大久野島毒ガス資料館

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Japanese Map symbol (Museum) w.svg 大久野島毒ガス資料館
Dokugasmuseum.JPG
施設情報
専門分野 化学兵器毒ガス)関連
事業主体 竹原市
管理運営 休暇村大久野島
開館 1988年
所在地 729-2311
広島県竹原市忠海町大久野島5491
位置 北緯34度18分21.4秒 東経132度59分38.8秒 / 北緯34.305944度 東経132.994111度 / 34.305944; 132.994111座標: 北緯34度18分21.4秒 東経132度59分38.8秒 / 北緯34.305944度 東経132.994111度 / 34.305944; 132.994111
公式サイト 竹原市大久野島毒ガス資料館
プロジェクト:GLAM

大久野島毒ガス資料館(おおくのしまどくガスしりょうかん)は、広島県竹原市大久野島にある戦争兵器として使われた毒ガスに関する博物館である。

概要[編集]

この島では1929年(昭和4年)から1944年(昭和19年)[1]あるいは1945年(昭和20年)終戦まで、秘密裏に大日本帝国陸軍によって毒ガスが製造されていた。その歴史を風化させないという地元住民の願いがあり、毒ガス資料館が建設された。

建物自体は竹原市および周辺市町の元工員や動員学徒など毒ガス被害者の数団体で結成された「大久野島毒ガス被害者対策連絡協議会[2]」が建設し、竹原市に寄贈[3]。1988年(昭和63年)4月、竹原市所有・連絡協の運営で開館した[3]。初代館長は元工員でのち竹原市役所に勤務した村上初一[3]。2006年から指定管理者制度を導入、2009年から「休暇村大久野島」が管理している[3]。近年協議会は高齢化によって維持活動が困難になりつつあるとして、毒ガスに関する各種資料の保存に関して国の介入を呼びかけている[4]

年間入場者数は、開館当初は5・6万人台、最大は1995年で約6万5千人、そこから90年代後半に減少の一途をたどり、2004年から2008年の間は2万人台、2015年現在はウサギの島として観光客が増大したことに伴い4万人台にまで回復している[5]

なお島全域は環境省の所管である[6][7]。島内には毒ガスを製造していた頃の建物が遺構として残っているが、ほぼ立ち入り禁止であることに注意が必要である。大久野島神社境内にある殉職碑は2人目の死者がでた1937年に建立されたもの[8]、毒ガス障害死没者慰霊碑は1983年に建立されたもので、以降毎年協議会の主催で慰霊式が行われている[1][9]。詳細は休暇村大久野島が公開するパンフレット『島内MAPのご案内 (PDF) 』を参照。

展示内容[編集]

資料は2013年時点で約600点収蔵[3]。展示物は以下のもの。

島にある軍事遺構も含め、戦争における大量破壊兵器による悲惨さを伝えるという意味では広島平和記念資料館原爆ドームなどと同じである[1]。ただしこちらは加害者としての歴史、つまり中国での使用に関する資料も展示している[1]。またイランへの医療支援として、イラン・イラク戦争での毒ガス後遺症治療にあたる医師・看護婦をそのノウハウを持つ広島の医療機関が受けいれたこと[10]が縁で、その関連資料も展示している。

利用情報[編集]

  • 開館時間 : 9:00 - 16:30
  • 休館日 : 年末年始
  • 入館料 : 19歳以上 100円、18歳以下 50円、団体割引あり

交通[編集]

大久野島#交通参照

歴史[編集]

背景[編集]

大久野島周辺

廃藩置県後、豊田郡の郡役場は大久野島の北側である忠海に置かれ、そして明治23年(1890年)には呉憲兵分隊が忠海に置かれて以降陸軍の施設が置かれていった[11]。つまり現在の竹原市域において、竹原が商業の中心、忠海が政治および軍事の中心と役割が分かれていた[11]。この島には、国土防衛と当時の兵器性能の問題から陸軍の芸予要塞が築かれた[12]。ただ日露戦争などで芸予要塞は用いられることはなく、のちの防衛再編成と兵器性能の向上により大正13年(1924年)廃止となった[12]

日本軍の毒ガスは第一次世界大戦での他国の頻繁な使用を受けて、まず大正3年(1914年)陸軍技術審査部で研究が始まる[注釈 1][13]。その中で陸軍唯一の毒ガス製造所が大久野島にできるわけだが、ここに決まった理由として毒ガスを研究する市民団体などでは以下のとおり結論づけている。

