塩狩峠

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国道40号標識
塩狩峠
標高 263 m
所在地 北海道上川郡比布町上川郡和寒町
位置 北緯43度58分1秒 東経142度26分54.8秒 / 北緯43.96694度 東経142.448556度 / 43.96694; 142.448556座標: 北緯43度58分1秒 東経142度26分54.8秒 / 北緯43.96694度 東経142.448556度 / 43.96694; 142.448556
通過する交通路 国道40号
宗谷本線
道央自動車道
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塩狩峠(しおかりとうげ)とは、北海道上川郡比布町(旧石狩国)と上川郡和寒町(旧天塩国)の境にある[1]

天塩川水系と石狩川水系の分水界である。

概要[編集]

1898年(明治31年)、国道40号の前身となる仮定県道天塩線が開通[2][3]。当初は悪路であったが、1973年(昭和48年)に改良改修[3]1991年(平成3年)には現ルートが完成し、勾配やカーブが緩やかな峠になった[3]

鉄道は、1899年(明治32年)に宗谷本線の前身となる北海道官設鉄道天塩線(蘭留 -和寒間)が県道と並行して開通した[3]

高速道路は、2000年(平成12年)に道央自動車道(旭川鷹栖 - 和寒間)が開通[4]。峠付近は大規模な切通しになっている。

鉄道事故と小説『塩狩峠』[編集]

1909年(明治42年)2月28日、塩狩峠に差し掛かった旅客列車の客車最後尾の連結器が外れて客車が暴走しかける事故がおこった。その車両に乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)職員の長野政雄(ながの まさお)が、暴走する客車の前に身を挺して暴走を食い止めた。下敷きとなった長野は殉職したが、これにより乗客の命が救われた。

三浦綾子の小説『塩狩峠』はこの事故の顛末を主題としたものである[5]

類似した事故が、1947年(昭和22年)9月1日に長崎県旧時津村(現・西彼杵郡時津町)の打坂峠で起こっている。

周辺[編集]

峠頂上付近の塩狩駅近くには長野政雄の顕彰碑が建立され[6]、三浦の旧宅を復元した塩狩峠記念館がある[7]。また、約1,600本のエゾヤマ桜(オオヤマザクラ)があり、桜の名所となっている[8]2013年(平成25年)に塩狩ヒュッテユースホステルが開館した。

脚注[編集]

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  1. ^ 2つの「上川郡」は令制国が異なるため、別の郡として扱われている。
  2. ^ 北海道道路史 路線史編 北海道道路史調査会 1990年 400頁
  3. ^ a b c d 月の美しい塩狩峠 散策のご案内 (PDF)”. 塩狩ヒュッテユースホステル. 2014年12月27日閲覧。
  4. ^ 「旭川鷹栖IC~和寒IC」が供用開始 (PDF)”. 北の交差点 Vol.8 AUTUMN-WINTER 2000. 北海道道路管理技術センター. 2014年9月15日閲覧。
  5. ^ 杉山淳一 (2014年1月26日). “読む鉄道、観る鉄道”. マイナビ. 2014年10月29日閲覧。
  6. ^ 「明治四十二年二月二十八日夜、塩狩峠に於て、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。乗客全員、転覆を恐れ色を失い騒然となる。時に乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。「苦楽生死均しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ」右はその一節なり 三十才なりき」と書かれている
  7. ^ 塩狩峠記念館(三浦綾子旧宅)”. 和寒町. 2014年10月29日閲覧。
  8. ^ 塩狩峠一目千本桜”. 和寒町. 2014年12月27日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]