大村純昌
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明6年1月25日(1786年2月23日) |
死没 | 天保9年10月5日(1838年11月21日) |
改名 | 春之進(幼名)、純昌 |
戒名 | 崇謙院徳輝益翁日讓大居士 |
墓所 | 長崎県大村市の本経寺 |
官位 | 従五位下上総介、丹後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 肥前大村藩主 |
氏族 | 大村氏 |
父母 | 父:大村純鎮、母:大村鎮直の養女(鉤氏の娘) |
兄弟 | 板倉勝晙正室、純昌、酒井忠明室、章姫、隈包辰室、純文 |
妻 |
正室:亀井矩賢の娘・民 側室:福田頼之の妹・仙 |
子 | 純鑑、純徴、純享、純顕、阿部正備、道純、松平乗懿正室、相良長福正室、高木正功、小出英教、孝純、純熈、九鬼隆能室、植村家興 |
大村 純昌(おおむら すみよし)は、肥前国大村藩の第10代藩主。
生涯
[編集]天明6年(1786年)1月25日、第9代藩主・大村純鎮の長男として玖島城で生まれた。享和3年(1803年)1月23日、父の隠居により家督を継いだ。
財政再建を目指して藩政改革を行なうが失敗し、かえって財政窮乏を促進した上、家臣団の反発も招いた。このため、倹約や定免制の採用、他国製品の排除と自国製品の保護、生産化奨励などを行なっていくらか成功させている。
文化5年8月(1808年10月)、長崎にてフェートン号事件が勃発した際は、急を知らせる命を受け、幕府の長崎奉行松平康英と共にイギリス軍艦フェートン号に対して焼き討ちを行う為、藩兵を率いて長崎に急行したが、フェートン号が出航してしまい未遂に終わった。
文政11年(1828年)8月上旬と下旬の二度の嵐により、領内で家屋の倒壊や火災が発生し、溺死傷者も発生した。さらに田畑や山林が甚大な被害を受けた。
天保7年(1836年)11月23日、家督を四男の純顕に譲って隠居した。天保9年(1838年)10月5日に大村で死去した。享年53。
系譜
[編集]- 父母
- 正室
- 民 ー 亀井矩賢の娘
- 側室
- 仙 ー 家臣福田頼之の妹
- 子女
- 大村純鑑(長男)生母は仙(側室)
- 大村純徴(次男)生母は仙(側室)
- 大村純享(三男)生母は仙(側室)
- 大村純顕(四男)生母は仙(側室)
- 阿部正備[2](五男)生母は仙(側室)
- 大村道純(六男)生母は仙(側室)
- 高木正功[3](七男)生母は仙(側室)
- 小出英教[4](八男)生母は仙(側室)
- 大村孝純(九男)生母は仙(側室)
- 大村純熈(十男)生母は仙(側室)
- 植村家興[5](十一男)生母は仙(側室)
- 於咸(七女) ー 摂津国三田藩主九鬼精隆室、生母は仙(側室)
- 松平乗懿正室、生母は仙(側室)
- 相良長福正室、生母は仙(側室)