  1. 大正12年(1923年)関東大震災を受けて、陸軍は毒ガス関連施設を地方に置きたい考えに至った。そこで、労働力と資材確保がし易く、一方で事故が起きた場合でも被害の拡散が小さいこと、そして中国大陸から近い、ところが選ばれた[14]
  2. 大正9年(1920年)第一次世界大戦終結後の戦後恐慌、大正13年(1924年)芸予要塞が廃止されたことを受けて、忠海町は不況対策として陸軍施設を積極的に誘致した。その中で大崎上島出身で当時与党立憲政友会幹事長を務めた望月圭介[注釈 2]が誘致に尽力した[14]

編成[編集]

大久野島には昭和2年(1927年)から工場建設が始まり、昭和4年(1929年)陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所、のちの東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所が開所し、毒ガス製造を開始する[1][13]。 以下、陸軍の毒ガス研究および生産の編成を記載する。

研究 陸軍科学研究所 大正8年(1919年) [13]
製造 陸軍造兵廠忠海製造所 昭和4年(1929年) [13]
教育訓練 陸軍習志野学校 昭和8年(1933年) [13]
充填 陸軍造兵廠曽根製造所 昭和12年(1937年) [13]
習志野
習志野
大久野島
大久野島
曽根
曽根
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館の位置
赤が陸軍における毒ガス編成[16]。青が海軍の毒ガス製造拠点があった相模海軍工廠[13]


以下、環境省の取りまとめによる、当時制式化されていた毒ガスを示す。呼称は陸軍は色で、海軍は特薬○○号と番号で区別しており[13]、ここでは陸軍式で記載する。

名称 種類 化学物質 備考
ちや(茶) 血液剤 シアン化水素(青酸) 最初に製造された毒ガス[13][17][18]
みどり(緑) 催涙剤 クロロアセトフェノン 開所当初から製造[13][17][18]
きい(黄) 糜爛剤 マスタード(イペリット)
ルイサイト
最も製造されたもの[6][13][18]
一号がイペリット、二号がルイサイト。
あか(赤) 嘔吐剤 ジフェニルシアノアルシン [13][17][18]
あを(青) 窒息剤 ホスゲン [13][18]大久野島では量産されていない[19]
しろ(白) 発煙剤 トリクロロアルシン [18]大久野島では量産されていない[19]
60kgガス弾。

つまり陸軍では、大久野島で化学物質が作られ、曽根まで貨車輸送[20]しそこで兵器として詰め替えられ、習志野で運用訓練し、大陸(日中戦争)で用いたのである。

生産量のピークは昭和18年(1943年)太平洋戦争の時期である[6]。昭和12年から昭和18年の月生産量は、イペリット200から450トン、ルイサイト50トン、ジフェニルシアノアルシン50から80トン、青酸約50トン、クロロアセトフェノン約25トン、とされている[6]。昭和6年(1931年)以降の総生産量は環境省が採用している資料[注釈 3]によると、きい一号甲915トン、きい一号乙921トン、きい一号丙969トン、きい二号1,268トン、あか一号1,757トン、みどり一号28トン、ちゃ一号248トン、とされている[6]

その他、発煙筒や「あか筒」「みどり筒」と呼ばれるあか剤・みどり剤を発射し煙を発生させる筒類も作られていた[19]

当時、毒ガス製造所の存在は機密性から秘匿され、陸地測量部が発行した一般向け地図においても大久野島一帯は空白地域として扱われた[21]。そして戦中、連合国軍側がこの島の製造所の存在を知っていたかは不明。太平洋戦争末期、呉軍港空襲と同時作戦で周辺島嶼である因島因島空襲)や契島あるいは今治市松山大空襲)が攻撃されており[22]、この島も空襲される可能性もあった。証言によると、1945年7月の一度だけこの島の上空に偵察機が飛来してきたが、高射砲隊はバレることを恐れて撃たなかったという[23]

島内[編集]

1947年
三軒屋工場群。中央がA三工室と呼ばれたルイサイト工場[24]。
三軒屋工場群。中央がA三工室と呼ばれたルイサイト工場[24]
長浦地区のちゃ一号工室。サイロームも製造していた[25]。
長浦地区のちゃ一号工室。サイロームも製造していた[25]

この島で最初に作られた化学物質は毒ガスではなく、青酸を用いた殺虫剤「サイローム」である。そしてサイローム製造が毒ガスちや剤に転用されるわけである[17]。サイロームはちや剤と平行して作られており、瀬戸内海の島嶼では近代に入ると柑橘栽培が盛んになったことから造兵廠の印が入ったサイロームはよく効くとしてごく一般に流通していた[26][27]

