能性が高く、そうであれば雄略天皇の崩年と築造年代に数十年の開きがある。なお、同地に関しては安閑天皇を被葬候補者として挙げる研究者[9][10]もいる。

皇居では皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の御霊が祀られている。また、葛城一言主神社では、一言主とともに祭神として祀られている。

伝承[編集]

大悪天皇の異名[編集]

猪狩りをする雄略天皇(安達吟光画)

政軍共に優れた能力を発揮してヤマト王権の力を拡大させた反面、気性の激しい暴君的な所業も多く見られた。皇位を継ぐために肉親すら容赦なく殺害し、反抗的な豪族を徹底的に誅伐するなど、自らの権勢のためには苛烈な行いも躊躇せず、独善的で誤って人を処刑することも多かったため、大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)とも誹謗された。『日本書紀』雄略紀2年10月条には以下のような記述がある。

天皇、心を似て師とし給ふ。誤りて人を殺したまふこと衆し。天下、誹謗りて言う。大悪天皇なり、と。

また、『書紀』5年2月条にはこうした雄略の振る舞いを皇后の草香幡梭姫皇女が窘めたという逸話もある。

今陛下、嗜猪の故を以て、舎人を斬りたまう。陛下、譬えば豺狼に異なること無し

猪を射殺せない気弱な舎人を斬り殺そうとした大泊瀬天皇(雄略天皇)に、皇后が「今猪を食したいからといって舎人を斬られますのは豺狼と何も違いません」と諌めている。豺狼を残忍な例えとするのは『後漢書』などの漢籍にも書かれており、話自体が後世の創作とも考えられるものの、雄略の性格を表した一節といえる。

即位13年9月には当時決して刃先を誤らない工匠の木工にして黒縄職人と噂の猪名部真根に本当かと問うと「決して誤らない」と答えられたので、采女を呼び集めてその衣服を脱ぎ褌にさせ人前で相撲を取らせた。その様子を見た猪名部真根は思わず刃先を誤ってしまったので、大泊瀬天皇(雄略天皇)は猪名部を物部に付けて死罪にしようとした。そこに黒縄の匠の技が失われることを惜しんだ仲間が詠んだ和歌を詠み、それを聞いた天皇は悔い改めて「むやみに人を失ってはならない」と言い、使いを刑場に遣わし恩赦を与え解放した。

一方で、有徳天皇(おむおむしくましますすめらみこと)という異名もある。『書紀』4年2月条では葛城山一言主神と邂逅した雄略天皇が神と共に猟を楽しみ、帰りは来米水(高取川)まで送られた。その豪胆さに感嘆した百姓達は、口々に「有徳天皇」と讃えたという[注 5]

草香幡梭姫皇女を始めとして、雄略天皇の皇后・妃には実家が誅された後に決められたものが多い。王権の強化のため、有力皇族や豪族を征伐したのち、その残党を納得させてヤマト王権に統合するために妃を取るということであろう。兄である安康天皇のやり方に倣っただけではなく、雄略天皇の治世では、皇族だけでなく有力豪族にも拡大適用してヤマト王権の強化を強行し、征伐された皇族・豪族からの恨みを買って[要出典]「雄略=暴君」の記述が残されていると思われる。なお前述のように猪名部真根恩赦を与えた記録もある。

少子部蜾蠃[編集]

天皇は蜾蠃(すがる)という者に蚕(こ)を集めろと命令した。しかし蜾蠃は蚕(こ)を子(こ)と勘違いして子供をたくさん集めてしまう。天皇は大笑いして子供の養育を命じるとともに少子部(ちいさこべ)という姓を与えた。しばらくして少子部蜾蠃は三輪神(または宇陀の墨坂の神)を捉えるように命じられた。蜾蠃は三輪山の神の化身である白い蛇を捉える。これを天皇に見せるが、箱の中で蛇が雷のような音を立てて目を光らせたため天皇は慌てて逃げ出してしまう。そして丘に離すように命じ、この丘を雷丘と名付けた。

地方の伝承

相模國一之宮寒川神社では雄略天皇の御代に幣帛の奉弊[11]白山中居神社には雄略天皇9年に護国鎮護のために剣を奉納したとの伝承がある[12]。また湯島天神は雄略天皇2年1月に陛下の勅命により天之手力雄命を祀る神社として創建されたとの伝承が残っている[13]

[編集]

