埼玉愛犬家連続殺人事件

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埼玉愛犬家連続殺人事件(さいたま あいけんかれんぞくさつじんじけん)とは、1993年(平成5年)に日本埼玉県熊谷市周辺で発生した殺人事件。マスコミ報道が先行した事件であり、被疑者の映像が連日映し出された上、完全犯罪を目論んだ残忍な結末が明らかになるなど異常性の高い事件であった。

アフリカケンネル(繁殖場)跡地

概要[編集]

ペットショップの経営実態
埼玉県熊谷市にある元夫婦SとKが経営するペットショップ「アフリカケンネル」は詐欺的な商売を繰り返しており、顧客らとの間でトラブルが絶えなかった。代表的な例として「子犬が産まれたら高値で引き取る」とうたい、のつがいを法外な価格で販売し、子犬が店に持ち込まれると、難癖を付けて値切るというもの。
経営する元夫婦SとKは、アラスカン・マラミュートブリーダーとして名が知られていた。しかし、バブル崩壊後の売り上げの減少に加え、豪華な新犬舎兼自宅の建設などにより、借金がかさみ、店の経営に行き詰まった。
殺害方法
トラブルの発生した顧客らを、知り合いの獣医師から譲り受けた犬の殺処分用の硝酸ストリキニーネを用いて毒殺し、計4人が犠牲となった。
遺体は店の役員山崎永幸方の風呂場でバラバラにされた上、骨はドラム缶で焼却された。それらは群馬県内の山林や川に遺棄され、「遺体なき殺人」と呼ばれた。
逮捕
1994年(平成6年)1月、大阪愛犬家連続殺人事件の被疑者を逮捕。本事件とは無関係であるが、埼玉でも同様に愛犬家が失踪しているとの噂が流れ始めた。2月からはマスコミが取り上げるようになり、事件が表面化。Sが身の潔白を主張する一方、行方不明となった犠牲者の家族は事件性を訴え続けた。同年12月、山崎の証言を基に被害者の遺骨や遺留品を発見。1995年(平成7年)1月5日、SとKは逮捕された。
物証がほとんど残されていないため、唯一一貫した供述をし、証拠の発見に協力した山崎の証言を元に、事件が立証されていった。しかし、山崎は検察官との間に密約があったことを、自身の公判で証言。約束を反故にされたとして、SとKの公判では証言拒否の構えを見せた。
公判
SとKは公判で、互いに相手が主犯だと主張したが、浦和地裁(現:さいたま地裁)は検察側の主張を全面的に認め、元夫婦が対等の立場で共謀し、犯行に及んだと認定(1件はSの単独犯行と認定)。2001年(平成13年)3月21日、元夫婦に求刑どおり死刑判決を言い渡した。
2005年(平成17年)7月11日、東京高裁は一審死刑判決を支持し、元夫婦の控訴棄却。元夫婦は上告したが、2009年(平成21年)6月5日、最高裁は上告を棄却。1審・2審の死刑判決が確定した。

経過[編集]

  • 1993年(平成5年)4月20日 - 行田市の会社役員Aが勤務先から帰宅途中に失踪。(A事件)
  • 1993年7月21日 - 大里郡江南町(現:熊谷市)の暴力団幹部Bと住み込みの運転手Cが自宅から失踪。(B・C事件)
  • 1993年8月26日 - 行田市の主婦Dが買い物に出掛けたまま失踪。(D事件)
  • 1994年(平成6年)2月中旬 - 大阪愛犬家連続殺人事件が大々的に報道される中、埼玉の連続失踪が発覚し、マスコミに取り上げられ始める。
  • 1994年12月13日 - 山崎の供述に基づき、群馬県利根郡片品村の山林からAの遺骨や遺留品を発見。
  • 1995年(平成7年)1月5日 - SとKをAに対する死体損壊・遺棄容疑で逮捕。8日には山崎も同容疑で逮捕。
  • 1995年1月~2月 - 片品村周辺の河川などで大規模な捜索を決行。被害者4人の遺骨や遺留品を順次発見。4月4日までに、Sら3人を全事件で起訴(S=3件4人の殺人罪、死体損壊・遺棄罪。K=Dを除く2件3人の殺人罪、死体損壊・遺棄罪。山崎=3件4人の死体損壊・遺棄罪)。
  • 1995年4月~5月 - 1984年(昭和59年)の失踪事件で、江南町の荒川等を捜索するも、立件できず。
  • 1995年7月 - 浦和地裁で山崎(7日)、SとK(24日)の初公判がそれぞれ開かれる。
  • 1995年12月15日 - 山崎に懲役3年の実刑判決(求刑・懲役3年6月)。山崎は控訴。
  • 1996年(平成8年)6月7日 - 東京高裁が山崎の控訴を棄却。上告せず確定。
  • 2000年(平成12年)7月6日 - S・Kに死刑を求刑。
  • 2001年(平成13年)3月21日 - S・Kに死刑判決。両名とも控訴。
  • 2005年(平成17年)7月11日 - 東京高裁がS・Kの控訴を棄却。両名とも上告。
  • 2009年(平成21年)6月5日 - 最高裁がS・Kの上告を棄却。両名とも死刑が確定。
  • 2016年現在、2名とも東京拘置所収監されている。Kは戦後日本では12人目の女性死刑囚である。Kは再審請求中。

被告人夫婦ら[編集]

事件の首謀者とされる元夫婦は、共同でペットショップ「アフリカケンネル」を運営していた。

1983年(昭和58年)、Sが単独で経営していた「アフリカケンネル」を、Kが訪れたことから二人は知り合い、意気投合して結婚。Sにとっては7度目(うち3人と復縁しているので、配偶者としては実質4人目)、Kにとっては2度目の結婚であった。Kの実家が資産家[1]であることから、Sが財産目当てに結婚したとも言われている。その一方で、Kのブリーダーとしての成長ぶりや、金銭管理能力の高さから、SはKに対し一目置いていた。互いに愛人がいたり、SがKやKの連れ子に対し、激しい暴力を振るっていたことはあったものの、それぞれの才覚を発揮しながらペットショップを経営しており、互いに支え合っていたパートナーであったという。しかし、公判では罪をなすり合い、法廷では互いに目を合わせようとはしなかった。

