若山富三郎

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わかやま とみさぶろう
若山 富三郎
若山 富三郎
本名 奥村 勝 (おくむら まさる)
別名義 城 健三朗 (じょう けんざぶろう)
生年月日 (1929-09-01) 1929年9月1日
没年月日 (1992-04-02) 1992年4月2日(62歳没)
出生地 日本の旗 東京府東京市深川区
職業 俳優歌手映画監督
ジャンル 映画テレビ映画ドラマ演劇
活動期間 1949年 - 1992年
配偶者 藤原礼子1963年 - 1965年
著名な家族 杵屋勝東治(父)
勝新太郎(弟)
若山騎一郎(息子)
鴈龍(甥)
主な作品
映画
人形佐七捕物帖』『博奕打ち 総長賭博
極道シリーズ』『賞金稼ぎシリーズ
極悪坊主シリーズ』『子連れ狼シリーズ
姿三四郎』『エスパイ
悪魔の手毬唄』『衝動殺人 息子よ
トラック野郎・男一匹桃次郎
がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-
魔界転生』『ブラック・レイン
テレビ映画
唖侍鬼一法眼』『賞金稼ぎ
御金蔵破りシリーズ
ドラマ
悪魔のようなあいつ』『さくらの唄
事件シリーズ』『飢餓海峡
演劇
『歌舞伎模様・天保六花撰
 
受賞
日本アカデミー賞
最優秀主演男優賞
1979年『衝動殺人 息子よ』
ブルーリボン賞
助演男優賞
1977年姿三四郎』『悪魔の手毬唄
主演男優賞 1979年『衝撃殺人 息子よ』
その他の賞
芸術祭大衆芸能部門 大賞
1978年『歌舞伎模様・天保六花撰
キネマ旬報 主演男優賞
1979年『衝動殺人 息子よ』
毎日映画コンクール 男優主演賞
1979年『衝動殺人 息子よ』
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若山 富三郎(わかやま とみさぶろう[1]1929年昭和4年〉9月1日[1] - 1992年平成4年〉4月2日)は、日本俳優歌手映画監督。別芸名は城 健三朗(じょう けんざぶろう)。映画テレビ映画演劇で幅広い役柄を演じ、特に殺陣は当代随一の名手と評された[2][3][4]

本名:奥村 勝(おくむら まさる)。東京府東京市深川区出身[1]。父は長唄三味線杵屋勝東治、弟は勝新太郎[1]、息子は若山騎一郎、元妻は藤原礼子、甥は俳優の鴈龍

生涯[編集]

幼少の頃より弟の勝新太郎とともに長唄の修行を始める[1]旧制日大三中在学中は1年生を3回落第するほど素行に問題があった。長唄の修行よりも柔道に熱中して師範(伍段)を目指していたといい、「あたしは柔道教師になろうと思ったんです...ええ、講道館の四段で、間もなく五段になるところでした」と語っている[5]1949年、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし[1]、芸名を若山 富三郎とした。1954年新東宝からスカウト、演技経験のない新人としては破格の高給と、運転手付きの車での送迎を約束させた上で入社を決める。

若山富三郎(城健三朗)と藤原礼子の結婚式
前列中央。右横は藤原礼子。

1955年に『忍術児雷也』でデビュー[1]。『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年には『銭形平次捕物控』に主演。新東宝が経営不振に陥ると1959年東映へ移籍し、新東宝時代同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演した他、多くの脇役もこなす。1962年大映へ移籍、城 健三朗と改名。白黒作品の『打ち鴉』に主演した他は市川雷蔵や弟の勝新太郎の脇役に甘んじ仕事では不遇の日々であった。1964年1月6日に大映所属の女優、藤原礼子と結婚。1964年には『風雲児半次郎 唐芋侍と西郷』に主演。この年に若山騎一郎を儲けるが、1965年に藤原と離婚、その後の1年間干されて役がつかない挫折を味わった。

1966年に出演した大映での最後の作品『処女が見た』で共演した安田道代と恋愛関係となり、長期間交際した。この年、再び東映に移籍し、芸名を若山 富三郎に戻している。脇役からのスタートであったが、鶴田浩二主演の『博奕打ち 総長賭博』の助演で認められ、主演映画も制作され始める。1968年より始まった『緋牡丹博徒シリーズ』、『極道シリーズ』、『前科者』では、従来の義理人情のヤクザ映画に若山のコミカルな演技が加わり、他の任侠路線とは一線を画す人気作となった。その他、『賞金稼ぎシリーズ』、『極悪坊主シリーズ』などに主演した。これ以降は主演ないし大型ゲストとしての仕事が切れ目なく続き、浮き沈みのあった前半生とは一転してスター人生を全うすることになる。

1970年代の『子連れ狼シリーズ』では拝一刀に扮し、凄みのあるダイナミックな殺陣と寡黙な演技は「一刀の若山か、若山の一刀か」と評されるほどの代表作になり、海外にも輸出された。同じ頃、個人事務所「若山企画」を立ち上げ、『唖侍鬼一法眼』(1973年)、『賞金稼ぎ』(1975年)などのテレビ時代劇に主演。前者では2話、後者では3話を監督した。