万葉集』巻第一より[14]
籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母
籠(こ)もよ み籠持(こも)ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持(ぶくしも)ち この岳(おか)に 菜摘(なつ)ます兒(こ) 家聞(いえき)かな 告(の)らさね そらみつ大和(やまと)の国(くに)は おしなべて我(われ)こそ居(お)れ しきなべて 我(われ)こそ座(ま)せ 我(われ)にこそは告(の)らめ 家(いえ)をも名(な)をも
現代語訳
美しい籠やヘラを持って、この丘で菜をお摘みのお嬢さん、君はどこの家のお嬢さんなのか教えてくれないか。大和の全てを私が治めているのだ。私こそ教えよう、家柄も名も。
『万葉集』巻第九より[15]
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は こよひは鳴かず 寝ねにけらしも
現代語訳
夕になるといつもは小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。寝てしまったようだ。
舒明天皇作とも言われている。

考証[編集]

即位年[編集]

雄略天皇元年は、『書紀』の年記(安康天皇元年が甲午、清寧天皇元年が庚申等)を基に西暦に換算すると457年となる。また、雄略8年(464年)2月に新羅に攻め込んだという記事が、また、雄略20年(476年)に高句麗が百済を攻め滅ぼしたという記事が『書紀』にあるが、前者は『三国史記』新羅本紀の463年(慈悲麻立干6年)2月の記事に、後者は『三国史記』高句麗本紀・百済本紀の475年(高句麗長壽王63年・百済蓋鹵王21年)9月の記事と対応していると仮定とすると、『書紀』と『三国史記』とで1年のズレがることになり、仮に『三国史記』が正しいとした場合、雄略元年は西暦456年になる。ただし当該の2つの事件について『書紀』と『三国史記』の記述は必ずしも同一事件の別視点からの記録と断定できるほどには似ておらず、別々の事件である可能性もあり、その場合はこの比定は無意味である。

また、武寧王陵から発掘された墓誌から武寧王は462年に生まれたことが確認されたが(詳細は武寧王の項目を参照)、これは『書紀』の雄略5年に武寧王が生まれたという記事と対応する。これを基準に計算すれば雄略元年は西暦458年になる。

しかし、雄略天皇が倭王武で安康天皇が倭王興だとする現在の通説が正しいと仮定した場合、雄略天皇の元年はどんなに早くても463年までしか引き上げることができない。また稲荷山鉄剣の辛亥年が471年であり同ワカタケル大王が雄略天皇だとする現在の通説が正しいと仮定した場合、どんなに遅くても471年までしか引き下げることができない。つまり雄略天皇の元年は463年から471年までのいつかなのであり、上記の457年説・456年説・458年説はいずれも成立しない。

崩御年[編集]

崩御年は日本書紀で己未年(479年)、古事記で己巳年(489年)とあり丁度10年差である事、未と巳は音読みが同じである事などから、どちらか一方がもう一方の書き間違いであるとする説がある。

倭の五王への比定を重視する場合、上記のように安康の在位年代を日本書紀の紀年よりも引き下げる事になるため、489年の方が正確である可能性が高い。 南朝斉の初代高帝は479年の新王朝樹立に伴い周辺諸国の諸王に対する号の格上げを行っており、倭武を鎮東大将軍に進号している。この年は書紀における雄略の崩御年にあたり、倭からの遣使自体の有無も不明瞭である。しかし当該記事の中では共に進号された諸王の中に百済王の名が見られない事から、斉の朝廷は周辺諸国の動向や君主の交替について詳細を把握した上で進号を行っていたと見られ、これを踏まえて雄略は479年の時点で健在で、崩御年干支は古事記の方が正確であるとする説もある。

古代人の雄略朝への認識[編集]

万葉集」巻一の巻頭歌が「雄略御製」であること、「日本霊異記」上巻第一縁が雄略天皇に仕えた小子部スガルの話で雄略朝の説話で巻頭を飾っていること、浦島子(「丹後風土記」逸文)のように雄略朝に時代設定をする伝承が多いこと、「日本書紀」巻一四雄略紀から持統紀までは元嘉歴が用いられ、儀鳳暦が用いられた巻三~一三とは異なることから雄略朝、雄略天皇が古代の画期として当時の人たちに強く意識されていたという事実が指摘されている[16]

獲加多支鹵大王[編集]

稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。 稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。
稲荷山古墳出土鉄剣(国宝)
埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。

埼玉県の稲荷山古墳より出土した鉄剣に「辛亥の年七月中、記す」から始まる金象嵌銘があることが1978年に確認された。金象嵌銘には「獲加多支鹵大王」という当時の大王の名も記されており、この「獲加多支鹵」(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))は、『古事記』『日本書紀』に記された雄略天皇の実名である「ワカタケル」(古事記「大長谷若建」、日本書紀「大泊瀬幼武」)と酷似している[17]