「アフリカケンネル」の株式会社としての登記上の代表取締役はKであるが、実質的な経営者はSであった。主にSが営業を、Kが経理を担当し、二人三脚で店を繁盛させており、一審判決ではその関係を「車の両輪」と評している。SとKは一連の事件前の1993年1月に協議離婚しているが、税務対策のための偽装離婚で、実際には以前と変わらぬ生活を送っていた[2]

Sが主犯でKが従犯と認識されることが多いが、A事件、B・C事件については、元夫婦が対等の立場で及んだ犯行と認定されている。

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1942年(昭和17年)1月、埼玉県秩父市生まれ。「アフリカケンネル」の創業者で、実質的な経営者。ペットや猛獣の扱いにかけては天才的で、ブリーダーとしての腕は非常に優秀だった。シベリアン・ハスキーブームの仕掛け役、アラスカン・マラミュートの第一人者とまで言われた、業界の有名人。

かつては故郷の秩父市で、ペットショップや動物リース業を営んでいた。しかし、売った犬を盗んで別の客に売ったり、殺して新たな犬を売りつける等、当時から悪質な商売を繰り返していた。また、トラライオンなどの猛獣も扱っており、近隣住民から恐れられ、嫌われていた。その後、付き合いのあった暴力団とのトラブルなどが原因で、一時期静岡県伊東市に姿を眩ますが、1982年(昭和57年)、埼玉県熊谷市で「アフリカケンネル」を開業した。

人間心理を読むことに長けており、ヤクザのような風体とは裏腹の、独特なユーモアと巧みな話術に引き込まれる人も多かった。その一方で、前述のようなあくどい商法や、顧客に対する脅し、暴力団関係者との交友などから、深い関わりを避ける同業者も多かった。また、虚言癖があり、自分が異端の経歴を持つ資産家であるよう装っていた。周囲の知人や店の客に対してばかりでなく、著名なブリーダーとして雑誌やテレビの取材を受けた際にも、同様の虚言を弄し、店の宣伝に大いに利用していた[3]ヤクザの金に手をつけた事情で左手の小指を詰めているため、左手の小指がない[4]

Sは殺人哲学として以下の5つをあげていた。

  1. 世の中のためにならない奴を殺す
  2. すぐに足がつくため、保険金目的では殺さない
  3. 欲張りな奴を殺す
  4. 血は流さないことが重要
  5. 死体(ボディ)を透明にすることが一番大事

特に最後の「ボディを透明にする」という手法が注目された(後述の#遺体なき殺人を参照)。

他にも、共犯の山崎によるとSは「殺しのオリンピックがあれば、俺は金メダル間違いなしだ。殺しのオリンピックは本物のオリンピックよりずっと面白い」「そのうち、俺は殺しの世界で一番の男になりたいと思うようになった。人間なんでも一番にならなきゃ駄目だ。殺しにかけては俺がいまナンバーワン」「死体がなければただの行方不明だ。証拠があるなら出してみろ。俺に勝てる奴はどこにもいない」「最初は俺も怖かったが、要は慣れ。何でもそうだが、一番大事なのは経験を積むこと」「臭いの元は肉だ。そこで透明にする前に骨と肉をバラバラに切り離すことを思いついた」「骨を燃やすのにもコツがいる」などのコメントを残している。

普段は虚勢を張っている一方で、根は小心者で神経質という一面もあった。完全犯罪を目論んで完璧な証拠隠滅を図った犯行にも、その性格が現れている。逮捕されないことに絶対的自信を持っていた反面、常に怯えていたと、山崎は語っている。

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1957年(昭和32年)2月、熊谷市生まれ。「アフリカケンネル」の登記上の社長。寡黙だが、気が強い女性。いわゆるお嬢様育ちで、大の犬好き。Sと知り合うまでは真っ当な暮らしを送っていた女性であったとされ、保育士をしたり、土地家屋調査士であった父親を手伝うため、測量の勉強をしていたこともあった。若くして結婚し、実子を二人儲けたが、前夫とは離婚している。Sとの結婚後は、刺青を彫らされたという先妻らに対抗し、背中にの刺青を彫るなど、Sとの一体感を深めていった。ブリーダーとしても成長し、また、ドッグショーではSに代わってハンドラーを務めるなど、表舞台に立つことが多かった。

浪費の激しいSとは対照的に、金銭管理能力に優れていたことから、「アフリカケンネル」の経理を担当していた。Sの税金滞納から逃れるために偽装離婚をし、Sの代わりにKが形式的に社長に就任することになった。店の資金面の一切を掌握していたことから、金銭をめぐる一連の事件に深く関与していたとされる。中でもB・C事件では、殺人現場に同席したほか、遺体の解体にも携わり、手馴れた作業だったという。

逮捕後、比較的早い段階から自供を始めたSに対し、Kは黙秘をほぼ貫き通した。しかし、残された犬や家族の話題になると途端に涙ぐむという二面性を見せ、捜査員を困惑させたという。

山崎永幸[編集]

1956年(昭和31年)1月、富山県生まれ。ブルドッグのブリーダーであり、「アフリカケンネル」の役員。群馬県片品村で貨車を改造した住居(通称「ポッポハウス」)に住んでいた。ドッグショーの会場でSと知り合い、Sの経営哲学を学ぼうとして「アフリカケンネル」を訪れるうち、誘われて同社の役員となった。だが、実質はSの運転手や手伝いをしていたにすぎなかった。

A事件の際、Sから脅迫を受け、遺体を運搬したほか、自宅を遺体の解体場所として提供し、死体損壊・遺棄の犯行に加担した。自宅が山奥にあり周囲に人家がなかったこと、妻(先妻)と離婚して一人で暮らしていたことなどから、犯行に適した場所だった。Sに怯えながらも、B・C事件、D事件でも同様に手伝った。Sの脅迫に恐怖し、自身や家族に危害が加わるのを恐れたという。また、物証がほとんど残っておらず、仮に自首しても、Sの犯行が立証できるかどうか不安を抱いていたという。

