大久野島の毒ガス製造

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戦後の毒ガス処理時の様子。茶褐色のドラム缶の周囲に幅3から5cmの黄や赤の線を引き中身を表していた。
戦後の毒ガス処理時の様子。茶褐色のドラム缶の周囲に幅3から5cmの黄や赤の線を引き中身を表していた。
60kg投下弾。投下弾には、きい[1]・あか(ジフェニルシアノアルシン)[2]が詰められた。また砲弾もあり、あか・あを(ホスゲン)・きい(イペリット)が詰められた[2][3]。
60kg投下弾。投下弾には、きい[1]・あか(ジフェニルシアノアルシン)[2]が詰められた。また砲弾もあり、あか・あを(ホスゲン)・きい(イペリット)が詰められた[2][3]

大久野島の毒ガス製造(おおくのしまのどくがすせいぞう)では、広島県竹原市大久野島における大日本帝国陸軍が開発した化学兵器毒ガスの製造を解説する。毒ガス製造は、1929年(昭和4年)から1944年(昭和19年)あるいは1945年(昭和20年)の太平洋戦争終戦にかけて行われていたが、戦後も人的被害と環境汚染が長く続いた。

大久野島で製造された毒ガスは複数あるが、皮膚を爛れさせるマスタードガス(イペリット)の生産が最も多かったほか、眼や粘膜を刺激して嘔吐を催すジフェニルシアノアルシンなども生産された。東京の陸軍科学研究所で毒ガス兵器が研究され、大久野島で実際に製造された毒ガスは、福岡県北九州市曽根 (現在の小倉北区内) などに輸送されて兵器に充填されたのち、日中戦争で用いられた。また島内以外では、製造された毒ガスの一部は大久野島の南側に位置する大三島で、毒ガス弾は大久野島の西側に位置する阿波島でもそれぞれ貯蔵されていた。当時の大久野島には、陸軍唯一の毒ガス製造工場である陸軍造兵廠忠海製造所(のちの東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所)のほか、貯蔵庫や発電場も備えられており、ピーク時の作業者数は約3,000人とも約5,000人とも言われている。秘匿のために島民は立ち退きとなり、一般人の立ち入りも禁じられた大久野島は、一時は「地図から消された島」でもあった。

戦後は貯蔵していた毒ガスを大気中に放出した後、周辺海域に投棄するか、島内防空壕で埋没処理、あるいは焼却処理した。その結果、製造・廃棄処理に従事した少なくとも約6,800人が呼吸器疾患などで苦しむこととなった。しかし行政から一般の被害者への手当給付が開始されたのは、戦後30年以上経過してからである。また原材料のヒ素によって土壌や水質も汚染され、21世紀に入ってもなお、大久野島の一部地域は立入禁止のままである。その悲惨な歴史を伝承するため、1988年(昭和63年)4月に大久野島毒ガス資料館が島内で開館し、大久野島での毒ガス製造および中国での使用に関する資料展示を行っている。

背景[編集]

大久野島灯台。陸軍施設群が建てられる前に逓信省によって建てられた。

大久野島の毒ガス製造の位置(日本内)
習志野
習志野
大久野島
大久野島
曽根
曽根
大久野島の毒ガス製造
赤が陸軍における毒ガス編成[4]。青が海軍の毒ガス製造拠点があった相模海軍工廠[5][6]

近代に入り豊田郡の郡役場は大久野島の北側である忠海に置かれた[7]。明治23年(1890年)忠海に呉憲兵分隊が置かれ、大久野島には明治35年(1902年)国土防衛と当時の兵器性能の問題から陸軍の芸予要塞が築かれ、忠海には大正7年(1918年)陸軍電信独立大隊も置かれた[7][8][6]

つまり、忠海は近代に入り郡の政治の中心となり、陸軍にとっても重要な位置を占めていた[6][7]。当時の地図では芸予要塞秘匿のため忠海一帯から来島海峡まで瀬戸内海を縦断するように赤で塗りつぶされていたという[3]。現在一般的な説として、昭和初期に毒ガス製造所があったため当時陸地測量部が発行した一般向け地図では大久野島一帯は空白地域として扱われた“地図から消された島”と言われている[9][10]が、実際にはそれより前から検閲されていたことになる。一方でこの島の南から東への海域は“三原瀬戸航路”、近代において潮流の影響で来島海峡を航行できない船が通っていた重要な航路であり(大浜埼灯台#沿革参照)、大久野島灯台を目印に多くの船が航行していた[11][12]。灯台付近のみ逓信省所管[11]だが、毒ガス製造所が開所するにあたり島のすべてが陸軍用地となったとする資料がある[9]。また島が軍用地となった際に、灯台付近のみ南側の愛媛県大三島の行政管理下に委任していたとする資料がある[13]

日本軍の毒ガスは第一次世界大戦での他国の頻繁な使用を受けて、まず大正3年(1914年)陸軍技術審査部で研究が始まる[5]。大正14年(1925年)ジュネーブ議定書で化学兵器の戦争利用は禁止されたが、当時の日本はこれに署名はしたが批准はしなかった(のち1970年批准[14])。その中で陸軍唯一の毒ガス製造所が大久野島に設置された理由については、毒ガスを研究する市民団体などで以下のとおり結論づけられている。

  1. 大正12年(1923年)関東大震災を受けて、陸軍は毒ガス関連施設を地方に置きたい考えに至った。そこで、労働力と資材確保がし易く、一方で事故が起きた場合でも被害の拡散が小さいこと、そして中国大陸から近い、ところが選ばれた[6][15]
  2. 大正9年(1920年)第一次世界大戦終結後の戦後恐慌、大正13年(1924年)芸予要塞が廃止されたことを受けて、忠海町は不況対策として陸軍施設を積極的に誘致した。その中で大崎上島出身で立憲政友会代議士の望月圭介[注 1]が誘致に尽力した[6][3][15]

大久野島には昭和2年(1927年)から工場建設が始まり、昭和4年(1929年)陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所が開所し、毒ガス製造を開始する[9][5][7]。 以下、陸軍の毒ガス研究および生産の編成を記載する。

研究 陸軍科学研究所 大正8年(1919年) [5]
製造 陸軍造兵廠忠海製造所 昭和4年(1929年) [5]
教育訓練 陸軍習志野学校 昭和8年(1933年) [5]
充填 陸軍造兵廠曽根製造所 昭和12年(1937年) [5]

なお「陸軍造兵廠忠海製造所」として開所、のち「東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所」となり、終戦頃には「臣第2963部隊」と部隊名に変っていたという[3]

一般的な説明として、習志野で運用訓練し、大久野島で化学物質が作られ、曽根 (北九州市)まで輸送しそこで兵器として詰め替えられ、大陸(日中戦争)で用いた、としている[9][6][15][18]

生産[編集]

