コンテンツにスキップ

大島康邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
獲得メダル
日本の旗 日本
バスケットボール
アジア競技大会
1962 ジャカルタ 男子

大島 康邦(おおしま やすくに、1938年6月8日 - )は元バスケットボール選手。

略歴

[編集]

1938年新潟県生まれ。新潟市立鳥屋野中学校に入学し、バスケットボールを始める。新潟県立新潟南高等学校3年のとき、県大会決勝まで進む。新潟県立新発田商工高等学校を相手にチームの総得点51点のうち32点を入れたものの、惜敗。

1957年立教大学に進学。立教大学の黄金時代を担うプレーヤーとなり、主将を務めた4年時には1960年ローマオリンピック大会の代表に選出される。

1961年日本鉱業に入社し、9シーズンプレー。日本鉱業の黄金時代のプレーヤーであり、オールジャパン4連覇のメンバーである。

引退後は、ペルーフィリピンに駐在。

経歴

[編集]

エピソード

[編集]
  • 立教大学4年のとき、主将として関東学生バスケットボールリーグで優勝を果たした。このときチームメンバーと酒抜きの打ち上げパーティーに参加したが、パーティーに呼ばれなかったコーチが「酒を飲むヤツは使わない」として、その年の残りの試合全てでベンチ入り禁止となった。当時の状況を知る人の話によると、コーチは大島の選手としての才能に嫉妬していたらしい。主将を欠いた立教大学は、この年の全日本総合バスケットボール選手権大会で惨敗する。
  • 63歳のとき、ジャパンエナジー本社チームのメンバーとして、関東実業団リーグ(3部)に出場。自分よりも40歳若い選手をワンプレーで3人抜いて得点するなど、7分出場して7得点している。70歳を迎えようとしているが、現在でも神奈川県・横浜のクラブチーム「ジョニーズパパ」の現役選手である。
  • 2008年、バスケットボール指導書「オレ流のバスケットボール」を執筆。

関連項目

[編集]