捜査段階では事件の解明に全面的に協力していた。しかし、検察官との密約の存在を公判で証言。検察官が約束を反故にしたとして、Sらの裁判では証言拒否の構えを見せた。

懲役3年の実刑判決が確定し、服役。1998年(平成10年)8月28日に満期出所している。その後、実名で事件の顛末を記した本を出版した。「山崎」は逮捕時結婚していた妻の姓を称していたもので、旧姓は「島」。S・Kからは「島」と呼ばれていた。本出版後離婚しペンネームを「志麻永幸」名義に変更した。

事件[編集]

A事件[編集]

行田市に住む産業廃棄物処理会社役員Aは、犬を買うために「アフリカケンネル」を訪れたことからSと知り合い、親交を深めるようになっていった。当時、兄が経営する会社が傾いていたことから、新商売を模索していたAは、Sが勧める犬の繁殖ビジネスを手掛けることになり、「アフリカケンネル」からローデシアン・リッジバックen:Rhodesian Ridgeback)のつがいを計1100万円で購入、うちメス犬を入手した。ところが、知人から犬の相場が数十万円であることや、高齢で繁殖に適さないことを知らされ、Sに騙されたことに気づいた。また、メス犬が逃げ出し[5]、繁殖が不可能になったことから、残るオス犬のキャンセルと代金の返還を求め、トラブルとなった。当時、「アフリカケンネル」は金銭的に窮しており、SとKはAに金は返せないと判断し、謀議の上、A殺害を決意した。

1993年4月20日夕方、「金を返す」と言って熊谷市内のガレージに呼び出したAと、大型ワゴン車内で談笑中に、Sが硝酸ストリキニーネ入りのカプセル[6]を栄養剤と偽って飲ませ、殺害した。その後、ガレージに戻った山崎[7]に対し、Sは遺体を見せつけた上、「お前もこうなりたいか?」「子どもは元気か?元気が何より」などと、山崎やその家族に危害を加えることを示唆して脅し、片品村の山崎方に遺体を運び込ませた。Sはそのまま遺体の解体作業に取り掛かる一方、山崎に対しては、ガレージに残されたAの車を、都内に運ぶよう指示した。

山崎は熊谷に戻った後、Kと合流して2台の車で東京へ向かい、Aの車を東京駅八重洲地下駐車場に放置、Aが自ら失踪したかのように偽装した[8]。この偽装工作の最中、Kは山崎に対し「うまくいったの?」「あんたさえ黙っていれば大丈夫」などと言い、事情を全て知っているような素振りであった。

熊谷でKと別れた後、再び山崎が片品に戻ると、既にAの遺体は解体されており、原型をとどめていなかった。21日早朝、Sの指示で骨や所持品をドラム缶で焼却。肉片などを川場村薄根川に、焼いた骨灰や所持品を片品村の国有林に遺棄した。

一般に、一連の事件の動機は「犬の売買をめぐるトラブル」と言われるが、それが直接の動機になったのはこのA事件だけである。

B・C事件[編集]

江南町に住む稲川会系暴力団の組長代行Bは、Sと親交を有し、「アフリカケンネル」で顧客とトラブルが発生した際に仲裁役を務めるなど、Sの用心棒的な存在であった。Aの失踪後、Sに疑惑を向けたAの家族との会議に同席したことから、SがAを殺害したのではないかと察知し、Sに多額の金銭などを要求するようになった。やがて、新犬舎の土地建物の登記済証を要求されたSとKは、このままでは全財産を取られてしまうと危惧し、Bを殺害することを決意した。その際、Bと常に行動を共にしている運転手のCも、口封じのために殺害しなければならないとの結論に達した[9]

1993年7月21日夜、S・Kは山崎の運転する車でB方を訪れた。SとKがB方に上がり、山崎はB方前に停めた車の中で待機していた。B方内では、SとKがBの要求に応じる振りをし、登記済証をBに渡して油断させた上、硝酸ストリキニーネ入りのカプセルを栄養剤と偽ってBとCに飲ませた。Bは間もなく倒れたが、Cはしばらく薬効が現れなかったので、Sらは時間稼ぎのために「救急車を呼ぶ」と言って、Cを誘導のために表通りに走らせた。その後、SとKは山崎の車に乗り込み、さらに表通りにいたCを乗せ、「Bが女を呼んでいる」と言って山崎に車を出させた。江南町内の荒川堤防沿いの人けのない道路を走行中、突然助手席のCが苦しみだし、フロントガラスにひびが入るほど激しく苦悶した後、絶命した[10]

B方に戻ってBの遺体を車に積んだ後、3人は2台の車に分乗し、片品村の山崎方へ向かった[11]。山崎方に運び込まれた遺体は、風呂場でB、Cの順に解体された。SとKが共同で解体し、山崎は包丁を研ぐなどして協力した。Sは山崎に解体作業を見せつけて脅し、また、Kは演歌を鼻歌交じりに歌いながら解体していたという。22日早朝、解体が終わると、Kは熊谷へ戻り、Sと山崎が骨や所持品の焼却に取り掛かった。肉片や骨灰などは、川場村の薄根川、片品村の塗川片品川に遺棄した。

D事件[編集]

行田市に住む主婦Dは、次男が「アフリカケンネル」で働くようになったことからSと知り合い、親密な関係になった。しかし、新犬舎の建設や、Bの強請などにより、「アフリカケンネル」が経営難に陥っていたことから、Sは自分に信頼を寄せるDに「アフリカケンネル」の株主になるよう持ちかけ、出資金を詐取することを画策した。だが、いずれ株主話の嘘は露見し、そうなれば出資金ばかりでなく、過去に販売した犬の代金(アラスカン・マラミュート6匹、計900万円)の返還をも求められかねないことから[12]、金を詐取した後でDを殺害することを決意した。また、Dとの交際を煩わしく思うようになっていたことも、動機の一つとされる。

1993年8月26日午後、Sは行田市内でDを車に乗せ、出資金の名目で、当時のD家のほぼ全財産である270万円を詐取した後、硝酸ストリキニーネ入りカプセルを服用させ殺害した[13]。Dは最後までSを信じていたという。Sから(A事件と同じ熊谷市の)ガレージに呼び出された山崎は、後から車で現れたSにまたしても遺体を見せつけられ、迫られて遺体を片品村の自宅に運搬した。SはAらと同様にDを解体したが、山崎の著書によれば、その際Sは屍姦を行ったという。解体後は骨や所持品を焼却。27日未明、全て同村の塗川に遺棄した。