島内で作業に従事したのは、ピーク時で約2,000人、のべ人数で6,500人と言われている[1][28]軍属には近隣で雇用されたものや、開所時期は昭和恐慌が起こっていたことから危険手当も出る給料に釣られ工場を建設していた日雇い労働者がそのまま島に残ったものもいる[8]。最初に作業中死亡したのは松村組から転職した人物であった[8]。作業中障害者や死者も出したが、当時の工員の証言によると事故が起こるとその都度安全対策がとられたため、年々障害範囲は少なくなっていったという[29]。そして戦争が続く中、労働者確保のため徴用工や学徒勤労動員・勤労報国隊が用いられた[30]。昭和15年(1940年)には特殊工を養成するため技能者養成所が島に開校している[31]。これら工員の募集には毒ガスとは言わず「化学を応用した皇軍兵器」と説明し、工員となった後は機密保持のため厳しい罰則が科せられたという[1][32]。また因島や向島にあった軍需工場では捕虜を作業員として用いていたが(旧向島捕虜収容所メモリアルプレート参照)、大久野島では捕虜は用いていない。

島内の建物配置などは、『昭和14年「密大日記」第13冊”化学兵器貯蔵設備追加實施に関する件”』 アジア歴史資料センター Ref.C01004702600 や、市民団体毒ガス島歴史研究所が作成した地図『伝言(東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)案内図』を参照。

  • 生産拠点は2箇所、南西部の三軒屋工場群と、西中部の長浦地区工場群。まず三軒屋で建設が進み、長浦に工場ができていった[33]。それでも手狭となったため、北側忠海にも陸地工場が造られている[33]
  • 廃止となった芸予要塞の砲台跡は倉庫として用いられた。
  • 写真でも分かる通り、建物には迷彩が施されていた。そして島全体は植樹され緑で覆われ[注釈 4][34]、樹木で資材を隠していた。
  • 表桟橋は南東部にあり、これが現在の第一桟橋である。その北側には技能者養成所があった。
  • 東中部、北方向に少し細長く出ているところは芸予要塞を運営していた頃の旧桟橋。旧桟橋の山側には当時島内の電力を賄った火力発電所がある。
  • 排水などによって戦前から化学物質が海に放流されていた[6]
  • 化学変化によって成分が変わらないよう工夫がなされている。例えば、陶磁器製のタンク[35]が用いられ、加熱には蒸気[36]が用いられた。
  • 現在ウサギの島として有名だが、このころから動物実験用に飼われていた[8]。戦中・戦後には食用にされたという[37][38]。またガス漏れ対策に小鳥も飼われていた[8]
  • 表桟橋付近に炊事場(食堂)があった。大盛りご飯15銭、小盛り10銭、かけうどん10銭のほか、二重焼も売られていた。壁には世界で初めての大規模毒ガス戦があった第二次イーペル会戦英語版の大判の絵が飾られていた[28]
  • 島の南端大久野島灯台付近のみ逓信省所管[39]
  • 小久野島には終戦まで何も施設はなかった。

太平洋戦争末期、不要となった工場は火薬工場に転用された[33]。そして連合国軍の空襲が本格化すると島内の作業を地下化することとなり、男工員のほとんどが防空壕掘りに従事した[22]。昭和20年(1945年)2月に完了し、物資の疎開および作業の地下移転が行われた[22]。女子学徒は風船爆弾の気球部分の製造を担った[1][22]。毒ガス製造は昭和19年までで昭和20年にはそれを止め風船爆弾製造作業をしていたとする資料[1]があるが、こういった背景があるためである。

戦後処理[編集]

国外、特に中国での毒ガス廃棄問題に関しては遺棄化学兵器問題を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした廃棄について記す。
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館
大久野島
大久野島
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館
八本松
八本松
大嶺
大嶺
曽根
曽根
大久野島毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館の位置
中国地方以西における終戦時の主な生産・保管場所[16]。赤が陸軍、青が海軍。

終戦時全国に毒ガスが配備されていたが、その理由については環境省が取りまとめた資料では以下のとおり。

  1. 研究・訓練および実験などのため配備。陸軍では科学研究所や演習場、陸軍学校などへ配備された[13]。海軍では、海軍亀ヶ首射撃場(倉橋島)で毒ガス弾の実験が行われたという証言がある[40]
  2. 昭和19年(1944年)1月29日大本営陸軍部はアメリカが毒ガスを使用する可能性が高いとして「毒ガス戦準備計画」を立案した。これにより忠海と小樽の2つが集積拠点に選ばれ毒ガス弾が配備された[40]
  3. 疎開...空襲を避けるため安全な拠点に移されたもの。陸軍では、八本松や大嶺などに運ばれている[40]。海軍では、各地の航空廠[注釈 5]に運ばれた[40]

つまり大久野島には毒ガスの化学物質だけではなく兵器も保管されていたことになる。また、この南側の大三島には大久野島から運び込まれた毒ガスが貯蔵され[41]、西側の阿波島には出張所が置かれ毒ガス弾を貯蔵していた[42]。以下、2003年時点での環境省が公表する資料におけるその3島の終戦時での保管量[42]を示す。

イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノアルシン
クロロ
アセトフェノン
兵器類 備考
大久野島 1,451 トン 824 トン 13.2 トン 958.1 トン 7 トン - 大三島分も含む
大三島 - - - (595 トン) (7 トン) -
阿波島 - - - - - ちび弾 数量不明
各種あか筒89,504本
BCOF作業中の看板。"D.E.E."とはDISPOSAL ENEMY EQUIPMENT(敵兵器処理)。署名はR.A.スピニー空軍中佐。
BCOF作業中の看板。"D.E.E."とはDISPOSAL ENEMY EQUIPMENT(敵兵器処理)。署名はR.A.スピニー空軍中佐。
右が統括指揮した第1騎兵師団化学兵器部隊のW. E. ウィリアムソン陸軍少佐。左がDEEのJ. P. レドモンド空軍少佐。
右が統括指揮した第1騎兵師団化学兵器部隊のW. E. ウィリアムソン陸軍少佐。左がDEEのJ. P. レドモンド空軍少佐。

終戦直後の毒ガス処理は下記の3者が行っている。処理方法は大きく分けて3種類、埋設/海中投棄/焼却、である[43]。殆どが島内およびその周辺海域で行われた。一部には楠瀬常猪広島県知事などからの投棄中止要望により、県が引き取ったものも存在する[44]

  1. 旧日本軍による隠蔽工作。
  2. 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の日本進駐後、まずアメリカ陸軍第41歩兵師団英語版が処理[44]
  3. 進駐軍再編を受けて中四国地方を管轄したイギリス連邦占領軍(BCOF)が引き継ぎ[44]

まず旧日本軍による投棄が始まる。証言によると、戦後すぐ周辺海域にボンベ類を投棄したという[45]。また証言によると、工員たちは命令により島にあった毒ガス製造機械の解体に入り周辺海域に投棄したものの、1週間後には中止命令が出たという[45][46]

次に昭和20年(1945年)10月あるいは11月、第41師団は化学処理部隊135人を大久野島に派遣、チオジグリコール113トン[注釈 6]シアン化ナトリウム(青酸ソーダ)など7種とその発射筒を焼却・周辺海域に投棄した[45][44]。一方でイペリットやルイサイトは、他所の海域への海中投棄が考えられていたがこの時点で瀬戸内海のすべての機雷除去が終わっていなかったため処理は見送られている[44]。彼らの作業は昭和21年(1946年)2月まで続いた[45]

昭和21年5月からBCOFが引き継ぐ[47]。指揮はアメリカ軍ウィリアムソン少佐、実際の任務はBCOFのDEEセクションが担当し、これに日本民間人が参加した。特に帝国人絹(帝人)が入ったのは、この島にあった海水から塩を作る機器[注釈 7]を帝人工場に転用する契約をしていたためであり、三原市にあった帝人三原工場から人材が派遣され、毒ガス処理の最前線に回った[47]。まず、忠海兵器補給廠・大三島・阿波島・米光(周南市)・切串(呉市)・川上(東広島市八本松)・内海(福山市) など、旧日本陸海軍が保管していた周辺にある毒ガスを大久野島に集め、それから処理を始めた[49]。なおウィリアムソンは任務中ルイサイトに被災したことにより離れたが、イペリット破棄の際にDEEだけでは手に負えないとして回復後再度任務についている[47]。ほぼ大久野島周辺で行われたが、中には高知県土佐沖太平洋まで運ばれ海中投棄されたものもある[44]電動機などの貴重な機器は賠償として進駐軍が持ち帰っている[47]。そして最終的には島全体に次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)が撒かれ、全作業は昭和22年(1947年)5月末あるいは6月に完了した[47][50]

以下、2003年時点での環境省が公表する資料における大久野島と阿波島の毒ガス処理状況[51]を示す。これには旧日本軍とBCOFの処理作業が書かれ第41師団の処理作業は含まれていない。

イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノ
アルシン
クロロ
アセト
フェノン
砲・爆弾 廃棄時期 廃棄方法
大久野島 ボンベ類、数量不明 - 終戦時 旧日本軍により
大久野島周辺海域に投棄
- - - - -

