大オルダ

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大オルダ
モンゴル語: Алтан Орд, Зүчийн улс
タタール語: Алтын Урда
トルコ語: Altın Orda
モンゴル帝国
ジョチウルス
1466年代 - 1502年
大オルダの国旗
(国旗)
大オルダの位置
大オルダの領域(1389年ごろ)
公用語 モンゴル語 タタール語チャガタイ語
首都 サライ
ハン
1465年? - 1481年 アフマド・ハン
xxxx年 - xxxx年トクタミシュ
1435年 - 1459年クチュク・ムハンマド
1499年? - 1502年シャイフ・アフマド
変遷
ジョチウルス崩壊、大オルダ成立 1466年
クリミア・ハン国に征服される1502年
通貨ディルハム
先代次代
モンゴル帝国 モンゴル帝国
ジョチウルス ジョチウルス
クリミア・ハン国 クリミア・ハン国
ノガイ・オルダ ノガイ・オルダ
カシモフ・ハン国 カシモフ・ハン国
カザフ・ハン国 カザフ・ハン国
アストラハン・ハン国 アストラハン・ハン国
シャイバーニー朝 シャイバーニー朝
シビル・ハン国 シビル・ハン国
ヒヴァ・ハン国 ヒヴァ・ハン国

大オルダ(だいオルダ、1466〜1502年、モンゴル語: Алтан Орд, Зүчийн улсタタール語: Алтын Урдаトルコ語: Altın Orda)とは、13世紀ごろに南ロシアのサライを首都として存在したジョチ家当主の政権で、ジョチウルス裔の国家の呼称。またの名は、黄金のオルドといい、ジョチウルスの系譜を継いだ政権であった。領域は、南ロシアキプチャック草原ステップに至った。

位置[編集]

先代のジョチウルスの支配地域。大オルダの支配領域は現在のカスピ海、南ロシア付近にあたり、ほとんどジョチウルスの領域を踏襲していると言える。

大オルダは、カスピ海ジョージアなどのコーカサス山脈の北、シベリアやカザフスタンの西、ルーシの南、白ロシアやクリミアの東に当たる、草原地帯に位置し、存在した。つまりは、現在のロシア南部連邦管区に相当する地域である。しかし、その領域は、ジョチウルスの支配地域と比べて大幅に減少していた。

また、首都のサライの街はカスピ海の北の平原地帯、アフトゥバ川の東岸にあった(サライは二つあり、一つは今のアストラハンの近く、二つ目は、今のレニンスク付近にあった。前者はバトゥサライ、後者はニューサライ、又はベルケが建設したためにベルケサライといって別ものであった)。この川はヴォルガ川最下流の分流で、ヴォルガから東に分かれ、537km並行しながらヴォルガ・デルタを形成しつつカスピ海に流れる川である。サライの遺跡は現在のロシア連邦アストラハン州の州都アストラハンから120km北に位置し、アストラハン州ハラバリ地区(ハラバリンスキー・ラヨン、Kharabalinsky)のセリトリャンノイェ村(Selitryannoye)付近にある。

歴史[編集]

おもむろな成立と前史[編集]

トカ・テムル朝のジョチウルス。まだこの頃は、クリミア・ハン国や、アストラハン・ハン国は独立しておらず、ジョチウルスの解体は初期の段階である。しかし、キエフの地はリトアニアに奪取されているし、東部の多くの地域は支配権を失っている。この地図では、ノヴゴロド国までもがジョチウルスの支配地域になっている。この約百年後には、大オルダは成立する。
大オルダの帝国国旗
タタールの軛。この絵では、ルーシの領主が、ハーンの前に引っ立てられている。

チンギス・カンの家系(ジョチ家)は代々、南ロシアを「ジョチウルス」として支配してきた。南ロシアの諸国の領主たちに貢納を請求し、間接支配を続けて、これを南ロシアでは、タタールの軛と呼んだ。また、ジョチウルスの支配層であったタタール人(ここでは、純モンゴル系の人々のことをさす)たちは、やがて言語的にはテュルク語系に変化し、宗教的にはイスラム教化していった。15世紀ごろには、弱体化により、ジョチウルスは解体と再編成が進行した。後継政権にはカザフ・ハン国クリミア・ハン国シビル・ハン国、そして、大オルダなどの諸政権であった。この各地に林立した諸政権はロシア帝国に編入されるまで中央アジア等の地域でジョチウルスの命脈を保った。