この事件では、全面自供した山崎にはDと面識がなく、遺体となったDと初めて対面した[14]。そのため、山崎が被害者と面識があり、殺害の直前・直後に現場に居合わせたA事件、B・C事件と比較すると、立証が難しかった。また、Kが関与していた疑いは強いものの、山崎の目撃証言など[15]からは立証できず、Sの単独犯行とされた。

遺体なき殺人[編集]

一連の事件で特筆されるのは、Sが「ボディを透明にする」と呼んだ残虐な遺体の処理方法である。被害者4人の遺体は山崎方の風呂場で解体された。骨・皮・肉・内臓に分けられた上、肉などは数センチ四方に切断。骨はドラム缶で衣服や所持品と共に、灰になるまで焼却され、それらは全て山林や川に遺棄された[16]。Sは、遺体を埋めても骨は残ることから、焼却してしまうことを考案。しかし、遺体をそのまま焼くと異臭が発生するため、解体して骨のみを焼却したという。燃え残りが出ないよう、1本ずつじっくり焼くという念の入りようであった。

このことについて山崎は、Sが『面白い・楽しい』と供述したと話しており、快楽殺人ともとれる。

捜査[編集]

事件発生から被疑者逮捕まで[編集]

A失踪翌日の1993年4月21日、家族から埼玉県警行田警察署に捜索願が出された。当初は単なる家出人と見られていたものの、30日に八重洲地下駐車場で乗り捨てられたAの車が発見されたことから、県警が事件性を察知して捜査に乗り出した。家族の話から、AがSとトラブルを抱えていたことがわかり、またSの周辺ではその9年前にも連続失踪事件が起きていたことから、県警はSや山崎に対し、監視や尾行を行うようになった。ところが、Sらは捜査の目をかいくぐって、B・C事件、D事件を起こすに至った。いずれの事件も、不明者がSと会った直後に失踪していることから、同年秋頃[17]からは県警が本格的な捜査に着手した。Sらの監視を強化し、Sの知人に対しては、1人でSと会わないよう忠告した。しかし、物証が発見できないために、Sらを逮捕することはできなかった。新犬舎建設をめぐって、建設業者へ支払う代金を踏み倒したとの詐欺容疑で、捜査二課がSの別件逮捕を試みたこともあったが、この時点では殺人事件の立証は困難と判断され、見送られた。

1994年1月26日、大阪愛犬家連続殺人事件の被疑者が逮捕された。本事件とは無関係であるが、同じ愛犬家の失踪事件として埼玉の事件の噂が広まり始め、2月中旬にはマスコミが「アフリカケンネル」に押しかけた。一気に事件が表面化し、ワイドショーなどで連日報道。Sが身の潔白を主張する一方、失踪者の家族らは事件性を訴え続けた。しかし、証拠が無い状態では疑惑の域を出なかった。

9月22日、埼玉県警はSの知人で、群馬県山田郡大間々町(現・みどり市)に住む元自衛官を詐欺容疑(前述の詐欺容疑とは異なる)で逮捕した。元自衛官は、Sに代わって「アフリカケンネル」に押しかけたマスコミの対応を引き受け、疑惑を否定するなどしており、事件について何か知っているものと見られていた。取り調べの中で元自衛官は、1984年の事件についての関与を一部認めたほか(後述)、1993年の事件については山崎の関与をほのめかした。

10月17日、県警は山崎を事件解決の突破口にしようと事情聴取を行ったものの、山崎は事件への関与を否定。その後山崎は妻(後妻)と共に行方をくらました。県警は山崎の妻に対し、詐欺容疑(前述の2つの詐欺容疑とは異なる)で逮捕状を執って山崎夫婦の行方を追っていたところ、11月24日、都内の病院に現れた山崎夫婦のうち、妻を逮捕。山崎には逃走されたが、前月に事情聴取を行った捜査員に対し、山崎自ら電話を掛けて話すうちに、出頭を決意。12月3日から山崎に対する事情聴取が再開され、やがて山崎は犯行に関与したことを自供した。同13日、山崎は片品村に捜査員を案内し、Aの遺骨や遺留品の発見に至った。

年は明けて1995年1月5日、県警はSとKをAに対する死体損壊・遺棄容疑で逮捕。8日には山崎も同容疑で逮捕された。

物証の捜索[編集]

1995年1月から2月にかけ、埼玉県警と群馬県警の合同捜査本部は山崎の自供を元に、熊谷市と片品村を中心に広く捜索を行った。捜索箇所は群馬県片品村・川場村・白沢村(現:沼田市)・利根村(同)、埼玉県熊谷市・江南町・川越市新座市などに及ぶ。

片品の山林からは骨片・歯片・お守り腕時計などが、塗川からは骨片・携帯電話の基板・家や車の鍵・義歯など(いずれも焼け残ったもの)が発見され、小さいながらも重要な物証となった。骨片は高温で焼かれていたためDNA鑑定が不能で、身元確認の手掛かりになったのはその他の遺留品であった。多数の捜査員がに浸かり、川底の砂利を採取してふるいにかけ、数ミリ~数センチの遺留品を捜し出す懸命の捜査が功を奏した。

河川の捜索にあたっては、事情に詳しい群馬県警捜査員から「金属などは意外と水に流れず、現場にとどまっている」との助言があったという[18]。事実、事件発生から1年半~2年近く経過していたにも関わらず、物証が遺棄現場の川底から発見された。

逮捕・起訴の経過[編集]

逮捕・起訴の経過は以下のとおり(全て1995年)。

  • 1月5日 - SとKをA事件の死体損壊・遺棄容疑で逮捕。
  • 1月8日 - 山崎をA事件の死体損壊・遺棄容疑で逮捕。
  • 1月26日 - 3人を起訴。
  • 1月27日 - SとKをA事件の殺人容疑で再逮捕。
  • 2月17日 - SとKを追起訴。
  • 2月18日 - SとKをB・C事件の殺人、死体損壊・遺棄容疑で、山崎を同事件の死体損壊・遺棄容疑で再逮捕。
  • 3月11日 - 3人を追起訴。
  • 3月15日 - SをD事件の殺人、死体損壊・遺棄容疑で、Kと山崎を同事件の死体損壊・遺棄容疑で再逮捕。
  • 4月4日 - Sと山崎を追起訴。Kは処分保留で不起訴。