くしゃみ剤

  • 大 65,933個
  • 中 123,990個
  • 小 44,650個
  • 発射筒 421,980個
1946年5月
-同年9月18日
BCOFにより
島内防空壕に埋設
海水・さらし粉注入
56トン(内訳不明)
  • 催涙棒 2,820箱
  • 催涙筒 1,989箱
- 不明 BCOFにより
島内焼却
- - - 1,390トン - - 1946年9月
-1947年5月
BCOFにより
島内埋設
19トン 40トン 10トン - - - 1946年11月
-1947年5月
BCOFにより
除毒・焼却後
大久野島周辺海域に投棄
- - - - 10トン - BCOFにより
海中投棄(場所不明)
  • 毒液 1,854トン
  • 毒液缶 930トン
    / 7,447缶
- 990トン
/ 9,901缶
催涙剤 7トン
/ 131缶
  • 60kgガス弾
    13,272個
  • 10kgガス弾
    3,036個
不明 BCOFにより
土佐沖に海中投棄
阿波島 - - ちび弾
数量不明
- - - 1945年8月
同年10月
旧日本軍により
島内焼却
- - - - - あか筒
4個入り×50から60箱
旧日本軍により
島内退避壕に埋設
- - - - - あか筒
20個×20箇所ぐらい
不明 BCOFにより
島内砂浜に埋設

残存[編集]

国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては遺棄化学兵器問題を、日本国内での問題は化学兵器#化学兵器の廃棄処理を参照。ここでは特に大久野島を中心とした状況について記す。
北側忠海からみた大久野島(左)。海底送水管は右の鉄塔付近から島に向けて約2.4キロメートルを布設する計画が立てられた。2009年その調査の段階で金属反応が367箇所(普通のゴミも含む)あった。なお1969年海自掃海の対象外区域であった[54]

上記の通り、戦後処理のかなりの数が島内の防空壕や周辺への海中投棄されたことから、現在でも兵器の残骸など発見が続いている。1970年代初頭まで海中から引き上げた漁師が被災しており、中には死者もだしている[44]

1969年11月13日から同年12月18日にかけて、海上自衛隊により周辺海域の掃海が行われたがこの時は発見されなかった[55]。1997年以降、危険物質が確認された場合は化学兵器禁止条約に基いて処理されている。

近年で特に問題となったのが、1995年3月から1996年5月の環境省による大規模調査で、環境基準を大きく超えるヒ素による土壌汚染が確認されたことである[56][57]。毒ガスを研究する市民団体はその原因として、防空壕に埋設処理されたくしゃみ剤あか筒の化学物質であるジフェニルシアノアルシン(ジフェニル青化ヒ素)が腐食により土壌に流出したもの、あるいは機器の焼却処理の際にヒ素が飛散したものと推定している[14]。1997年環境省報告書によると土壌から浸透し井戸などに流れた量としては人体に影響を及ぼさないほどの微量であり[58]、発見された土壌自体も同年11月までに対策工事が完了している[57]。2009年報道によると、これを受けて行われた県による周辺海域の海中汚染モニタリングではヒ素は検出されておらず海洋生物の異常報告もなかったという[7]

ただしこのことを受けて2004年から幾つかの井戸を完全に閉鎖し、現在宿泊施設である「休暇村大久野島」が利用する水は島外から船で運ばれている[7]。そのため環境省は島に上水を送る海底送水管布設を計画したが、2009年その布設地点周辺での調査で海中投棄された兵器が発見されたことにより、見通しがつかないとして事業中止に追い込まれた[59][60]

以下、戦後大久野島周辺で被災あるいは発見状況[53]を示す。

日時 状況 種類
1946年秋
から1947年
被災
  • イペリット
  • 箱に入ったもの
    (中身未確認)
  • LST-814による土佐沖での廃棄作業中、台風により座礁。
  • 約90人が毒液を浴び、1人が後に死亡。
1951年4月 被災 不明
  • タコ漁の際に海底にあったとみられる毒物に被災。
1955年7月 被災 イペリットらしいもの
  • 島内の池にあった防毒衣などの除去作業中に作業員2人が毒ガス障害。
  • うち1人は後遺症で1956年1月死去。
1955年頃 処理 不明
  • 島内で臭気黄土を発見。
  • コンクリート槽へ埋設。
1955年頃 発見 不明
  • 大久野島・小久野島・松島で囲まれた海域で漁師が正体不明のドラム缶を引き上げる。
  • 中身を確認せす再投棄。
1958年5月29日 被災

青酸ガスボンベ

  • 約20kg×1本
  • 漁師が網にかかったボンベを廃品回収業者に転売、解体作業中に被災。
  • 死者1人・中傷9人・軽傷18人。ボンベは民間会社が処理。
1961年6月13日
から同月15日
発見

くしゃみ剤

  • 2.5tトラック×5・6台分
  • 国民休暇村になるにあたり県が自衛隊に調査を依頼、防空壕内で発見
  • 処理方法は不明
1961年 被災

イペリットと推定

  • 新聞報道によると、国民休暇村工事請負業者が工事中に被災
  • それ以上の詳細は不明
1964年7月31日 発見

茶1号(青酸ボンベ)

