大喬

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百美新詠図伝

大喬(だいきょう、Dà Qiáo、?-200年?)は、中国後漢末期の女性。父は橋公[1]。妹は小喬孫策の妻妾。

概要[編集]

三国志』「呉志」 周瑜伝に記述がある。

正史では「大橋」とされ、199年12月、妹と共に皖城を占領した孫策軍の捕虜となり、孫策の妻妾の一人に加えられた。裴注の『江表伝』には、孫策が小橋を娶った周瑜に「橋公のふたりの娘は故郷を失うことになったわけだが、われわれを婿どのにすることができたのだから満足だろうよ」と言ったという。しかしその後、四カ月足らずで孫策が死亡、所生の子供の記録もない。孫策の妾にされた直後、袁術劉勲の妻子らと共に呉郡へ送致された後の消息は一切不明である。

その他[編集]

野史『庸庵筆記』では、複数の魅力を併せ持つ女性の一人として名が挙がる。なお、夫の死後の数カ月後に亡くなったと伝承される。

時代の『歴代百美図』や『百美新詠図伝』によると、中国歴朝で最も名高い美人百人に選ばれている[2]

小説『三国志演義』においては、いわゆる「毛宗崗本」など一部の版本において姓を「喬」に改められ、「沈魚落雁閉月羞花」ほどの絶世の美女とされている。妻となった経緯は語られていない。孫策臨終の際、喬夫人の名前で登場し、遺命により姑である呉夫人を養う。赤壁の戦い時に諸葛亮が周瑜に対し、曹操が二喬を奪おうとしているとほのめかしたため、周瑜が激怒し開戦を決意させたように描かれている。

京劇『鳳凰二喬』では喬靚(きょうせい)という名で登場する。

脚注[編集]

  1. ^ その橋公が誰なのかは不明ですが、橋蕤説・橋玄説・別人説がある。また小説『三国志演義』においては、父は喬国老と呼ばれていたが、その喬国老の本名にも触れていない。
  2. ^ 小喬甘皇后孫夫人潘夫人、鄧夫人(孫和の寵姫)と共に三国時代の美人として挙げられている。

関連項目[編集]