以下、当時制式化されていた毒ガスを示す。呼称は陸軍は色で、海軍は○○号特薬と番号で区別しており[5]、ここでは陸軍式を用いる。

名称 種類 化学物質 外観 臭気 推定生産量[注 2]
(t)
備考
最盛期
月生産量
[注 3]
総生産量
[注 4]
ちや
(茶)
血液剤 シアン化水素
(青酸)
微褐色
液体
アーモンド 50 248 [18][1][19]
みどり
(緑)
催涙剤 クロロ
アセトフェノン
微黄色
固体
りんご花 25 28 C号とも
[5][18][1][19][20]
きい
(黄)
びらん剤 マスタード
(イペリット)
褐色
粘液体
ケシ 200
~450
(甲) 915
(乙) 921
(丙) 969
きい一号、A号とも
[19][5][1][18][13]
ルイサイト 微黄色
粘液体
テンジクアオイ 50 1,268 きい二号、A号とも
いわゆる「死の露」
[19][5][1][21][18]
あか
(赤)
嘔吐剤 ジフェニル
シアノアルシン
淡緑色
固体
ニンニク
+アーモンド
50
~80
1,757 [5][18][1][19]
あを
(青)
窒息剤 ホスゲン 干し草 [5][1][22]
しろ
(白)
発煙剤 トリクロロ
アルシン
刺激臭 [1][22]

昭和8年(1933年)ごろに大量生産できるようになり[23]、生産のピークは昭和15年(1940年)・昭和16年(1941年)とされ[9][23]、これ以降は戦争が長引くにつれ海上封鎖により海外から物資が届かなくなったため生産が縮小していった[24]

最初に製造が試みられた毒ガスはフランス式イペリット[25][26]。イペリット製法はフランス式とドイツ式があったが、フランス式のほうが製法としては簡単だったが不純物が多く保存の際に定期的にガス抜きをしないとガス爆発したという問題点があった[27]。同じきい剤(びらん剤)でもイペリットとルイサイトで生産量が異なるのは、ルイサイトの方が毒性が強く製造時の危険が少なかったが、製造コストが高く湿気を含む大気中や保管中の安定性が低く、更に実戦での効果がイペリットより劣っていたため、イペリットに生産の重点が置かれていった[21][28]。イペリットの甲乙丙とは、甲がドイツ式・乙がフランス式で、丙はドイツ式イペリットの融点を下げ不凍性を高めた寒冷地用のもの[13][28][29]。あか剤(嘔吐剤)は、国の資料ではジフェニルシアノアルシン(DC)とジフェニルクロロアルシン(DA)の混合[30]、当時の陸軍技手・軍属工員の資料ではDC単独のもの[18][22]として説明している。みどり剤(催涙剤)は、当初製造していた工場が手狭となったため新築移転したがそこでの製造は短期間に終わり、終戦までストック品で需要を満たしていた[31]。嘔吐剤アダムサイトも製造していたが毒性が低かったため制式採用に至らす、製造を止め工場を他の製造に転用している[32][33]

また毒ガス成分以外も生産されている。

青酸燻蒸剤
この島で最初に作られた物質は毒ガスではなく、青酸を用いた殺虫殺鼠剤サイロームである[34]。まずサイローム製造とフランス式イペリット試作から始まり、後にサイローム製造が毒ガスちや剤製造に転用され双方並行して作られていた[34][18][2][26]。陸軍で特許を取っていたという話もある[23]
瀬戸内海の島嶼では近代に入ると柑橘栽培が盛んになったことからヤノネカイガラムシ退治に、また貨物船の倉庫ではネズミ退治に用いられ、造兵廠の印が入ったサイロームはよく効くとして広く流通しており、製造所は利益を得ていた[35][34]。製造所側は、この製造作業で熟練工の離職防止および熟練工養成として、また世間へのイメージアップとして、期待していたという[35]。その反面、取扱を過大に危険視されたことから製造所に使用委託の申し入れが多かったという[35]
  • サイローム - 青酸を珪藻土に付着させ、缶詰して販売した[34]。当時は柑橘の木を天幕で覆いその中で青酸ソーダと硫酸を容器で混ぜて青酸ガスを発生させて貝殻虫を退治するポット法が行われていた[35]。それに対してサイロームは缶を開けて内容物を新聞紙などに広げるだけで青酸ガスが発生するため従来のポット法より容易であった[35]。サイローム法とも[36]
  • カルサイト - 青酸を賦形剤に付着させ錠剤とし、缶詰して販売した[2]。これは青酸が付着した固形状のものを機械で粉々にしながら天幕の中に送り込み青酸ガスを発生させる[37]というカルチット法[36]で用いられた。
筒類
  • 発煙筒 - 陸軍板橋火薬製造所から業務を引き継いで開所当初から製作されていた。第一次上海事変を機に本格的に製造が始まり中国戦線での拡大に伴って需要が続き太平洋戦争以降は更に格段に需要が上がったことから、終戦まで製造中止されることなく作られていた[25][38]。また製造側からすると、他の作業より危険が少ないことから製造所に入ったばかりの工員が作業に慣れるため最初にやる工程として、あるいは毒ガス製造過程で問題が起き一旦作業がストップした際に代わりとして、あるいは毒ガス障害者の休養作業として、発煙筒製造が行われていた[39][25][40]
  • あか筒 - くしゃみ筒。あか(ジフェニルシアノアルシン)を軽石に付着させ点火剤・加熱剤と一緒に筒体に入れたもの[22]。ジフェニルシアノアルシンは安定した化合物で、揮発性は大久野島で作られた毒ガスの中で最も低く、加熱しないと毒性は現れなかった[18][2]
  • みどり筒 - 催涙筒。みどり(クロロアセトフェノン)をセルロイド片に付着させ点火剤と一緒に筒体に入れたもの[22]。あるいは点火剤・小粒薬を入れた筒体に臭化ベンジルを填実したもの[22]
ちび弾
青酸は不安定な液体であるため、当時安定剤として銅を用いていた[41]。これは小さな球形ガラス瓶の中に青酸と銅粉を詰めたもの[18][41]。昭和17年(1942年)10月忠海から小樽を経てアッツ島など北方方面へ、昭和18年(1943年)5月忠海からサイゴン(ホーチミン市)へ送ったとする証言が残っている[41]。工員も投げる練習をしたという[18]
火薬
昭和19年(1944年)、不要となった工場を改造し陸軍宇治製造所から火薬製造作業の一部が移された。火薬は砲弾用に用いられた[3][2]
風船爆弾
太平洋戦争末期、動員学徒が風船爆弾の球体部分を作っており、梱包して発送していた[3][42][43]
玉砕兵器
太平洋戦争末期、硝那薬包という小型爆破薬が作られていた[44]

施設[編集]

表桟橋(第一桟橋・下地図白1)の沖、つまり三原瀬戸航路上から北西方向を撮影したもの。ここからは工場らしきものがまったく見えないのがわかる。写真中央の切通を奥に進むと工場が並ぶ三軒屋地区になる。
表桟橋(第一桟橋・下地図白1)の沖、つまり三原瀬戸航路上から北西方向を撮影したもの。ここからは工場らしきものがまったく見えないのがわかる。写真中央の切通を奥に進むと工場が並ぶ三軒屋地区になる。
陶磁器製のタンク。場所によっては化学変化で成分が変わるため金属製が用いられなかった[45]。
陶磁器製のタンク。場所によっては化学変化で成分が変わるため金属製が用いられなかった[45]

昭和2年(1927年)島内に軍事工場が設けられることとなり、農家の立ち退きおよび一般人の立入禁止処置が取られた[3]。ただ昭和金融恐慌の最中にあったことから、この工場建設工事は久野島景気とも言われ喜ばれもした[3]。一応の完成は昭和4年(1929年)春のことで、同年4月1日付で陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所が誕生、開所式は同年5月19日に行われた[3]