しかし、盛えたジョチウルスも衰退し、1410年グルンヴァルトの戦いでは、ジャラール・アッディーン英語版率いる約1000人のリプカ・タタール人軽騎兵がドイツ騎士団を陽動作戦で壊滅させた。1431年シャイド・アフメド1世英語版リトアニア大公国東部のシュヴィトリガイラから要請を受け、リトアニア内戦の反ポーランド軍をドイツ騎士団と共に支援した。一連の介入戦争は、ヨーロッパの勢力図を大きく変えることになった(1569年ポーランド・リトアニア共和国が成立)。

これ以降、ジョチ裔の様々な家系に属する王族によりサライのハン位が争奪され、争奪戦に敗れた王族が他地方でハンを称して自立し、ヴォルガ中流のカザン・ハン国カスピ海北岸のアストラハン・ハン国、クリミア半島のクリミア・ハン国が次々に勃興し、マンギト部族の形成した部族連合ノガイ・オルダや、大オルダと呼ばれるようになったサライを中心とするハン国正統の政権(黄金のオルド)などの諸勢力が興亡したのであった。しかし、そのなかでも大オルダはジョチ裔の正当な家系としての地位を保ち続けたのであった。

衰退[編集]

近代、タタール人の女性。タタール人と呼ばれている民族たちは大オルダの純モンゴル族系住民が祖先であり、現在でも大オルダの支配地域に広く分布し、生活している。その内の一つの民族がクリミア・タタール人であり、彼らは大オルダ消滅後に形成されていったクリミア・ハン国の住民と現地のテュルク系の民族との混血とも言われている。彼らは、迫害を受けながらもクリミアでくらしつづけている。

その後、大オルダの帝国は、ジョチウルスの命脈を1502年までたもった。しかし、アフマド・ハーンの死後に起こった兄弟たちの帝位継承争い等により、弱体化が極限まで進行してしまっていた。

また、モスクワ大公国が急速に力をつけしだいに貢納を滞るようになり、1480年サライの大オルダの君主アフマド・ハンは大軍をもって進軍したが、モスクワ大公イヴァン3世に敗れてルーシの支配力を失った(ウグラ河畔の対峙英語版)。大オルダは1502年にクリミア・ハン国によってサライを攻略されてしまい、崩壊した。

16世紀の間にカザン、アストラハン、シビルの各ハン国も次々にロシア・ツァーリ国に併合された。大オルダのハン位の継承者を名乗った最後のハンとなったクリミア・ハン国は、フメリニツキーの乱ザポロージャ・コサック英語版の独立に影響力を見せたが、1783年に至ってロシア・ツァーリ国に併合され、より影響力の大きなロシア帝国に変貌してポーランド分割に影響を与えた。多くの場合、大オルダの滅びた1502年か、クリミア・ハン国が滅びた1783年をもってジョチ・ウルスの滅亡としている。クリミア・ハン国に首都サライを陥落させられ滅亡したのち、滅亡させたクリミア・ハン国は長くサライを領土に組みこむことはなく、サライはタタール人の手に戻ることはなかった。

また、大オルダ消滅後に大ハーン位を保持したクリミア・ハン国も後にオスマン帝国の属国になり、遂に1783年にはロシア帝国に編入された。

その後[編集]

タタール人の行方[編集]

チンギス・カンを祖先にもつ、モルダヴィア(ルーマニア)生まれの文人、学者で、モルダヴィア公のディミトリエ・カンテミールの姿が描かれたソ連の切手


ジョチウルスの後継政権がたてられた地域では、かつての支配層であるモンゴル系の人々と土着テュルク系の多様な民族と混交し、現在、それぞれクリミア・タタール人ヴォルガ・タタール人シベリア・タタール人と呼ばれているものである。それらの中には、ロシア帝国ルーマニアリトアニアポーランド等に移住し、キリスト教を受容するようになり、現地の民族と同化するものも少なくなかった。それらの中には、ユスポフ家(ロシア帝国の貴族)、カンテミール家(チンギス・カンのちを引く、ディミトリエ・カンテミール等の貴族、領主、遂にはモルダヴィア公国公爵となるものもあった名門貴族)等に代表されるように、現地の有力な貴族領主となるもの(ボヤール)も現れた。

タタール人政権の完全崩壊[編集]