また、1873年には熊本県の江田船山古墳から大王の名が記された銀象嵌の銘文を有する鉄刀が出土していたが、保存状態が悪く大王名の部分が相当欠落していた。その銘文はかつては「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯別」(タジヒノミズハワケ)の実名を持つ18代反正天皇(『書紀』による。『古事記』では「水歯別」)にあてる説が有力であったが、上記の稲荷山古墳の鉄剣が発見されて以降は「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、これを「獲加多支鹵大王」に当てる説が有力となっている[18][19]

以上のように、雄略天皇の名が刻まれた鉄刀・鉄剣が熊本と埼玉で見つかったことから、5世紀後半にはすでにヤマト王権の支配圏が九州から関東までの広範囲に及んでいたことが推測できる[20][21]。また、それぞれの銘文には「杖刀人」(武官か)「典曹人」(文官か)という当時の官職名が記されており、『書紀』の雄略紀にも「○人」と称する官名が集中的に現れることから、王権に奉仕する集団をその職掌によって分類した後の部民制に通ずる人制の萌芽がこの時代にすでに現れていたことが窺える[22][23]

またオホヒコからオワケに至る八代の系譜が鉄剣に記されているが、このことは雄略天皇から「はつくにしらすスメラミコト」である崇神天皇に至る王統譜、原帝紀がこの時存在していたことを示唆しているという[24]

倭王 武[編集]

倭の五王系譜・天皇系譜
宋書』倭国伝 梁書』倭伝
 
 
 
 
 
 
 

(421, 425年)

(438年)
 

(443, 451年)
 
 
 
 
 
 

(462年)

(478年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本書紀』の天皇系譜
(数字は代数、括弧内は和風諡号)
15 応神
(誉田別)
 
 
16 仁徳
(大鷦鷯)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中
(去来穂別)
18 反正
(瑞歯別)
19 允恭
(雄朝津間稚子宿禰)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐木梨軽皇子20 安康
(穴穂)
21 雄略
(大泊瀬幼武)

また雄略天皇は、『宋書』等に記された5世紀末の倭王ではないかという説があるが確証はない。既述の通り、雄略天皇は5世紀末の人物である可能性が高く、「武」という名は実名の「ワカタケル」の「タケル」の漢訳であると考えられる[25]。ただし、5世紀には上述の鉄刀銘文のように仮借が通例であって訓読みは確立していないとして比定に慎重な意見もある[26]

『宋書』では、477年に倭国が遣使して兄の「」(安康天皇に比定)が死んで弟の「武」が王に立ったことを報告し、武は「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称したと記されている[27][28]。翌年の478年には武が上表文を奉り、これに対して順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に叙すことを詔したとする[27][28]。上表文の内容は以下の通り。

封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋渉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕[注釈 2]假授百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見呑,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各[注釈 3]假授,以勸忠節。
  1. ^ 延暦23年(804)に度会宮(外宮)禰宜内人神祇官に提出した外宮の伝承・祭祀などについて記した書。
  2. ^ 「逕」各本並作「遙」,據南史、通典邊防典改。
  3. ^ 各本並脫「各」字,據南史、通典邊防典補。
— 『宋書』倭国伝所引 倭王武上表文[29]


文飾は『詩経』・『春秋左氏伝』の影響が指摘されている[19]。文には先祖代々諸国を征服して東西に勢力を拡大し(自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國)、海を北に渡って朝鮮半島南部にまで至った様子が述べられている(渡平海北九十五國)。倭王達は皇帝に朝鮮半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し要請してきたものの、武による上申でも百済については認められなかった。この理由としては、宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、また倭と対立する高句麗の反発を避けようとしたものと考えられる[30]

『南斉書』・『梁書』においても、それぞれ南斉・梁の建国時(479年502年)に武が任官されたことが記されているが、これらの任官は王朝建国に伴う事務的なものと考えられ、武自身が要請したものか否かは明らかではない[31]。武の最後の確実な遣使は478年であり、史料上確実な倭国の次の遣使は600年607年遣隋使まで途絶えることとなる。ただし『愛日吟盧書画続録』収録の「諸番職貢図巻」題記の記述から、南斉への遣使を事実とする説もある[32]

日本書紀』では雄略天皇が宋を指すと思われる「呉」国に使者を派遣した記事が存在する。ただし年代は『宋書』の記事とは一致しない。

江田船山古墳鉄剣に刻まれた「治天下大王」の称号に、中国の冊封体制から離脱した自ら天下を治める独自の国家を志向しようとする意思を読み取る見方もある。同様に、稲荷山古墳鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下としての「王賜」銘鉄剣の「王」から「大王」への飛躍が認められ、武の上表文では珍・済の時のように吏僚の任官を求めていない。実際、478年の遣使を最後として倭王は一世紀近く続いた中国への朝貢を打ち切っている[33][34][35]

武烈天皇[編集]