まず島の南西部にあたる三軒屋地区で土地造成と施設建設が進んだ[3]。島の東側は斜面が多く[3]、また三原瀬戸航路側でもある。島の南東側に桟橋・事務所・発電所・倉庫などが建設され、海岸に沿ってそれらを繋ぎ工場敷地まで結ぶ幅4mの道路が整備された[3]。そして昭和7年(1932年)三呉線忠海駅が開業し曽根まで貨車輸送する体制が確立したことにより施設の再配置として、更に三軒屋地区が手狭になったことと旧型となった施設の更新として、島の西中部にあたる長浦地区に建設されていった[3][31][41]。それでも手狭となったため、北側の本州(本土)側の忠海にも関連施設が建てられている[3]。中には新規で建て製造をはじめたものの短期間で止めた施設もある[31]。また製造工場群はほぼ西側一帯に配置された反面、東側発電所周辺は毒ガスの気配すら感じなかったという[46]。かつては島内で松茸が採取できたが、昭和10年(1935年)ごろから取れなくなったという[47]

そして軍機保護法に基づき、白地に黒文字で「立入禁止」と書かれた立て看板が島の周囲に建てられていった[31]。島全体は植樹され[48]緑で覆われ[注 5]、建物には迷彩が施された[49]。資材も樹木で隠していた。機密保持のため箝口令が敷かれ憲兵が厳しく監視していた[13][23]。証言によると、大久野島を見るな、あるいは絶対撮影するなと言われ[50]、呉線ではこの島付近になると海側の窓を鎧戸で閉められ見えなくしていたという[13]

島内の建物配置などは、竹原観光ナビ『パンフレットダウンロード(大久野島)』や、『昭和14年「密大日記」第13冊”化学兵器貯蔵設備追加實施に関する件”』 アジア歴史資料センター Ref.C01004702600 や、市民団体毒ガス島歴史研究所が作成した地図『伝言(東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)案内図』、市民団体大久野島から平和と環境を考える会が作成した地図『大久野島の遺跡地図』を参照。以下は主に終戦間際ごろの配置になる。
1948年
1947年忠海周辺。中央が忠海駅で、周辺に忠海分廠と呼ばれた発煙筒を作る陸地工場・工員宿舎・官舎・陸地診療所・講堂などが建てられた[3][39]。引込線が引かれ、ここから曽根まで貨車輸送した。海から伸びるのは江戸時代初期に整備された舟入堀。左端が忠海高女、現県立忠海高。
1947年忠海周辺。中央が忠海駅で、周辺に忠海分廠と呼ばれた発煙筒を作る陸地工場・工員宿舎・官舎・陸地診療所・講堂などが建てられた[3][39]。引込線が引かれ、ここから曽根まで貨車輸送した。海から伸びるのは江戸時代初期に整備された舟入堀。左端が忠海高女、現県立忠海高


拡大途中のことになる昭和8年(1933年)には秩父宮雍仁親王が、昭和9年(1934年)には高松宮宣仁親王が視察のため来島している[31]。太平洋戦争中、忠海には、松竹歌劇団星光子一座、斎藤隆夫が指揮する日本合唱団、山田耕筰の楽団、守田勘彌水谷八重子一座と、慰問団が訪れている[39][77]

戦中、連合国軍側がこの島の製造所の存在を知っていたかは不明である。戦争末期この島には高射砲隊が常駐することになり、昭和20年(1945年)7月の一度だけ上空に偵察機が飛来してきたが、高射砲隊は施設の存在の発覚ことを恐れて撃たなかったという[54]

周辺では、呉市(呉軍港空襲)、周辺島嶼である因島因島空襲)や契島、あるいは今治市(松山大空襲)や福山市(福山大空襲)が攻撃されており[43]、当時の工員は空襲の恐怖を感じながら作業していたという[3][78]。契島が機銃掃射された日、この島に本土からの通勤船が到着したちょうどそのときに空襲警報が鳴り、円滑に島からの退避行動が取られたという[43]。松山市(あるいは今治)の空襲で発生した火が、大三島の山を真紅に染め、それが大久野島から見えたという[43]

人員[編集]

陸軍出身の歴代所長[3]は以下の通り。

  • 初代 : 大島駿
  • 2代 : 生田重勝
  • 3代 : 信氏良吉
  • 4代 : 服部誠吾
  • 5代 : 中橋桂次郎
  • 6代 : 阿部三雄
  • 7代 : 山中峰次

所長と陸軍技手数十人程度から始まり、施設拡張・製造方式再検討を続け拡大していった[3]。初期は昭和恐慌の最中にあった。軍属(工員)には近隣で雇用されたもの、初期には日給の6割が危険手当加給という給料体制に釣られ製造所を建設していた日雇い労働者の中にはそのまま島に残ったものもいる[35][33]。彼らは毒ガス製造どころか工業的製造で仕事に就いたことのないものたちであったことから、1ヶ月に渡り基礎教育が仕込まれている[35]。昭和8年(1933年)入所した工員によると、その年に入所したのは24人でほぼ製造所内に縁故者のある者だった[78]

陸軍の工場であるため工員も階級制であった[13]。勤務時間は1日8時間から10時間[79][80]、中毒予防として例えばイペリット製造現場では1時間働いて2時間別室で休憩[80]、という体制だった。基本的に工員は実績を重ねるごとに基本給昇給、それに危険手当が別途ついて、残業手当・深夜手当[24]・年末賞与[78]、など様々な賞与があった[13]。危険手当の付与は現場職長の裁量に一任され、現場によって6割/4割/2割加給・加給なし、となった[78][24]。ただ賞与が出た際には給料から天引きの形で国債(戦時国債)を買わされたという[24]。一方で機密保持のため憲兵によって厳しく監視され、口外や物品の持ち出しは厳しく罰せられた[13][23]。自主退職はほぼ却下され、受傷して働けなくなって退職許可(解雇命令)が下された[24][13][23]。友和会という工員の労働団体が結成されたが昭和10年(1935年)軍から解散命令が下された[78]。元陸軍技手の証言によると、平時には毎年春秋の2回慰安会が行われており、諸経費が支給され額は旅費と清酒1合付きの弁当で尽きる程度であったそうで、太平洋戦争が続く中で自然消滅したという[81]。太平洋戦争末期、工員にも召集が来ていたが、19歳になってもここで働いていれば1年間の入隊延期ができたという[82]

作業員(写真は戦後処理時のもの)。
イペリット用1トン計測タンク(写真は戦後処理時のもの)。

季節・気象条件によっては原料の塩酸や硫酸からガスが発生しむせたという[83][84]。製造施設からヒ素化合物が排水管を通って海に流れていた[85]。生産拡大に伴い、相当数の中毒患者が発生した[38]。どの作業でも身体に害を及ぼさないものはなく[24]、ほとんどの工員にとって毒ガスによる受傷は2度や3度どころではなかった[23]。ゴムの防毒着に長靴・ゴム手袋・防毒面で防護していたが、ズボンと長靴の間・上着と手袋の間とつなぎ目から毒ガスが入り込み汗で湿気やすい脇の下や股間を受傷していた[78]。A二工室(ドイツ式イペリット工場)での夜間作業[注 6]、フランス式イペリット真空蒸溜[注 7]、焼却場での残渣焼却、が中毒症状が重患になる三毒と言われていたという[2]。当時陸軍技手の中で「大久野島で毒物製造に関係しておれば一度は肺炎の洗礼を受けるであろう」と言われており、研究員の確保に苦労していたという[38]。末期に入った勤労奉仕の女学生の証言によると、黒く焼けた鉄の色をした顔、目の縁が黒くなった顔、ガラガラ声、の工員を見たという[40]