  • 1個
  • 漁船が海中から毒ガスボンベを引き上げ
  • 竹原市に陸揚げ
1964年8月1日 発見

毒ガス入りボンベ

  • 1本
  • 民間人が購入した古鉄の中に毒ガスボンベがあった
  • 陸自が回収、海自が引き継ぎ海中投棄
1964年8月26日 発見

毒ガス入りボンベ

  • 1本
  • 詳細不明
  • 海自が引き継ぎ海中投棄
1968年5月11日 被災

毒物ボンベ

  • 1本
1人負傷
1969年8月26日 発見
  • あか筒 3本
  • 発射筒 1本
  • 島内で発見
  • コンクリート密封の後、海中投棄
1970年1月12日
から同月16日
発見

あか筒

  • 650本
  • 島内防空壕で発見
1970年1月13日
から同月15日
発見

あか筒

  • 大 22本
  • 中 約600本
  • 発射筒 1,000本
  • 厚生省・防衛庁が追跡調査を行い防空壕内で発見
  • 上記の物も含め、同年3月いっぱいまで防空壕の閉鎖処理
1970年5月11日 被災

毒ガスボンベ

  • 1個
  • 小型底曳網にかかったボンベで漁師がノドに炎症。
  • コンクリート詰め後、海中投棄。
1970年12月22日 被災

青酸ガスボンベ

  • 1本
  • 小型底曳網にかかったボンベで乗務員4人が負傷。
  • 自衛隊がコンクリート詰め後、太平洋で海中投棄。
1971年2月8日 発見

ボンベ

  • 1本
  • 漁師が酸素ボンベ状のものを引き上げる。
  • 竹原市役所が調査、危険性はないとして市役所が保管
1971年2月8日 被災

毒ガスボンベ

  • 1本
  • 小型底曳網にかかったボンベがガス漏れを起こし漁師が軽い中毒症状。
  • 運搬中にガスがすべて放散したため、海中投棄。
1972年4月18日 被災
  • ドラム缶 2個
  • コンクリート槽 1個
  • 護岸工事中に作業員が発見。ドラム缶から流出した液体によりかぶれる。
  • 診断および成分検査の結果毒ガスとは断定されず。
1995年3月
から1996年5月
調査

土壌汚染

  • 環境省による土壌および地下水調査で最大で環境基準値2200倍のヒ素を検出
  • 1998年から撤去開始、1999年完了
1997年 発見

あか筒の残骸

  • 35本
  • 市民が島の北部海岸にてあか筒の残骸1本を発見。
  • 環境省・県・市の詳細調査で34本発見
1997年9月 発見 不明
  • 新聞報道によると、金属製の筒1本が発見された
  • それ以上の詳細は不明
1999年3月26日 発見

大あか筒

  • 9本
  • 島内整備工事中に防空壕内から発見
  • 化学兵器禁止条約に基いて無害化処理
1999年10月23日 発見

97式中あか筒

  • 3本
  • 市民が島内で発見
2009年1月19日[59] 発見

あか筒

  • 23本
  • 環境省による大久野島海底送水管敷設事業の際に北側海域で発見

被災[編集]

国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては遺棄化学兵器問題を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした被災について記す。
1952年までに下された診断名(人)[61]
呼吸器
疾患
気管支炎 108 93.5%
肺結核 23
肺炎 15
肺膜炎 6
肺壊疽 2
喘息 1
肺疾患 2
気管支拡張症 1
扁桃腺炎 1
喉頭炎 1
消化器疾患 3 1.8%
循環器疾患 2 1.2%
食道癌 1 0.6%
肝臓癌 1 0.6%
その他 4 -
現在の呉共済病院忠海分院。昭和17年(1942年)陸軍造兵廠忠海製造所従業員・家族診療所として発足した[62]

毒ガスの製造工場に従事、あるいは戦後の毒ガス処理に従事したものは障害を負うことになる。その障害者数は約6,800人と推定されている[30]

この障害者特有の疾病は、糜爛剤きい剤の化学物質であるイペリット(マスタード)ルイサイトを原因とする呼吸器疾患である[61]。これは、当時島内でこの化学物質が空中に大気汚染として漂っており長期間吸ったことで発症したと断定されている[61][63]。特に顕著なのが、膿状の痰を喀出する慢性気管支炎[30]。そして疫学的研究から、イペリット製造に従事したものは肺癌発症が早期化することがわかっている[30]。毒ガス製作所開所時から関わっていた元工員は、当時イペリットとの接触による外部疾患対策は各自自主的な完全防御を行っていたが[64]、内部疾患は想定しておらず対策を施さなかったためこれら後遺症が残ったと考えている[29]。一方で被爆者と大きく異なる点は障害者二世への影響は極めて少ないことで、広島大学の調査で明らかとなった[65]