公判[編集]

物的証拠が極めて乏しい事件である上、S・K元夫婦が互いに罪をなすり合い、S・K・検察が三者三様の主張をした結果、公判は長期化した。また、捜査段階で全面自供し、事件解明に協力した山崎が、検察との密約を供述した上、S・Kの公判で証言拒否の態度を示すなど、波瀾の展開となった。

第一審[編集]

1995年7月7日、まずは山崎の初公判が浦和地裁で開かれ、起訴事実を大筋で認めた。続いて同月24日、SとKの初公判が同じく浦和地裁(現:さいたま地裁)で開かれ、Sは罪状認否を留保。Sの弁護人は証拠書類や供述調書を開示しない検察を批判した。KはBとCの死体遺棄(運搬)に関しては脅されて手伝ったと認めたものの、殺人や死体損壊への関与を否認した。A事件については、Aの車を山崎と共に都内へ運んだことは認めたが、Aの車だとは知らず、事情を何も知らなかったとして、起訴事実をほぼ全面否認した。

10月6日、山崎の第3回公判で、山崎は検察との密約があったために自供したと証言。約束を反故にされたとして、今後Sらの公判では証言拒否する構えを見せた。山崎によれば取り調べの際、浦和地検(現:さいたま地検)熊谷支部[19]の担当検察官が「証拠を出せば何でも言うことを聞く」「すぐに釈放する」などと話したという。そのほか、山崎の求めに応じ、詐欺容疑で勾留中だった山崎の妻を保釈したり、検察の庁舎内で妻との面会や情交の場を設けられたことなどを暴露した。これに対し、浦和地検は会見で、妻の保釈は正当な手続きを経て行われたものとし、密約の存在も否定した。以降、SとKの弁護人は、検察の立証の柱となっている山崎供述は、検察官の便宜供与によって誘導されたものであり、また、「自供すれば殺人を不問に付す」という検察と山崎との司法取引に基づくものとして、その信用性を争った。なお、翌年7月19日のS・Kの公判に、山崎の担当検察官が証人出廷した際には、妻との面会等の事実は認めたものの、便宜供与の意図はなく、密約もなかったと否定した。

11月2日、裁判官・検察官・弁護人ら参加のもと、遺体解体現場となった片品村の山崎方の検証が行われた。

11月17日、山崎に対する論告求刑公判で、検察側は懲役3年6月を求刑。弁護側は、Sに脅されて手伝ったものであり、山崎には期待可能性がなかったとして無罪、あるいは執行猶予を求めた。

11月20日、S・Kの公判に山崎が初出廷。証人尋問が行われたが、山崎は先日の宣言どおり、証言を拒否した。以降も証人出廷するたびに検察や警察に対する批判を展開したり、裁判官に罵声を浴びせるなどに終始した。検察は重要な鍵を握る山崎に、法廷で証言させて立証する計画であったが、結局、捜査段階での供述調書等が証拠として採用された。

12月15日、山崎に懲役3年の実刑判決。山崎が従属的な立場であったことは認められたものの、暴力や監視を受けていたわけではなく、口頭で脅されていたに過ぎず、警察に駆け込むなどの手段があり、期待可能性はあったとした。脅されたにせよ、自らの意思で犯行に及んだと認定。一連の事件での役割の重要性、結果の重大性を踏まえ、実刑判決となった。山崎は控訴したが、1996年6月7日、東京高裁が控訴を棄却。上告せず懲役3年が確定した。

1998年9月3日、S・Kの第57回公判の被告人質問で、それまで認否を留保していたSは起訴事実を認めた。しかし、Kが主犯、山崎が殺人の実行犯であり、自分は愛するKを守るために犯行に加担したと主張。元夫婦間の対立が決定的なものとなった。

2000年7月6日、論告求刑公判で検察はSとKに死刑を求刑。同年10月10日から4日間にわたり最終弁論が開かれ、Sは死刑回避を求めて無期懲役を、Kは無罪を主張した。初公判から約5年、計105回の公判の末に、ようやく結審した。

2001年3月21日、浦和地裁は検察側の主張をほぼ全面的に認め、SとKに死刑判決を言い渡した。内容が対立・錯綜するS・K・山崎の供述内容を精査した結果、最も信用できるのは、検察の立証の拠り所にもなった山崎の供述とされた。それが得られた背景には複雑な事情があったにせよ、犯人しか知りえない秘密の暴露が多数含まれることや、内容が具体的・写実的で迫真性に富んでおり、不自然・不合理な点もほとんどみられないことなどから、一部に虚偽や誇張が含まれていても、全体的に信用できるとの判断である(ただし、検察官と山崎の密約の有無については、積極的に言及しなかった)。

殺人の実行犯について、Bを除く3人は山崎が絞殺したものだと主張した点は、元夫婦間で証言が一致していた。しかし、山崎は被害者らと利害関係がなく、殺害の動機がない。また、多額の報酬目当てのいわゆる殺し屋として、山崎が殺人に関与した可能性については、そのような報酬が支払われた形跡が全くないことから否定され、結局、元夫婦の主張は却下された。また、山崎が謀議の段階から犯行に関与していたとの主張も退けられた。

A事件、B・C事件については、元夫婦が対等の立場で共謀して、またD事件についてはSが単独で被害者を毒殺した上、事情を知らないまま現場に呼び出された山崎を脅迫して犯行に加担させ、各被害者の遺体を損壊・遺棄したものと認定された。なお、検察は元夫婦が共謀したA事件、B・C事件について、Kが殺害を持ちかけた上で、Sが同意して犯行に及んだと主張したが、これは捜査段階でのSの供述[20]によるものであり、判決では「どちらが先に犯行を持ちかけたにせよ、元夫婦が共同で犯行に及んだ」と認定された。

D事件について判決では、Kの関与を認定するには至らないが、関与していた疑いが相当強いとした[15]。一方で、単独犯と認定されたSは「Kが主犯」と主張していた。そのため判決では、Sを単独犯と認定するが、背後に共犯者の存在の可能性を否定できないことは、量刑判断の上で考慮すべき事情であるとした。