製造所稼動時、死亡3件[24](島構内だけで2件[35])あったことが公には分かっている。ただし軍属(工員)ではなく軍直属の技手や、医務解雇などで被毒して退職した後での工員、など公になっていない死者はいる[24][23]

  1. 昭和8年(1933年)サイローム製造過程でゴム管から青酸を缶に注入する作業中に誤ってその飛沫を大量に浴び、そこがガスマスク先の吸収缶近くであったため中和剤を通り抜けて一気に体内に入り、数時間後絶命した。製造所初の犠牲者であり、日本人として初めて毒ガスによって死亡した人物となった[35][78]
  2. フランス式イペリットが量産体制に入り昼夜兼業で長時間製造された。その際にイペリットを原因とする障害者が激増した。その障害を抱えた一人が、トラック荷役中に踏み板で足を滑らせて頭から一塩化硫黄を浴び、死亡した[35]
  3. 曽根へ毒物を運搬する際に馬車も用いられていた。ある時、馬が尻尾にジフェニルシアノアルシンを付けたままその尻尾でハエを払ったことで、近くで作業中の人物が全身に浴びて数カ月後死亡した[13]

昭和12年(1937年)大久野島神社に殉職碑が建立されている[35]。最も危険な毒物になるルイサイト[13]では人命に関わる事故は発生しなかった[21]。発煙筒製造現場では数十人が全治まで3ヶ月から半年を要した火災事故が発生している[39]。元陸軍技手の証言によると、こうした事故が起こると「同じ失敗を再度繰り返すナ」とその都度安全対策がとられたため、年々障害範囲は少なくなっていったという[86]。ただしそれは外傷に対してのみで、内傷特に呼吸器系に関しては想定していなかった[86]。一般工員はそもそも製造していた物自体の知識が不足していたこともあり、危険手当加増目当てで自ら進んで危険な現場に志願したものもいた[24]。また当時は就業不良=悪という考えがあり「身体に異常があればすぐに診療所に行って治療を受けるよう」と厳しく指導され医務室へ行っただけで少々の傷害でも休業処置がとられていた[78][13]。それに対して工員側は、使命感から、あるいは生活がかかっているため、あるいは憲兵が徹底的に調査するため、休業や入院を嫌がって少々の傷害でも作業に従事していた[78]。受傷箇所によっては気軽に申告できない女性工員にとってはさらなる苦痛を味わったという[78]。働けなくなって退職したとしても、軍から召集令状が来ていた[24][78]

昭和12年(1938年)頃から大量生産要員として多数の新入工員を入れたが、未経験者に対して指導工員の絶対数が少ないため、早い段階から受傷し昭和15年(1940年)末ごろから若年工員に離職者が出始めた[78]国家総動員法に基づき昭和15年には旧制高等小学校卒業者を対象とした技能者養成所が島に開校している[87]。戦争が続く中で、工員(軍属)にも応召者が出ていた[78]。そして労働者確保のため徴用工や学徒勤労動員・勤労報国隊が用いられた[3][9]。これらの募集には毒ガスとは言わず「化学を応用した皇軍兵器」と説明した[88]。徴用工は2年間だけだがほぼ危険な現場に行かされたという[24]

製造所末期には完全に軍隊化していた[43]。硝酸・硫酸・塩酸などが主成分が海上封鎖により海外から入ってこなくなったため、製造自体は縮小していった[24]。そして筒類製造に主力が注がれた[3]。新しい防護用具も不足し、交換しないまま古い防護用具を着続けたため、受傷者は増加していた[78]。不要となっていたあか一号工室や遊休工場は火薬工場に転用された[3][24]。忠海製造所での製造自体が縮小していたため、技術を持った工員は荒尾・板橋・宇治・岩鼻・坂市と他の陸軍の火薬製造所増設工事へ応援出張した[24]

防空壕跡(上地図赤4の南側)。長いものでは100mほどあり、中でつながっているという[55]

日本本土空襲が本格化すると島内の作業を地下化することとなり、工員のほとんどが防弾壁の構築と防空壕掘りに従事した[3][43]。昭和20年(1945年)2月に完了し、物資の疎開および作業の地下移転が行われた[43]。勤労奉仕の女学生・中学生は風船爆弾の気球部分の製造を担った[9][43][89]。毒ガス製造は昭和19年までで昭和20年にはそれを止め風船爆弾製造作業をしていたとする資料があるが[9]、こういった背景にある。彼女たちはその他にも、草取り、焼却場へのごみ運び、発煙筒をつくる作業など様々であったという[40]。疎開作業にも従事しており、制服にハチマキ・麦わら帽子姿で作業服は着ずゴム手袋だけで毒ガス製品を触っており、後遺症を抱えてしまうことになる[67][89][40]

広島市への原子爆弾投下の際には、ここから軍医以下12人からなる救護班を編成し8月7日広島入りし日赤病院福屋とも)で救護にあたった[43][90](入市被爆したことになる)。この12人の中には勤労奉仕の女学生もいた[91]

結局島内で作業に従事したのは、ピーク時で約3,000人[23]とも約5,000人[92]、のべ人数で約6,500人[9]とも約6,700人[23]と言われている。

以下参考例として、昭和8年つまり開所4年目に入所しのち化学工となった人物の沿革を示す。体が蝕まれるため6年以上働いたものはほとんどいなかったという[24]。なお例に出した化学工の人物は終戦までに3度退職願を出したがすべて却下されている[78]。ちなみに化学工は現場がよく変わり、毒ガス製造に直接関わったことから日給が最も高かった[93]

同様に参考として技能者養成所の概要を示す。

戦後処理[編集]

国外、特に中国での毒ガス廃棄問題に関しては遺棄化学兵器問題を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした廃棄について記す。
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島
大久野島
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
八本松
八本松
大嶺
大嶺
曽根
曽根
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造の位置
中国地方以西における終戦時の主な生産・保管場所[4]。赤が陸軍、青が海軍。

終戦時全国に毒ガスが配備されていたが、その理由については環境省が取りまとめた資料では以下のとおり。

  • 研究・訓練及び実験等 - 陸軍では科学研究所や演習場、陸軍学校などへ配備された[5]
  • 毒ガス戦準備計画 - 昭和19年(1944年)1月29日大本営陸軍部はアメリカが毒ガスを使用する可能性が高いとして「毒ガス戦準備計画」を立案した。これにより忠海と小樽の2つが集積拠点に選ばれ毒ガス弾が配備された[94]
  • 疎開 - 空襲を避けるため安全な拠点に移されたもの。陸軍は、八本松(広島)や大嶺(山口)に集中的に運んでいる[94]

つまり大久野島には毒ガス製造によって備蓄品があっただけでなく、意図的に集積されていたことになる。また、この南側の大三島には大戦末期に大久野島から疎開された毒ガスが貯蔵され、西側の阿波島には出張所が置かれ毒ガス弾を貯蔵していた[95]。特にこの大三島への疎開を担当したのが勤労奉仕の女学生であった[89]