現在の毒ガス障害者への健康診断や後遺症の研究は広島大学を中心とする組織「大久野島毒ガス傷害研究会」、指定医療機関としては呉共済病院忠海分院などになる。以下戦後の社会保障の歴史を示す。

  • 1952年(昭和27年)
    • 広島県立医学大学和田直内科教室(現 広大大学院医歯薬学総合研究科分子内科学教室)が7月8日から8月2日にかけて計5回、元工員男性205人・女性5人・計210人の健康診断を行う[30]。右表はそれを元に書かれた論文の中にあるデータ。
    • この直後、元工員の30歳男性を和田内科教室が診断、肺癌が発覚した[30]。当時肺癌発症例は少なかった[注釈 8]ことから、毒ガスによるものとして考察した[30]。なお、資料によってはこの肺癌発症者がわかったため元工員たちの健康診断を始めたとするものもある[61]
  • 1954年(昭和29年) : 国は、「ガス障害者のための特別設置要綱」を制定し認定医療制度を開始、国家公務員共済組合連合会忠海病院(現 呉共済病院忠海分院)が元工員のための医療機関に指定される[62][30]
  • 1961年(昭和36年) : 広大医学部第2内科教室(旧 和田内科教室)は、広大病理学教室・広大皮膚科学教室・広大健康管理センター・忠海病院などの協力によって「大久野島毒ガス障害研究会」を設立[30]。竹原保健所を拠点としてボランティアで活動を開始した[30]
  • 1962年(昭和37年) : 広大から行武正刀が忠海病院に赴任[10]
  • 1963年(昭和38年) : 大久野島国民休暇村(現 休暇村大久野島)が開場[1]
  • 1965年(昭和40年) : 国は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ死亡者への公傷一時金給付を開始した[30]
  • 1966年(昭和41年) : 県は、毒ガス障害者に対しアンケート調査を実施し名簿作成[30]
  • 1970年(昭和45年) : 国家公務員共済組合連合会は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ健康管理手帳を交付し健康手当や医療費給付を開始した[30]
  • 1973年(昭和48年) : 県は、重傷者に対して手当給付開始[30]
  • 1974年(昭和49年) : 国は、「毒ガス障害者に対する救済措置要綱」を制定、今まで除外されていた一般人の毒ガス障害者に対して厚生省を通じて健康管理手帳を交付し各種手当給付を開始した[30]。これにより障害者全員が社会保障対象となった[30]

健康管理手帳所有者のピークは、1987年度の4,772人[2]。2010年度は2,753人平均年齢84歳、2015年度は2,073人平均88歳、と高齢化が進んでいる[2][9]。2016年大久野島毒ガス傷害研究会は高齢化の影響で指定日時場所での受診が難しくなったとして、設立当初から続けていた集団健診を停止し、今後は個別診断で対応することとなった[66]

脚注[編集]