被告人両名とも控訴した。

上訴審[編集]

2003年12月5日、東京高裁で控訴審初公判が開かれ、S・Kの弁護側は一審判決の事実誤認を主張した。控訴審でも出所後の山崎が証人出廷したが、検察や弁護人への批判、裁判制度への疑問を呈したほかは、曖昧な証言に終始した。また、山崎は以前からKの無罪を証言しているが、その具体的根拠は述べていない[21]。2005年2月14日、控訴審第16回公判では、KがB・C事件の死体損壊について、一部関与を初めて認めた。同年7月11日、東京高裁は元夫婦の控訴を棄却。両名とも上告したが、2009年6月5日、最高裁は上告を棄却。これによりS・Kの死刑が確定した。

事件番号[編集]

  • 第一審(浦和地裁)
    • A事件(死体損壊・遺棄):平成7年(わ)第39号
    • A事件(殺人):平成7年(わ)第114号
    • B・C事件:平成7年(わ)第189号
    • D事件:平成7年(わ)第284号
  • 控訴審(東京高裁)
    • 山崎控訴審:平成8年(う)第257号
    • S・K控訴審:平成13年(う)第1227号
  • 上告審(最高裁)
    • S・K上告審:平成17年(あ)第1840号

未解決事件[編集]

Sの周辺では1984年にも秩父市などで少なくとも3人の男女が失踪している。埼玉県警はSらの供述に基づき、遺体の捜索を行ったものの発見できず、立件されていない。なお、この他にも数名の失踪者や変死者がいるが、ここでは一般紙等で関連を報道された3件のみを記す。

  • 2月11日 - 秩父市の暴力団員Eが失踪。Sの兄貴分で、金銭トラブルがあった。Sが資産家の娘であるKと結婚する際、協力すれば報酬を支払うとEに持ちかけたSであったが、実際には支払わず、トラブルになったという。2月11日、「ちょっと出てくる」と言って、自宅に迎えに来た車に乗って出掛けたまま失踪した。周囲には「近く、でかい金が動く」などと話していたという。
  • 5月8日 - 秩父市のトラック運転手Fが失踪。FはSが秩父で経営していたペットショップの店員をしていたことがある。SがFの名義で店の看板を作ったことから、代金の取り立てに遭い、Sに立て替えた看板代金の返済を要求していた。近所のガソリンスタンドでSからの電話を受け、返済を約束されて出掛けたまま失踪した。
  • 6月上旬 - 深谷市スナック経営者Gが失踪。Sの知人である元自衛官の妻。元自衛官がGの高級外車を勝手に売却するなど、夫婦間で金銭などをめぐるトラブルがあった。周囲の知人らが気付かぬ間に失踪した。元自衛官の証言によれば、夫婦喧嘩で殴って死なせてしまい、Sに遺体の処理を依頼したという[22]。この事件については、Sは死体損壊・遺棄にのみ関与したとみられている。

元自衛官は警察の調べに対し、EとGの死体損壊・遺棄に関与し、Sが解体した遺体を、自分が荒川に遺棄したことを証言(F事件への関与は否定)。その供述を元に、1995年4月、捜索が行われた。しかし、11年の歳月が流れていたことに加え、遺棄現場とされる冠水橋の(旧)押切橋が1991年に取り壊された際、川底が浚われたことから捜索は難航[23][24]。5月には遺体の解体・焼却現場とされる熊谷市の旧犬舎も捜索したが、目ぼしい物証は発見できず、未解決事件となった。

しかし公判では、S・Kが「Eだって殺してから10年経つけど、未だに警察は迎えに来ない」との認識を共有し、A殺害を決意したと認定され、未解決事件へのS・Kの関与を示唆した。証人出廷した元自衛官の「Sの指示でEの遺体を焼却、遺棄した」との証言も信用できるとされた。

補足[編集]

  • Sら逮捕直後の1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、報道における同事件の扱いは縮小を余儀無くされた。その後もオウム真理教事件が相次いだことにより、事件の規模のわりに知名度が低い。また、大阪の愛犬家事件と混同されることも多い。
  • 主犯である元夫婦が経営していたアフリカケンネルは、事件後すぐに倒産し廃業となった。しかし、犬舎兼事務所だった建物は現在も熊谷市内に廃墟となって残っている。
  • 2001年6月20日放映のテレビ番組オフレコ!』(TBS系列)に山崎が出演。遺棄現場の山林から被害者Aが常に携帯していた大黒天の「お守り」(銭形をした特殊なもので、Aが兄とお揃いで持っていた)が発見されたことが、事件解決の突破口になったと明かされた[25]。なお、この事実は1995年2月18日付埼玉新聞、2000年7月7日付朝日新聞埼玉版等でも報道されているが、現場からは治療痕のある歯、登録番号が刻印された高級腕時計(ロレックス)など、身元確認の手掛かりが他にも発見されており、必ずしもお守りだけが決定的証拠というわけではない。
  • 山崎は初見でSの遺体を解体する手際の良さに過去に同様の処理を行なっていたのではと推測しており、S本人も幾度か殺人を行なっていた事を仄めかす発言をしていたと山崎が手記に認め、Sと山崎が知り合う以前に後に殺害される事となるEとSは知り合いで、Sが「鹿肉」を竹の皮に包んでEが所属していた指定暴力団稲川会系高田組(埼玉県熊谷市)に振る舞っていたというSの発言を聞いている。
  • 本事件をモデルに園子温監督の日本映画『冷たい熱帯魚』が製作された。ただし、犯人の生業はドッグブリーダーから熱帯魚屋に変更されている。

関連文献等[編集]

判決文[編集]

  • 「殺害された四人の死体を損壊・遺棄したことにつき、殺害の実行行為者から脅迫されたため、恐怖心から行ったもので、適法行為の期待可能性がなかったとの主張が排斥された事例 -愛犬家連続殺人事件控訴審判決」『判例時報』1590号、P146-149、1997年3月21日 - 山崎に対する控訴審判決。
  • 「特報 愛犬家殺人事件」『判例タイムズ』1064号、P67-137、2001年9月15日 - S・Kに対する第一審判決。

書籍・雑誌・新聞[編集]