以下その3島における、環境省が公表する終戦時での保管量と、米軍調査による昭和21年(1946年)1月時点での集計を示す。これは環境省の方は資料から専門家からの助言・検討を踏まえて2004年に最終稿として公表したもの、米軍資料の方はそののち2014年に発見されたものになる。

終戦直後の毒ガス処理は旧日本軍、アメリカ陸軍第41歩兵師団英語版イギリス連邦占領軍(BCOF)の3者が行っている。処理方法は大きく埋設・海中投棄・焼却の3つに分けられる[97]。ほとんどが島内およびその周辺海域で行われた。

旧日本軍による隠蔽工作[編集]

軍による投棄が行われていたと言われている。

元工員・村上初一(毒ガス資料館初代館長)によると、昭和20年(1945年)8月15日工員はいつもと変わらず出勤しそこで玉音放送を聞くことになる[82]。翌16日も通常勤務するよう指示されたが、ボイコットする工員もいて集まらなかった[82]。そして解体(隠蔽工作)を指示されることになる[23][82]。旧陸軍側は工員に対して「我々はここで毒ガスをつくっていた。(その時初めて陸軍側は毒ガスという言葉を使ったという)。これは国際上の問題になる。日本は戦争に負けたんだから、どこの国が日本に進駐してくるかわからない。が、こういうことはないとは思うけど、その毒ガス製造について、拘束されるんじゃないといううわさがある。」「危険手当10割つける。」と言ったという[82][23]。村上は進駐軍に拘束される恐怖に畏れたという[23]。それから1週間後に上から命令が来て、それから工員の証明になるようなものは全て焼いて捨てたという[82]。機械工だった村上は同年8月18日からちゃ一号工室の新しいサイローム装置を解体し近くの海域に投棄したが、作業が始まって1週間後一切の作業は中止になった[82][98]。その後島に行っていたが何もせずにいて、同年9月11日付でほとんどの工員は解雇となったという[82][23]。進駐軍が来るまで代表者は残っていたという[23]

またこれとは別に松島から神殿島の海域にイペリットやルイサイトを投棄した、ボンベを近海に投棄した、という証言もある[98][99]

以下、環境省資料による、旧日本軍廃棄量を示す。

アメリカ陸軍第41歩兵師団による処理[編集]

GHQが日本に進駐、広島には第41師団が駐屯した[102]。昭和20年11月初め、第41師団司令部化学班が現地調査し、大久野島周辺の旧陸軍貯蔵に加えて川上[注 8]・切串・日之浦の旧海軍貯蔵分を発見した[102][96]

それを受けて第58化学戦総合中隊(化学処理部隊135名とも[98])を現地に派遣し、処理作業が始まった[96]。ただこの時点では発煙筒や前駆物質を主に処理し、イペリットやルイサイトなど危険な物質は処理されなかった[102][96]。これはその時点で瀬戸内海の機雷掃海が進んでいなかったため、海洋投棄ができなかったと推察されている[102]。化学物質の中には広島県側の投棄中止要望により県に引き渡されたものもある[102]。一方で旧海軍貯蔵分のいくつかは海洋投棄が行われている[102][96]

同年12月31日付で第41師団は動員解除となり、第58化学戦総合中隊も翌昭和21年(1946年)1月に撤退した[96]。あるいは2月までとも[98]。昭和21年5月時点で、大久野島にあった青酸はすべて県に転用され殺虫剤として用いたとする資料もある[85]

以下大久野島関連のみで、第41師団司令部化学班が12月26日付でまとめた廃棄量と、第58化学戦総合中隊が11月12日から24日にかけて行った廃棄量を示す。整合性がとれないものがある[96]がそのまま記載する。

進駐軍再編を受けて中四国地方を管轄したイギリス連邦占領軍(BCOF)による処理[編集]

昭和21年5月からBCOFが引き継ぐ[23]。作戦名は“Operation Lewisite”、指揮はアメリカ軍から派遣されたウィリアムソン少佐、任務はBCOFのDISPOSAL ENEMY EQUIPMENT Section(DEE、兵器処理分隊)が担当し、これに日本人約300人[104]が参加した。特に帝国人絹(帝人)は、戦後インフレの中で新円を欲していた(新円切替)ことと、進駐軍から大久野島にある製塩機器を中心とする設備移転契約を結ぶことに成功したため、戦後処理に参加した[105][44]。帝人三原製造所が工員を出し、その下請け、忠海周辺での現地募集から参加したものもいる[50][106]。また山中峰次 元陸軍忠海製造所所長など旧関係者も参加している[107][44]

機器のいくつかは戦後賠償として進駐軍が持ち帰っている[105]。なお日本政府からの支援はなかった[105]

当初は3年を予定していたが工期繰り上げ要請[105]によりほぼ1年で終わっている[44]。作業は昭和21年5月8日から同年11月30日までの第一次作業、同年11月21日から昭和22年(1947年)5月27日までの第二次作業に分かれた[107]。ピーク時は3交代制で島に泊まり込んでの作業となった[106]

第一次作業
山口県の米光は詳細場所が不明であるため省略。
1, 忠海兵器補給廠・大三島・阿波島・米光・切串・川上・内海など、旧陸海軍が保管していた毒ガス弾を大久野島に集める[107][108]
2. そこから毒ガスを抜き取り、主にきい剤ときい弾(イペリットとルイサイト)を船に積み込んで高知県沖で海洋投棄する[107][19]
3. あか筒(ジフェニルシアノアルシン)は島内防空壕で埋没処理する[107][44]
4. 発煙筒は島内あるいは近隣海上で焼却処理[44]
第二次作業
元陸軍技手によると、大久野島南西端を基点として北西から南西に向かう約4kmの海域に海洋投棄したという[111]
1. イペリットおよびルイサイト工場あるいは貯蔵庫の天井や窓を開け、建物内に蒸気を吹き込み、屋内に残存する毒ガスを大気中に放出する[107]。濃度が濃くなる排気には次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)と水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)溶液を通過させる[105]
2. 建物内を火炎放射器で焼却[107]。コンクリート地下貯蔵庫は爆破解体後焼却し埋没[105]
3. 製造装置の解体・除毒後、島周辺の水深15m以上のところで海洋投棄[107][19]
4. 工場地域全体を焼却および次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)を散布[107]

旧陸軍製造所と同じように小鳥で毒ガス漏れの管理をしており、ガス漏れが酷いと作業は中止となる事が度々あった[106]。疲れを取るためか大釜に砂糖湯が用意されていた[50][110]。島には(工業用)アルコールがあり水で薄めて飲んでいたという[106]

戦前の陸軍製造所時代の工員は、毒ガスという単語は使われなかったが影響は動物実験や熟練工の受傷経験などで教えられていた一方で、戦後処理の日本人作業員は、扱っているものは毒ガスであることは知っていたが影響がどの程度のものか理解していなかった[50][110]。防毒服・作業服はBCOFから支給されていたがあくまで近いところで作業する者が用いていただけで、支給されないものもいた[50]。普通の服装で素手で作業を行っていたり、中には暑いからと裸で作業するものもいた[50]。そのため戦後処理の日本人作業員も被毒している。