系図上は孫にあたる小泊瀬天皇(武烈天皇)の紀に「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあることから、「大悪天皇」の異名を持ち名前が似通う大泊瀬大王(雄略天皇)は同一人物ではないかとの説もある。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 従前葛城氏はこの時滅んだという説が通説であったが、近年ではこの時滅んだのは葛城地方南部に勢力を持つ玉田宿禰系統の葛城氏であり、葛城地方北部の葦田宿禰系の葛城氏は衰弱しながらもそれなりの勢力を保って存続したと考える説が現在では有力となっている[4]
  2. ^ 即位8年を機械的に西暦に換算すると464年となるが、『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年(慈悲麻立干5年)5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年(慈悲麻立干6年)2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている。
  3. ^ 雄略天皇20年を西暦に換算すると476年となるが、『日本書紀』が引用する『百済記』では乙卯年(475年)とする。『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年(高句麗長寿王63年・百済蓋鹵王21年)9月に高句麗に都を攻め落とされて蓋鹵王は殺され、子の文周王は同年熊津に遷都している。『日本書紀』が引用する『日本旧記』では文周王でなく末多王(東城王)に久麻那利を与えたという。
  4. ^ 即位23年を西暦に換算すると479年であり、『三国史記』にも同年東城王が即位したとある。
  5. ^ ただし、『古事記』では一言主の威を畏れた雄略天皇が、弓と矢を捨て衣服まで脱いで伏し拝んだと記されている。

出典[編集]

  1. ^ (佐伯 1988)P6-8
  2. ^ (直木 2009)P15-23
  3. ^ (瀧音 2018)P160
  4. ^ (佐伯 1988)P16-18
  5. ^ (瀧音 2018)P164
  6. ^ 『日本書紀(三)』岩波書店 ISBN 9784003000434
  7. ^ 坂靖「ヤマト王権中枢部の有力地域集団」 国立歴史民俗博物館研究報告 第211 集 2018 年3月 256頁
  8. ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)P 49-52。
  9. ^ 十河良和「日置荘西町窯系埴輪と河内大塚山古墳」『埴輪論叢』六(埴輪検討会、2007年)
  10. ^ 岸本直文『倭王権と前方後円墳』(塙書房、2020年)
  11. ^ 御由緒 | 八方除 寒川神社”. 寒川神社公式サイト. 2023年6月14日閲覧。
  12. ^ 石徹白の歴史・沿革”. www.gujo.ed.jp. 2023年6月14日閲覧。
  13. ^ 湯島天満宮縁起”. www.yushimatenjin.or.jp. 2023年6月14日閲覧。
  14. ^ Manyoshu [Book 1]” (日本語/英語). バージニア大学 (1999年). 2010年1月8日閲覧。
  15. ^ Manyoshu [Book 9]” (日本語/英語). バージニア大学 (1999年). 2010年1月8日閲覧。
  16. ^ 「画期としての雄略朝」「日本古代文物の研究」岸俊男 塙書房 1988
  17. ^ 『"空白の五世紀" 大きな発見 稲荷山出土の鉄剣から、雄略天皇の名解読』毎日新聞 1978年9月19日夕刊1面
  18. ^ (佐伯 1988)P104-105 鈴木靖民による論考。
  19. ^ a b (直木 2009)P81-82
  20. ^ (佐伯 1988)P111-112 鈴木靖民による論考。
  21. ^ (直木 2009)P82
  22. ^ (直木 2009)P82-85
  23. ^ (佐伯 1988)P113-114 鈴木靖民による論考。
  24. ^ 「ヤマト王権」岩波新書2010 44-46
  25. ^ (安本 1992)P69
  26. ^ (河内 2018)P163-206
  27. ^ a b 『東アジア民族史 1 正史東夷伝(東洋文庫264)』 平凡社、1974年、pp. 309-313。
  28. ^ a b 『倭国伝 中国正史に描かれた日本(講談社学術文庫2010)』 講談社、2010年、pp. 117-123。
  29. ^ 漢籍電子文献資料庫(台湾中央研究院)。
  30. ^ (佐伯 1988)P26-27 鈴木靖民による論考。
  31. ^ (森 2010)P7-11
  32. ^ (河内 2018)P207-228
  33. ^ (佐伯 1988)P75-76 鈴木靖民による論考。
  34. ^ (森 2010)P64-67
  35. ^ (瀧音 2018)P154-157

参考文献[編集]

  • 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6 
  • 佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6 
  • 直木孝次郎『日本神話と古代国家』講談社〈講談社学術文庫〉、1990年6月。ISBN 4-06-158928-8 
  • 安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3 
  • 安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8 
  • 直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0 
  • 森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2 
  • 河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1 
  • 瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世機と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。ISBN 978-4-413-04548-3 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]