  • 事件関係者の著作
    • 『共犯者』新潮社、1999年。ISBN 410602831X(文庫版:『愛犬家連続殺人』角川書店〈角川文庫〉、2000年。ISBN 4043553013) - 共犯者の一人、山崎永幸(文庫版は「志麻永幸」名義)の著作。
    • 蓮見圭一『悪魔を憐れむ歌』幻冬舎、2003年。ISBN 434400440X -『愛犬家連続殺人』を改題の上、加筆修正[26]
    • 『愛しのアラスカン・マラミュート』アフリカケンネル、1992年。ISBN 4880070165 - 事件発覚前のKの著作。アラスカン・マラミュートの写真集と、Kのエッセイからなる。現在絶版。国立国会図書館北海道立図書館平塚市立中央図書館に所蔵。
    • 片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―』鹿砦社、2016年。ISBN 4846310906-K本人が獄中で冤罪主張や子供たちへの思いを書き綴った手記、獄中から子供たちに出した手紙などが掲載されている(同書においてKは実名を公表している)。
  • 新聞
  • 事件を取り扱った書籍・雑誌記事(著者名50音順)
    • 唐沢俊一村崎百郎『社会派くんがゆく!』アスペクト、2001年。ISBN 4757208804
    • 北尾トロ『裁判長!これで執行猶予は甘くないすか』文藝春秋、2007年。ISBN 4163675604
    • 楠木誠一郎『日本中を震えあがらせた 恐怖の毒薬犯罪99の事件簿』二見書房、1998年。ISBN 4576981854
    • 国民自衛研究会『毒物犯罪カタログ』データハウス、1995年。ISBN 4887183291
    • 作田明監修『なぜ、バラバラ殺人事件は起きるのか? 殺人+死体遺棄を生む心の闇を解き明かす』辰巳出版、2007年。ISBN 4777803686
    • 事件・犯罪研究会編『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』東京法経学院出版、2002年。ISBN 4808940035
    • 清水勇男『特捜検事の「証拠と真実」』講談社、1998年。ISBN 4062094355(再刊:『捜査官 -回想の中できらめく事件たち-』東京法令、2007年。ISBN 4809011526) - 事件当時の浦和地検検事正の著作。
    • 高橋ユキ・多岐川美伎・長谷川零・加賀見はる子『霞っ子クラブ 娘たちの裁判傍聴記』新潮社、2006年。ISBN 4103015314
    • 高原純「ブリーディングとブリーダー ~愛犬家のモラル~」『愛犬ジャーナル』1995年3月号、P96-98
    • 富澤勝『日本の犬は幸せか』草思社、1997年。ISBN 4794207182
    • 中田薫構成・中筋純撮影『廃墟本2』ミリオン出版、2007年。ISBN 4813020542
    • 蜂巣敦著・山本真人写真『殺人現場を歩く』ミリオン出版、2003年。ISBN 4813010814(文庫版:筑摩書房〈ちくま文庫〉、2008年。ISBN 4480424008
    • 犯罪心理研究所編『20世紀名言集 大犯罪者篇』情報センター出版局、2001年。ISBN 4795834725
    • 日高恒太朗編『戦後殺人ファイル 日本震撼事件100』大洋図書、2006年。ISBN 4813020445
    • 日高恒太朗『新・殺人百科データファイル』(別冊歴史読本06)新人物往来社、2008年。ISBN 440403606X
    • 日高恒太朗『江戸・明治・大正・昭和・平成 日本の女殺人犯101』笠倉出版社、2008年。ISBN 477309916X
    • 福本博文「愛犬家殺人は時代の貌である」『諸君!』1995年7月号、P224-232
    • 福本博文「「愛犬の友」は殺人鬼 犬だけではなく人間まで「安楽死」させてしまった〝邪悪〟な男たち」『隣りの殺人者たち 彼や彼女はなぜ、人を殺したのか?』(別冊宝島333号)P35-47、宝島社、1997年。ISBN 4796693335
    • 『猟奇事件ファイル 悪魔と呼ばれた人間たちの犯罪履歴書』(別冊宝島1234号)宝島社、2005年。ISBN 4796649476
    • 『実録完全犯罪 暴かれたトリックと意外な「真犯人」』(別冊宝島1276)宝島社、2006年。ISBN 4796651500
    • 『殺人百科データファイル』(別冊歴史読本05)新人物往来社、2005年。ISBN 4404033052
  • 漫画
    • 岩田和久(画)・鍋島雅治(作)・蜂巣敦(文)『殺人犯の正体』ミリオン出版、2007年。ISBN 4813050778
    • 引間道夫「埼玉愛犬家連続殺人事件」『衝撃!!凶悪犯罪ファイル4 謀虐惨鬼編』竹書房、2007年。ISBN 4812466024
  • 事件を題材にした創作等
    • 根本敬『キャバレー妄想スター』ブルースインターアクションズ、1996年。ISBN 4938339250 -「魔性の母乳」の主人公はXがモデル。
    • 爆笑問題『爆笑問題の日本原論』宝島社、1997年。ISBN 4796611800(文庫版:宝島社〈宝島社文庫〉、1999年。ISBN 4796614826。文庫新装版:『新装版 爆笑問題の日本原論』宝島社〈宝島社文庫〉、2007年。ISBN 4796656707
    • 園子温冷たい熱帯魚』日活、2011年。- 犬から熱帯魚にモチーフ変更。共同脚本:高橋ヨシキ