昭和21年7月29日、積込作業中のLST-814は台風でアンカーチェーンが切れて陸から離れた[111][50][106]。この時点で90%の積込が完了していたとされ[106]、LST-814がそのまま沖に漂流していれば意図しない大事故が発生する可能性があった[50]。この時に岸に繋ぐ作業をした人物によると、29日朝から日本語が話せないウィリアムソンは銃を手に持ち「ハバハバハバ」と打つマネをして他の作業員を現場に入らせないようにしていたという[50]。その人物は毒物が流出していた海の中をパンツ一丁で飛び込み、アンカーチェーンに細いロープをくくりつけたという[50]。それを100人ぐらいで綱引きの要領で陸まで引張り着岸させた[50]。この作業で船から流出し海の中や空中に漂う毒ガスに約90人が被毒した[111][50]。この作業で被毒したもの、あるいは別の作業で被毒したもののうち、1人がのちに死亡している[112][111]

以下、米軍資料における未処理とされているつまりBCOFが引き継いだと考えられる物量と、2003年時点での環境省が公表する資料における廃棄量と、帝人資料による賠償機械明細を示す。環境省資料にはオーストラリア軍(BCOF)資料を元に作成されている。

残存[編集]

国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては遺棄化学兵器問題を、日本国内での問題は化学兵器#化学兵器の廃棄処理を参照。ここでは特に大久野島を中心とした状況について記す。

上記の通り、戦後処理のかなりの数が島内の防空壕や周辺への海中投棄されたことから、現在でも兵器の残骸など発見が続いている。1997年以降、危険物質が確認された場合は化学兵器禁止条約に基いて処理されている。以下、環境省資料記載分を中心とした戦後大久野島周辺で被災あるいは発見状況を示す。

上記のうち、死者が発生した件の詳細を示す。

  • 1955年(昭和30年)7月、作業員2人が大久野島の池に沈められた防毒衣などを引上げ作業中に毒ガス障害を起こし、うち1人が後遺症で翌昭和31年1月に死亡[111]
  • 1958年(昭和33年)5月24日、周辺海域で漁民が青酸ボンベ2本を引上げ、それを廃品回収業者が買い取り1本を解体したところ青酸ガスが発生し死者1人・中傷9人・軽症18人の被害が出た[117]

上記の通り、大久野島に国民休暇村が開業する際に調査、あるいは海上自衛隊による周辺海域で掃海が行われている。なお大久野島の東側は1960年代から1990年代にかけて大規模な海砂利採取が行われてきた地点[118]であるが、その際に起きた事例は環境省資料にはない。

戦後BCOFによるあか箱(ジフェニルシアノアルシン)処理の様子。防空壕の中に入れ海水と次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)を注入し加水分解により無毒化させる処置がとられた。
第二桟橋南側にある岩。左写真の現場はここであると推察されている[109]。現在中がどのような状態かは不明。当時よりもコンクリートで覆われていることから対策済であることはわかる。

近年で特に問題となったのが、1995年3月から1996年5月の環境省による大規模調査で、環境基準を大きく超えるヒ素による汚染が確認されたことである[114][119]。当時生産されていた毒ガスの中でヒ素化合物は、ルイサイト(きい2号)、ジフェニルシアノアルシン(あか)、トリクロロアルシン(しろ)、アダムサイト、になる[28][29]。環境省資料では何が原因でヒ素汚染したかは明記していない。市民団体では、戦後直後旧日本軍が隠蔽工作した際の残骸が海底で埋没し土壌汚染した、あるいは戦後進駐軍による処理で機器の焼却処理の際にヒ素が飛散した、戦後BCOFによる処理で防空壕に埋設処理されたあか筒が腐食により流出した[注 10]ものと推定している[6]。以下は1997年時点で環境省が公表する調査資料を元に記載する。

  • 土壌
    • 環境基準を超えたヒ素汚染が確認されたのは、北部海岸周辺、北部砲台跡地、西側テニスコート周辺、運動場西護岸側、国民休暇村前広場、元理材置場、南側キャンプ場付近、東・南の護岸付近及び東側周遊道路沿いの一部。うち北部砲台跡地、運動場西護岸側、元理材置場、は大幅に上回っていた[121]
    • 1999年11月まで土壌汚染対策工事が行われ[119]、現在は立ち入りできる。ただし元理財置場および北部海岸周辺、いわゆる北端の唐人傘周辺は金網フェンスで覆われ立入禁止処置がとられている。
北側忠海からみた大久野島(左)。海底送水管は右の鉄塔付近から島に向けて約2.4キロメートルを布設する計画が立てられた。2009年その調査の段階で金属反応が367箇所(普通のゴミも含む)あった。なお1969年海自掃海の対象外区域であった[122]
  • 水質
    • 水質環境基準・地下水環境基準を超えたヒ素汚染が確認されたのは、島内11カ所の井戸水・8カ所の表流水・湧き水のうち4カ所の井戸。基準を超えた4ヶ所の井戸は、観測時点で全く使用おらず放棄していた状況だった。うち北部砲台跡地内井戸と島南側井戸では大幅に上回っていた。北部は土壌から流出したと考えられ、南側には井戸内に投棄されたとみられる腐食したあか筒が見つかっておりそれが汚染原因と考えられている[121]
    • 休暇村大久野島では2004年から井戸水の使用を中止し、飲料用水などは給水船で島外から運んでいる[123]
  • その他
    • 土壌からの巻き上げによって砒素が飛散した可能性はない[121]
    • 周辺海域および海洋生物の汚染はみとめられなかった[121]

こうした状況下で安定して上水を島外から運び入れるため環境省により「大久野島海底送水管敷設事業」が計画されたが、2009年その敷設工事前の調査段階で空のあか筒・発煙筒とされる23本を海底から発見、見通しがつかないとして事業中止に追い込まれた[123][124]

障害[編集]

国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては遺棄化学兵器問題を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした状況について記す。

毒ガスの製造工場に従事、あるいは戦後の毒ガス処理に従事したものは障害を負うことになる。その障害者数は、少なくとも約6,800人とされる[79][125]

症例[編集]

この障害者特有の、ある意味で職業病とも言える疾患は、呼吸器疾患である[79]。これは毒ガスの飛沫による大気汚染が主因と断定されている[79][126]。特に顕著なのが慢性気管支炎[104][125]。その中でも1988年時点の慢性気管支炎患者のうち78.5%が膿状痰を喀出している[125]

1952年(昭和27年)から調査を開始し、職種によって、グループA:ぴらん剤(イペリット・ルイサイト)の製造に直接従事した人、グループB:工務・焼却・修理・検査・守衛とぴらん剤製造の近くで作業していた人、グループC:ぴらん剤以外の毒ガス製造に従事した人と医務・事務と毒ガス製造自体に関わっていない人、と3つに分類されている。以下その分類で記載する。

