大久保忠名

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大久保 忠名(おおくぼ ただな、慶長13年(1608年) - 万治2年3月9日1659年4月30日))は、江戸時代初期の旗本通称を平助、彦左衛門という。巷談などで大久保彦左衛門として知られる大久保忠教の嫡男で、母は馬場右衛門信成の養女。妻は駒井親直の娘、後妻は筒井忠重の娘、また新見正勝の娘で、子供に大久保忠隆大久保忠直がいる。

生涯[編集]

元和8年(1622年)、15歳の時、将軍秀忠にまみえ、御書院番番士となる。下野国河内郡内に400石の采地を賜る。のち200石の加増で600石となる。寛永16年(1639年)遺跡を継ぐ。このとき先の600石の半分ずつを弟包教政雄に分知する。特に取り立てられることもなく、無役の小普請となる。

万治2年(1659年)3月9日に死去した。享年52。墓所は、白金立行寺

脚注[編集]