関連サイト[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 正確には、Kの両親が資産家夫婦と養子縁組していたことによる。SとKが結婚した時には、資産家夫婦やKの父親は既に他界しており、Kの母親が遺産相続していた。
  2. ^ 「アフリカケンネル」の所得隠しが発覚したため、Sは偽装離婚によりほとんどの財産をKの名義に書き換え、所得がない状態を装った。Sの個人企業であった「アフリカケンネル」を株式会社化してKを社長に就任させ、自らは経営に関与していないように装ったのも、同じ事情による。
  3. ^ 雑誌『ペット経営』237号(1992年2月号)や、TV番組「男のBEタイム」(テレビ東京系列、1988年9月25日放映)において、「京都大学を卒業後、アフリカアラスカで十数年もテント生活を送った」「ヘリコプタークルーザーを何機も持っているし、パチンコ店も経営している」「(実名を挙げながら)著名な芸能人政治家文化人と知り合い」などといった内容の、途方もない虚言ばかりを並べ立てていた。TV番組には「に魅せられた男」として出演し、作家猪瀬直樹と対談したが、後に猪瀬は、途中から「これはなんなんだ」と思いながら聞いていたと語っている。
  4. ^ Sは左手の小指がない理由をアフリカでライオンに噛まれたと吹聴していた。
  5. ^ 山崎の著著ではこの件について、Sに騙されたと気づいたAが、Sの出方を伺うためにメス犬を知り合いに預けたのだろうと推測しているが、判決の中ではただ「逃げ出して行方不明になった」とされている。
  6. ^ 栄養ドリンクに毒を混入したとする報道や書籍もあるが、硝酸ストリキニーネは苦味が激しく、被害者にすぐに気付かれるため、そのような方法で飲ませることは事実上不可能である。
  7. ^ Sは山崎と共に、Aとの待ち合わせ場所のガレージに向かい、Aが現れた後、山崎を外出させている。数十分後、山崎がガレージに戻ると、Aが既に死亡しており、遺体を前にSから脅迫を受けたという。山崎が殺害現場にいないこの状況を不自然と見る向きもあるが、問題の時刻に山崎がガソリンスタンドに立ち寄ったというアリバイは証明されている。また、トラブルを抱えた相手に言葉巧みに毒薬を飲ませるという殺害方法からすると、第三者(山崎)を同席させることはかえって危険であったと言える。B・C事件についても同様である。
  8. ^ この時、Nシステムに山崎が運転するAの車が捉えられている。
  9. ^ Cは事情があってBのもとに預けられていたが、組員ではない。強請とも直接関係はなく、巻き添えで命を落とした。
  10. ^ Bを先に殺害する必要性から、Bには多めの硝酸ストリキニーネを服用させたと言われるが、判決では明言されていない。毒の摂取量、個体差、当日の体調等により、薬効が現れる時間に差異が生じるとされている。
  11. ^ この時山崎は、関越自動車道沼田ICを下りる際、警察官検問を実施していることに気付き、咄嗟に料金所手前で車をUターンさせ、次の月夜野ICへ向かっている。山崎には期待可能性がなかったとの主張が、判決で退けられた理由の1つである。
  12. ^ SがD家で産まれた子犬を引き取る際に値切るようなことはあったものの、この時点ではSとDやD家との間には、目立ったトラブルはなかったとされる。
  13. ^ 殺害場所は不明で、「行田市内、熊谷市内、もしくはその周辺」とされている。Aと同様のガレージとの説は、当時の状況(犬の餌用の缶詰が、酷暑のため大量に破裂し、異臭が充満していた)から否定されている。
  14. ^ Sは山崎に対し、Dのことを「B方の向かいに住んでいるばばあで、Bの遺体を運び出すのを見たと言って強請ってきた」などと、嘘の説明をしていた。
  15. ^ a b 山崎がガレージで待っていると、(遺体を載せた)Sの車に続いて、Kの車も現れたが、Sの「行け」という合図で、Kはそのまま走り去ったという。また、「アフリカケンネル」の運営に充てる金を詐取するという動機からも、資金管理の一切を掌握していたKが事件に関与していた疑いが相当強いとされた。しかし、これらはあくまで情況証拠にとどまり、認定には至らなかった。Kも当初、D事件の死体損壊・遺棄容疑で逮捕されたが、処分保留で不起訴となった。
  16. ^ あまりに残忍なためか、新聞報道等ではぼかした表現しか用いられていないことが多い。同様の「遺体なき殺人」の事例は他に、オウム真理教事件北九州監禁殺人事件江東マンション神隠し殺人事件などがある。
  17. ^ Sらが殺害したBの事務所から家財道具一式を持ち出して横領した事件があり、山崎の著書によるとそれ以降、県警が本格的に動き出したという。なお、同書によると、県警はこの時初めてB・C事件もSらの犯行だと気付いたとされている。一方で、B・C事件前の7月12日、大胆にもSが熊谷警察署に直接電話をかけて、Bとの金銭トラブルを相談しており、その時点でBの危機を察知した署員もいたという(1995年2月25日付毎日新聞埼玉版)。
  18. ^ 清水勇男『特捜検事の証拠と真実』。1995年2月19日付読売新聞群馬版。
  19. ^ 本事件は熊谷支部の管轄だが、事件の重大性から、途中から浦和地検本庁の担当となり、公判も浦和地裁本庁で行われた。
  20. ^ 当時、ほぼ完全黙秘を貫いていたKに対し、Sは早くから自供を始めていたため、Kにとって不利な供述も多く含まれていると思われる。
  21. ^ 山崎が罪を犯していないということではなく、自分と同じくSに脅されていた立場なのに、Sと共に死刑判決を受けたのは納得できない、との主張のようである。
  22. ^ 当初元自衛官は「GはEと駆け落ちしたのではないか」などと話していたが、警察の厳しい追及に対し、死体損壊・遺棄への関与を認めた。Gの死因については、急性アルコール中毒としていたが、後に殴って死なせてしまったと認めている。仮に遺体が発見されたとしても、元自衛官の証言どおりであれば傷害致死罪であり、既に時効(当時は7年、死体損壊・遺棄罪は3年)を迎えていたため、殺人罪での立証が不可能な限り、元自衛官を罪に問うことはできなかったと思われる。
  23. ^ “愛犬家連続殺人 押切橋から遺体捨てた 11年前の元組員失踪 S被告の知人証言”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 17. (1995年4月18日) 
  24. ^ “愛犬家殺人事件 荒川での捜索終了 骨片・歯など109点”. 日本経済新聞 朝刊 (日本経済新聞社): p. 39. (1995年4月26日) 
  25. ^ 「オフレコファイル」 -埼玉愛犬家殺人事件の真相
  26. ^ 山崎の代筆を務めた元週刊新潮記者で作家の蓮見が、自身の名義で再刊したもので、『愛犬家連続殺人』とほぼ同内容である。2度もタイトル・著者名が変わった件については、『本の雑誌』29-5号(2004年)でも取り上げられている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]