以下1973年の論文より職種・勤務期間別の慢性気管支炎発症人数[79]を示す。

慢性気管支炎発症数(人)
勤務期間 1ヶ月
以下
6ヶ月
以下
1~2年 3~5年 6~10年 11年以上
A イペリット・ルイサイト関連 製造 0 14 93 112 57 17
0 2 11 3 6 -
B 工務・焼却 0 8 44 74 26 5
0 1 1 3 - -
検査・守衛 2 5 18 19 - 17
1 2 3 1 8 0
C その他の
ガス製造
4 12 49 18 5 1
1 12 42 17 8 0
医務
事務
4 3 18 15 3 2
0 1 6 6 2 0
10 42 222 238 91 42
2 18 63 30 24 0
上記の集計(人・%)
1ヶ月
以下
6ヶ月
以下
1~2年 3~5年 6~10年 11年以上
A 0(00.0) 14(01.8) 93(11.9) 112(14.3) 57(07.3) 17(02.2) 293(37.5)
0(00.0) 2(00.3) 11(01.4) 3(00.4) 6(00.8) 0(00.0) 22(02.8)
B 2(00.3) 13(01.7) 62(07.9) 93(11.9) 26(03.3) 22(02.8) 218(27.9)
1(00.1) 3(00.4) 4(00.5) 4(00.5) 8(01.0) 0(00.0) 20(02.6)
C 8(01.0) 15(01.9) 67(08.6) 33(04.2) 8(01.0) 3(00.4) 134(17.1)
1(01.0) 13(01.7) 48(06.1) 23(02.9) 10(01.3) 0(00.0) 95(12.1)
小計 10(01.3) 42(05.4) 222(28.4) 238(30.4) 91(11.6) 42(05.4) 645(82.5)
2(00.3) 18(02.3) 63(08.1) 30(03.8) 24(03.1) 0(00.0) 137(17.5)
合計 12(01.5) 60(07.7) 285(36.4) 268(34.3) 115(14.7) 42(05.4) 782(100.0)

イペリット・ルイサイトの現場に近い人ほど慢性気管支炎の発病率が高くなっている[79]。また医務・事務など工場地帯にいなかった人でも発病している[79]。なお体が蝕まれるため6年以上働いたものはほとんどいなかったとする証言がある[24]

調査当初は肺癌を含む呼吸器系の癌の発見が多く、肺癌の標準化死亡比は数倍の高値であった[104][17][127]。のちに肝癌を含む消化器系の癌、ボーエン病を含む皮膚がんが発見されている[17]。調査開始時点で生存していた1,632人のうち1981年末までに557人が死亡したが、その死因で分類したもの[128]が以下のものになる。

主要死因(人・%)
呼吸器系 消化器系 心・血管系 その他 うち悪性腫瘍
によるもの
A 103(18.5) 71(12.7) 29(05.2) 39(07.0) 232(41.7) 116
B 70(12.6) 56(10.1) 39(07.0) 50(09.0) 212(38.1) 146
C 25(04.5) 31(05.6) 26(04.7) 32(05.7) 113(20.3) 24
207(37.2) 158(28.4) 94(16.9) 121(21.7) 557(100.0) 271

グループA・Bともに呼吸器系疾患による死亡が最も多い[128]。グループCでは他の疾患による死亡が多い[128]。またグループA・Bの呼吸器系の癌による死亡は、当時の一般日本人統計に基づいて算出された期待数に比べて4~5倍の高確率で発生している[128]。一方で消化器系の癌ではあまり差がない[128]

また調査の結果毒ガス障害者の二世への影響は極めて少ないと推論されている[126]。なお大久野島で勤労奉仕した女学生の中には被爆後の広島に入り救護活動していた、つまり入市被爆した被爆者もいる[91]。その一人の2002年インタビュー記事では、被爆に関することは書かれているが毒ガスのことは書かれていない[91]

補償[編集]

1952年の診断名(人・%)[79]
呼吸器
疾患
気管支炎 108 93.5
肺結核 23
肺炎 15
肺膜炎 6
肺壊疽 2
喘息 1
肺疾患 2
気管支拡張症 1
扁桃腺炎 1
喉頭炎 1
消化器疾患 3 1.8
循環器疾患 2 1.2
食道癌 1 0.6
肝臓癌 1 0.6
その他 4 -
現在の呉共済病院忠海分院。昭和17年(1942年)陸軍造兵廠忠海製造所従業員・家族診療所として発足した[129]

以下戦後の社会保障の歴史を示す。

  • 1952年(昭和27年、終戦から7年後、毒ガス処理から5年後。大久野島自体は朝鮮戦争に伴い米軍が1956年まで接収[65]。この年の4月にサンフランシスコ講和条約発行およびプレスコード失効。)
    • 広島県立医学大学和田直内科(現 広大大学院医歯薬学総合研究科分子内科学)に、元工員の30歳男性が呼吸困難を訴えて入院、約1ヶ月後に死亡。診断により気管分岐部に発生した扁平上皮癌と診断[104][127]
    • これを受けて7月8日から8月2日にかけて計5回、県立医大内科・病理および竹原保健所の3者協力のもと、元工員男性205人女性5人計210人の健康診断を行う[104][125]。右上表はその時の診断結果。更に死亡診断書が集められ、その中の数名から喉頭癌や肺癌など呼吸器系の癌が推定された[104][127]
    • この直後、30歳の肺癌症例[注 11]を診断した[125]
  • 1953年(昭和28年) : これを基に「大久野島の所謂毒ガス工場工員間に見られた後遺症の検索第1報臨床的観察」として論文公表[125]
  • 1954年(昭和29年) : 国は「ガス障害者のための特別設置要綱」を制定し認定医療制度を開始、国家公務員共済組合連合会忠海病院(現 呉共済病院忠海分院)が元工員のための医療機関に指定される[104][125]
  • 1961年(昭和36年) : 広大医学部第2内科教室(旧 和田内科教室)は、広大病理学教室・広大皮膚科学教室・広大健康管理センター・忠海病院などの協力によって「大久野島毒ガス障害研究会」を設立[125]。竹原保健所を拠点にボランティア活動として開始した[125]。これと並行して旧従業員名簿を作成し始める[104][125]
  • 1962年(昭和37年) : 広大から行武正刀が忠海病院に赴任[130]
  • 1965年(昭和40年) : 国は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ死亡者への公傷一時金給付を開始した[125]
  • 1966年(昭和41年) : 県は、毒ガス工場従事に関する全県下アンケート調査を実施し名簿作成[125]
  • 1969年(昭和44年) : 県は、名簿を基に独自に援護施策を開始した[131]
  • 1970年(昭和45年) : 国家公務員共済組合連合会は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ健康管理手帳を交付し健康手当や医療費給付を開始した[125]
  • 1973年(昭和48年) : 県は、重傷者に対して手当を給付した[125]
  • 1974年(昭和49年) : 国は、「毒ガス障害者に対する救済措置要綱」を制定、今まで除外されていた一般人の毒ガス障害者に対して厚生省を通じて健康管理手帳を交付し各種手当給付を開始した[125]。これにより障害者全員が社会保障対象となった[125]

現在被爆者に準じた措置が取られ[104]、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属は財務省が、それ以外は厚生労働省が担当し、これに県が受託される形で厚労省分は事業全般・財務省分は健康診断のみ(事業全体は国家公務員共済組合連合会が担当)を行っている[131][132]。認定を受けると、年1回無料で一般および精密検査が受けられ健康管理手帳、医療費の自己負担分が免除となる医療手帳、が交付され、症状により手当が支給される[133][131]。これとは別に県独自の施策事業がある[132]。健康管理手帳所有者数は、総数が6,113人(厚労省3,334人・財務省2,779人)[131]。初年度である1974年度が2,965人[125]、2010年度は2,753人平均年齢84歳[133]、2015年度は2,073人平均88歳[133]

地域・従事職種別で障害者団体が10団体結成された[131]が、高齢化に伴い2017年現在で8団体に減り諸事務も一本化された[134]。被爆者と違い、いわゆる二世の団体は存在していない[135]