一方、東方の旧青帳ハン国ではジョチの五男シバン(シャイバーン)の子孫がハンとして率いるウズベク族(シャイバーニー朝)と、オロスの子孫がハンとして率いるカザフカザフ・ハン国)の二大遊牧集団が形成され、南シベリアではシビル・ハン国が誕生し、15世紀の間に大オルダの政治的統一は完全に失われていった。その後の後継政権が次々とロシア帝国に合併・併合されて言った。大ハーンの君主をいただいて存続していた、クリミア・ハン国も弱体化し、遂に滅亡した。しかし、カザフ地域では、かつてのジョチ裔の王族がロシア帝国滅亡までの間、君主として君臨しつづけたのであった。

文化・国政[編集]

ロシアにおけるイスラム教の分布。大オルダ支配地域に多い。

基本的には、ジョチウルスの命脈を保った政権のため、ジョチウルスの文化や国政を受け継いだ。宗教的にはイスラム教化がほぼ完了し、遂には王族の文化が(かつてのモンゴル系の文化を受け継ぎながらも)イスラム教化するに至った。しかし、領内にはロシア正教会を信仰する人々や、モンゴル系のシャーマニズムを信じ続けた人々も存在した。つまり、領内には主に

  • イスラム教
  • キリスト教
  • シャーマニスム
  • その他の小規模宗教

       があった。


また、前述したように、言語的にもテュルク化を遂げ、行政命令文書は以前のモンゴル語から、地元の諸民族の影響を受けてテュルク系に変化した。

ルーシに対しては、諸公の任免の最高決定権を握り、決まった税金サライに納めることや戦時に従軍することを義務付けたほかは、間接統治に委ねられた。それでも諸公たちは頻繁に税金を携えてサライに赴いたり、敵対する諸公との争いで不利な裁定をされたりしないように宮廷や実力者への付け届けを余儀なくされ、納税や従軍の義務を怠れば懲罰として遊牧民からなる大軍の侵攻を受けるなど、大いに苦しめられた。

歴代皇帝(ハーン)[編集]

ジョチウルスの君主[編集]

大オルダの皇帝[編集]

帝系の家系[編集]

ジョチから大オルダまでの系図 ジョチ・ウルス系図.png

大オルダ系の後継諸政権[編集]

シバン家系諸政権
  • シャイバーニー朝遊牧ウズベクブハラ・ハン国)1500年 - 1599年-15世紀 - 16世紀にかけて中央アジアに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスの系譜を引く
    • ヒヴァ・ハン国 1512年 - 1920年-1512年から1920年にかけて、アムダリヤの下流及び中流地域に栄えたテュルク系イスラム王朝。シャイバーニー朝、シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバン家に属する王朝である。
  • シビル・ハン国(シベリア・ハン国)15世紀? - 1598年-西シベリアに存在した、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の系統に属すテュルク系国家。ジョチ・ウルスが分裂して、成立した4つの国のうちの一つ。


トカ・テムル家系諸政権

ウルン・テムル系

  • カザフ・ハン国 15世紀後半 - 1865年-現在のカザフスタンに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスのトカ・テムル家の子孫が建てた。
  • クリミア・ハン国 15世紀前半 - 1783年-クリミア・ハン国の支配下で、クリミア半島にはテュルク諸語の一種を話すムスリム(イスラム教徒)の住民が多く居住するようになった。彼らの子孫が、現在クリミアで少数民族となっているクリミア・タタール人である。
  • カザン・ハン国 1438年 - 1552年-15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川中流域を支配したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国家のひとつ

キン・テムル系で、モスクワ大公国の主権下において、モスクワとカザンの間に建てられた緩衝国で、当初は自治を行っていたが、後に都カシモフの市政に至るまで、全てがロシア人の影響下に置かれた。

  • アストラハン・ハン国 1466年 - 1556年(イヴァン4世の侵攻によりアストラハンを放棄)-15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川下流域、カスピ海北岸にあったトルコ(タタール)系アストラハン・タタール族ね国家。
    • ジャーン朝ブハラ・ハン国)1599年 - 1789年-ゼラフシャン川流域、ヌル・アタ山地、アム川流域に栄えた諸テュルク系イスラム王朝。現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンの一部に存在した。
非チンギス・カン裔のジョチ・ウルス系諸政権

参考資料[編集]

関連項目[編集]

クリミア・タタール人