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注釈
  1. ^ 化学兵器の戦争での使用は1925年ジュネーブ議定書で禁止されていたが、開発保有は合法だった。また当時の日本は署名だけしており、批准はしていなかった。
  2. ^ 毒ガスを研究する市民団体では当時の忠海町長望月忠吉が望月圭介の息子であったため誘致に成功したとしている[14]が、忠吉は圭介の叔母にあたるチヨの孫、つまり圭介の従甥[15]にあたる。
  3. ^ 総生産量は現在資料が少なく推定部分が多い[6]ことに注意。
  4. ^ 瀬戸内海のこの付近は製塩が盛んであり、海水から塩を作る際の熱源として大量の薪が用いられていたことから、当時この周辺の山々はハゲ山が多かった。
  5. ^ この付近では第11海軍航空廠
  6. ^ イペリットの原料である[44]
  7. ^ 塩はルイサイトの原料の一つ[48]
  8. ^ 当時日本での年間発症例は5、600例程度[30]
出典
  1. ^ a b c d e f g h i j Peace Seeds ~ヒロシマの10代がまく種 第8号「大久野島の光と影」”. 中国新聞 (2015年4月23日). 2016年7月24日閲覧。
  2. ^ a b c 毒ガスの島70年 忘れ得ぬ記憶 <2> 組織の行方 高齢化で存続の道険し”. 中国新聞 (2015年10月15日). 2016年7月24日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 大久野島毒ガス資料館初代館長 村上さんの遺志継承誓う 竹原で偲ぶ会”. 中国新聞 (2013年4月30日). 2016年7月24日閲覧。
  4. ^ 毒ガス資料保存 初要望 大久野島連絡協 財務・厚労省を訪問 竹原”. 中国新聞 (2016年11月11日). 2017年8月8日閲覧。
  5. ^ 毒ガスの島70年 忘れ得ぬ記憶 <1> 楽園”. 中国新聞 (2015年10月14日). 2016年7月24日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 環境省 2003, p. 197.
  7. ^ a b c 斉藤環境相インタビュー 要旨”. 中国新聞 (2009年7月22日). 2016年7月24日閲覧。
  8. ^ a b c d e 服部忠 『秘録 大久野島の記』 毒ガス島歴史研究所、1956年、4.最初の犠牲者頁http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0505.htm 
  9. ^ a b 毒ガス死没者に誓う不戦 竹原・大久野島で慰霊式”. 中国新聞 (2015年10月23日). 2016年7月24日閲覧。
  10. ^ a b イラン毒ガス禍 医療支援 ヒロシマの教訓と大久野島の経験もとに現地医師団の研修受け入れ”. 中国新聞 (2008年2月21日). 2016年7月24日閲覧。
  11. ^ a b 竹原市歴史的風致維持向上計画について 第2章 (PDF)”. 竹原市. 2016年7月24日閲覧。
  12. ^ a b 芸予要塞・小島砲台跡”. 土木学会. 2016年7月24日閲覧。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n 環境省 2003, p. 10.
  14. ^ a b c d Q&A「大久野島と毒ガス」”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  15. ^ 望月圭介伝刊行会 『望月圭介伝』 羽田書店、1945年、24頁。2016年8月12日閲覧。
  16. ^ a b 環境省 2003, pp. 15-16.
  17. ^ a b c d 大久野島で製造された毒ガス”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  18. ^ a b c d e f 毒ガス弾等とは何か ~旧日本軍製造の毒ガス兵器~”. 環境省. 2016年7月24日閲覧。
  19. ^ a b c 服部忠 『秘録 大久野島の記』 毒ガス島歴史研究所、1956年、付表頁http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0520.html 
  20. ^ 服部忠 『秘録 大久野島の記』 毒ガス島歴史研究所、1956年、7.製品の旅頁http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0511.html 
  21. ^ 今尾恵介 (2009年7月17日). “第3回 毒ガスは地形図の空白で作られた”. 白水社(Internet Archives). 2012年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月24日閲覧。
  22. ^ a b c d 服部忠 『秘録 大久野島の記』 毒ガス島歴史研究所、1956年、13.風船爆弾頁http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0517.html 
  23. ^ 北部監視所”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  24. ^ A三工室の室内、室外環境”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  25. ^ 茶一号(青酸)工室”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  26. ^ サイローム─毒ガス製造のはじまり”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  27. ^ 『潮流』 「松本サリン」の記憶”. 中国新聞 (2014年12月22日). 2016年7月24日閲覧。
  28. ^ a b 炊事場・営造場・消防詰所”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  29. ^ a b 服部忠 『秘録 大久野島の記』 毒ガス島歴史研究所、1956年、むすび頁http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0519.html 
  30. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 服部登 (2011年10月). “大久野島毒ガス傷害研究会の活動 (PDF)”. 広島大学大学院医歯薬学総合研究科分子内科学. 2016年7月24日閲覧。
  31. ^ 技能者養成所とは”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
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  33. ^ a b c 服部忠 『秘録 大久野島の記』 毒ガス島歴史研究所、1956年、まえがき頁http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0501.htm 
  34. ^ 毒物焼却場”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  35. ^ A三工室(ルイサイト/ 黄二号)内の陶磁器製タンク”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
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  37. ^ ウサギやジュウシマツが飼われた動物舎”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  38. ^ 私とウサギ”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
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  40. ^ a b c d 環境省 2003, p. 11.
  41. ^ 大三島の海岸での毒ガス貯蔵”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  42. ^ a b 環境省 2003, p. 15.
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  44. ^ a b c d e f g h 米の毒ガス処理 文書確認 敗戦直後の竹原・大久野島 広島大 石田助教 「化学物質 近海投棄か」”. 中国新聞 (2014年6月5日). 2016年7月24日閲覧。
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  48. ^ 塩・松根油・海蛍・軍事教練”. 毒ガス島歴史研究所. 2016年7月24日閲覧。
  49. ^ 環境省 2003, pp. 206-207.
  50. ^ a b c 服部忠 『秘録 大久野島の記』 毒ガス島歴史研究所、1956年、14.毒物処理頁http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0518.html 
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  63. ^ 毒ガスの島70年 忘れ得ぬ記憶 <3> 医療現場の模索”. 中国新聞 (2015年10月16日). 2016年7月24日閲覧。
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  65. ^ 行武正刀. “大久野島での毒ガス被害者の治療にあたって”. 「隠されたヒロシマ」の部屋入口. 2017年8月8日閲覧。
  66. ^ 毒ガス 最後の集団健診 大久野島被害 個別対応に移行 竹原”. 中国新聞 (2016年11月17日). 2017年8月8日閲覧。

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]