大久野島毒ガス傷害研究会による集団健診は、ピークが1988年の3,624人が受けていたが、近年は高齢化の影響で決まった日時での受診自体が難しくなっていた[136][137]。2016年研究会は設立当初から続けていた集団健診を停止し個別診断で対応することとなり、その結果2017年は受診者が増えたという[136][137]

慰霊・伝承[編集]

1963年(昭和38年)、大久野島国民休暇村(現休暇村大久野島)が開場[9]、これ以降、島に残っていた旧陸軍毒ガス工場群が壊されていったという[15]。1969年、島内で毒ガス兵器が発見された際には国会で取り上げられたという[15]

1983年、粟屋憲太郎による『支那事変ニ於ケル化学戦例証集』など3種類の重要資料が発見され旧日本軍による化学戦の使用実態が明らかになり、それを全国メディアが報道したことで注目を集めることとなった[138][92]。そうした中で、慰霊碑の建設、そして毒ガス製造の実態を知ってもらおうと資料館建設に向けて動き出した[92]が、国側は消極的であった[92]。これは当時、国側は毒ガスのことを隠したかったためと言われている[92]

1985年、「大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑」が建立、毎年10月に慰霊祭が行われている[131]。1988年、資料館が開館した[92]。1992年、化学兵器禁止条約が起草されると、中国国内の旧日本軍毒ガス兵器の存在が論点となった[138]。この間の資料館の年間入場者数でみると、開館当初は5・6万人台、1995年で約6万5千人のピークに達している[139]。また、平和学習として資料館館長の村上初一が島内ガイド役をしていた[140]が、1990年代後半になると資料館来館者は減少し続け[139]、更に村上が辞任した1996年以降は島内ガイドは市民団体の依頼があれば答える形となった[140]

島を管理する環境省としては、「この島の歴史を語るものとして教育の観点からもできるだけ保存すべきであること」[121]と、保存には前向きな姿勢をとっている。2018年、西日本豪雨で島内の火薬庫跡が土石流で損壊した際、環境省は同年8月16日付報道で「修復するか撤去するかまだ白紙」とコメントを残している[141]

大久野島毒ガス資料館[編集]

Japanese Map symbol (Museum) w.svg 大久野島毒ガス資料館
Okunoshima Poison Gas Museum 20180429-3.jpg
施設情報
専門分野 化学兵器毒ガス)関連
事業主体 竹原市
管理運営 休暇村大久野島
開館 1988年
所在地 729-2311
広島県竹原市忠海町大久野島5491
位置 北緯34度18分21.4秒 東経132度59分38.8秒 / 北緯34.305944度 東経132.994111度 / 34.305944; 132.994111座標: 北緯34度18分21.4秒 東経132度59分38.8秒 / 北緯34.305944度 東経132.994111度 / 34.305944; 132.994111
外部リンク 竹原市大久野島毒ガス資料館
プロジェクト:GLAM
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陶磁器製毒ガス製造器具展示場

毒ガス製造と被害の歴史を風化させないという地元住民の願いがあり、毒ガス資料館が建設された。建物自体は竹原市および周辺市町の元工員や動員学徒など毒ガス被害者の数団体で結成された「大久野島毒ガス被害者対策連絡協議会」[133]が建設し、竹原市に寄贈[142]。1988年(昭和63年)4月、竹原市所有・連絡協の運営で開館した[142]。この経緯は、当時島全体は環境庁(現環境省)が所有する国有地であったこと、国側は建設は許可したものの毒ガスのことを公表することに消極的であったことから[142]。初代館長は元工員でのち竹原市役所に勤務した村上初一[142]

2006年から指定管理者制度を導入、2009年から「休暇村大久野島」が管理している[142]。近年連絡協議会は高齢化によって維持活動が困難になりつつあるとして、毒ガスに関する各種資料の保存に関して国の介入を呼びかけている[143]

年間入場者数は、開館当初は5・6万人台、最大は1995年で約6万5千人、そこから1990年代後半に減少の一途をたどり、2004年から2008年の間は2万人台、2015年時点ではウサギの島として観光客が増大したことに伴い4万人台にまで回復している[139]

島内には毒ガスを製造していた頃の建物が遺構として残っているが、ほぼ立ち入り禁止であることに注意が必要である。大久野島神社境内にある殉職碑は2人目の死者がでた1937年に建立されたもの[35]、毒ガス障害死没者慰霊碑は1983年に建立されたもので、以降毎年協議会の主催で慰霊式が行われている[9]。詳細は休暇村大久野島が公開するパンフレット『島内MAPのご案内 (PDF) 』を参照。

展示内容

資料は2013年時点で約600点収蔵[142]。展示物は以下のもの。

島にある軍事遺構も含め、戦争における大量破壊兵器による悲惨さを伝えるという意味では広島平和記念資料館原爆ドームなどと同じである[9]。ただしこちらは加害者としての歴史、つまり中国での使用に関する資料も展示している[9]。またイランへの医療支援として、イラン・イラク戦争での毒ガス後遺症治療にあたる医師・看護婦をそのノウハウを持つ広島の医療機関が受けいれたこと[130]が縁で、その関連資料も展示している。

利用情報
  • 開館時間 : 9:00 - 16:30
  • 休館日 : 年末年始
  • 入館料 : 19歳以上 100円、18歳以下 50円、団体割引あり
  • 交通:大久野島#交通参照

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当時の忠海町長望月忠吉が望月圭介の息子であったため誘致に成功したとする説[6][15]があるが、忠吉は圭介の叔母にあたるチヨの孫つまり圭介の従甥[16]にあたる。また望月が白川義則陸軍大臣と親しかったため頼んだとする資料[15]があるが、大久野島で製造所が着工した昭和2年(1927年)[3][17]に発足した田中義一内閣で双方とも初めて閣僚入りしている(望月:逓信相、白川:陸軍相)。なお田中義一は元陸軍で当時政友会総裁、望月は昭和2年時点で政友会総務。
  2. ^ それぞれ別の資料から。元資料も推定部分が多いことに注意[19]
  3. ^ 1937年-1943年の間の月生産量[19]
  4. ^ 1931年以降[19]
  5. ^ かつて瀬戸内海のこの付近は製塩が盛んであり、海水から塩を作る際の熱源として大量の薪が必要だったことから、この周辺の山々はハゲ山が多かった。
  6. ^ A二工室は製造所内最大の工場で、室内で充満するイペリットガスを排風機で排出していたが十分ではなかった[78]。これに夜間だと湿気が籠もるため、受傷しやすくなった[2]
  7. ^ フランス式イペリットは不純物が多いため再蒸留して純度を高めた[13]
  8. ^ 東広島市八本松には川上に第11海軍航空廠の補給廠(現川上弾薬庫)と、八本松町東4丁目に陸軍兵器補給廠八本松分廠(現在民間工場)があり、双方ともに毒ガスを貯蔵していた[103]。資料では海軍の川上はあるが陸軍の八本松の記載がない。
  9. ^ 名前・肩書はオーストラリア戦争記念館が公開する写真の説明と帝人資料[107]から。
  10. ^ 2003年神栖市でヒ素中毒が発生した際、当初は毒ガス兵器あか筒が原因と考えられていたが、現在では産業廃棄物の不法投棄による汚染の可能性が高いとされている[120]
  11. ^ 当時日本での年間肺癌発症例は500~600例程度[125]

出典[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]