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大曲駒村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
駒村 昭和17年5月

大曲 駒村(おおまがり くそん、1882年10月8日[1] - 1943年3月24日)は、日本の美術評論家川柳研究家。本名・省三[2]

略伝

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福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)に生まれる[2]。1892年、小高小学校を卒業し[2]、福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)へ入学するも病気退学[2]

1900年、小高銀行に就職[2]。1901年、友人の鈴木余生と俳句グループ「渋茶会」を結成し、俳句を始める[2]。1906年、余生が死ぬと新たに「浮舟会」を結成し、明治20年から30年代に正岡子規と一門らが始めた俳句・短歌の一大革新運動にも参加。1911年、福島県に関連する句を選び出した『雙巌集』を刊行[2]。小高俳壇草創期のリーダーであった[2]

1917年、小高銀行が倒産して失職する[2]。後に山入銀行仙台支店に勤務し、福島支店長代理、営業部長に転じる。この頃、自選句集『枯檜庵句集』を刊行[2]

上京、関東大震災ルポ

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1921年、上京して安田銀行浅草支店長に就くが、1923年関東大震災に遭遇する[2]。東京市内の罹災地を徒歩で見聞した惨状をわずか1週間で書き上げ、最初の大震災ルポルタージュとして『東京灰燼記』を震災の1か月余り後に刊行した[2]

のち安田貯蓄銀行田島町支店主任から大崎支店長となる。

銀行を辞職、浮世絵と古川柳に専念

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1926年2月に辞職後、『浮世絵志』を主宰[3]。同年『誹風末摘花通解』を刊行し[2]、古川柳を研究する[4]

1939年、『川柳辞典』第1巻を配本する[2]。多くの先人が挫折し、出版社も尻込む困難な事業であったが、資金調達、編集、校正すべてを駒村一人でやり遂げた。斎藤昌三は「後世の江戸文学研究家のために不滅の金字塔を築いた」と評している[4]

晩年は、句友たちの遺稿の編集、『荷風著作書誌』の刊行準備を進めていたが[4]、1943年、脳溢血のため死去[2]

著書

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『川柳辞彙 全16冊』(大曲駒村 編著)川柳辞彙刊行会。 

脚注

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  1. 松本竜之助明治大正文学美術人名辞書立川文明堂、1926年、147頁
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 小高観光協会(福島県南相馬市)”. odaka-kanko.jp. 2025年10月14日閲覧。
  3. 大曲駒村 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2021年12月7日閲覧。
  4. 1 2 3 斎藤昌三駒村の一代」『書物展望 駒村追悼号』第13巻5、通巻143号、書物展望社、1943年5月、84頁。

外部リンク

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