白塗りの二枚目から三枚目、悪役、豪放なアクション・殺陣と、幅広いタイプの役柄を演じているが、1974年には睦五朗に招かれ、『エスパイ』に出演し、敵役のリーダー「逆エスパイ・ウルロフ」を演じた。特徴的な髪型は若山の考案で、クランクインの際には一つのセリフを様々な抑揚・表情でサンプルのように演じ分けてみせ、監督に選んでもらった。1977年の『悪魔の手毬唄』の磯川警部と、1978年から放送された『事件』の菊池弁護士は、優しい人間味と哀愁を湛えた等身大の中年像であり、抑えた演技はそれまでのイメージを一新した。『悪魔の手毬唄』と『姿三四郎』の村井半助で、第20回ブルーリボン助演男優賞を受賞。1979年の『衝動殺人 息子よ』で、キネマ旬報主演男優賞・ブルーリボン賞毎日映画コンクールの主演男優賞、第3回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞した。1978年の『がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-』では少年野球日本代表チームの監督役としてトニー・カーティスと共演。「黒田節」を歌い、バック転を披露している。演劇では1977年の『三文オペラ』や1978年の『アニー』で、長唄で鍛えた美声を披露。また同年の『歌舞伎模様・天保六花撰』では河内山宗俊に扮して、第33回芸術祭大賞を受賞した[6]

1981年千葉真一主演の『魔界転生』で柳生宗矩に扮し、紅蓮の炎の中で行われた千葉演ずる柳生十兵衛との決闘では、華麗ながらも凄みのある戦いを演じ、劇中最大のクライマックスとなっている[4][7]。魔界衆がまばたきをしないのは、歌舞伎でのお化けの演技からヒントを得た若山の発案である。本作は観客動員数200万人、配給収入10億5千万円となった[8]。千葉は本作後も再び若山との殺陣を望み、『影の軍団III』第1話「二つの顔の男」では千葉が直接、若山へ出演依頼をして共演を実現させた。ほかには『御金蔵破りシリーズ』でも、殺陣と復讐に燃える忍者からコミカルな役まで幅広い演技を見せる。

影武者』では黒澤明が、信玄役を若山富三郎、影武者役を勝新太郎という実の兄弟でキャスティングする意向だった[9]。しかし、若山は勝と黒澤のトラブルを予期し、それに巻き込まれることを嫌って出演依頼を断った。なお若山は「何、黒澤明? そんなうるせえ監督に出られねえよ、俺は」と、その本音を述懐している[10]1989年の『ブラック・レイン』では、凄みを効かせたヤクザの親分を演じ、その存在感を示した。

港区三田の蓮乗寺。弟の勝新太郎と共に眠る。

喘息でありながらショートホープを愛煙するチェーンスモーカーで、糖尿病でありながら平気で大福羊羹1本を平らげるなど、持病を抱えながらも不節制、不養生を続ける生活習慣が祟り、1984年には心筋梗塞で入院。その後ハワイで血管5本に及ぶバイパス手術を受ける[11]。手術は無事に成功し、復帰を果たした。この間医師の忠告を無視し生活習慣を改めることはなかった。糖尿病悪化の影響もあり、1990年になって心臓の状態は再び悪化。同年12月には腎機能障害を併発し入院を余儀なくされ、医師から「(このままの生活を続ければ)来年の夏までもたない」と余命宣告を受けている[注釈 1]。その後は京大病院に転院。一時小康状態となり、週3回の人工透析を受けながら、1991年10月に映画『王手』で復帰を果たすが、病の影響で、やつれた印象は隠しようがなかった[12]。1992年2月にはペースメーカー埋め込み手術を受けている[13]

1992年3月27日、勝に対して懲役2年6月、執行猶予4年の判決が下され、実刑も予想される中での執行猶予付き判決に涙を流して喜び、4月2日、京都の自宅に勝夫妻と清川虹子を招き食事会を催す。食事の後、いつものようにマネージャーに麻雀卓の用意をさせているさなか、隣に座っていた清川に顔面蒼白で倒れこみ、この時には既に心停止の状態だった。搬送先の京大病院で電気ショックや降圧剤投与などの処置を受けるが、午後6時25分、急性心不全のため死去。62歳没[14]。兄想いだった勝はカメラの前でその遺骨を食べ、涙を流しながらその死を悼んだ[15]。墓所は港区蓮乗寺。

殺陣[編集]

数多い時代劇俳優の中にあって殺陣が最もすぐれた俳優と評され[2][3][4]千葉真一峰打ちの殺陣を若山から教わるなど[2]、「若山先生から殺陣を本格的に教わり、ある意味、僕の師匠」「尊敬している[16]」と語っている。若山は千葉が1970年に設立したジャパンアクションクラブJAC)の結成式にも駆けつけ、その門出を祝っている[17]。弟の勝新太郎も「殺陣はお兄ちゃんにかなわない」と証言している[18]。勝の代表作である『座頭市シリーズ』でも『続・座頭市物語』(1962年)、『座頭市千両首』(1964年)の2作品に出演している。『続』では過去の因縁から市(笠間の市太)と反目する実兄・渚の与四郎役、『千両首』では剣客・仙場十四郎役で、どちらも勝と迫力ある殺陣を演じている。

嵐寛寿郎竹中労のインタビューで「若手で巧かったのは一に萬屋錦之介、二に若山(と勝)で以下は無い[19]」としているが、テレビドラマ『賞金稼ぎ』の殺陣を担当した上野隆三(東映)は「殺陣が特に巧い人は誰かというなら、若山富三郎さんだ。あの人は何を持たせても巧い。武芸百般というけれども、薙刀棒術などいろんなのがあるが、若山さんは何をやってもできる人だったね[3]」と評している。

代表作である『子連れ狼シリーズ』では長巻を駆使した殺陣を披露し、トンボ切り(前方宙返り)も得意とした。トンボ切りは他にも映画『極悪坊主 念仏人斬り旅』『賞金稼ぎシリーズ』『魔界転生』や『賞金稼ぎ』『御金蔵破りシリーズ』『影の軍団III』『暴力中学シリーズ』などで披露している。

人物[編集]

親分肌で、気に入った役者やスタッフらを取り巻きとして公私に関わらず引き連れていたため、いつしか「若山組」と呼ばれるようになった。面倒見のいい反面、非礼な態度や意にそぐわない相手には手を上げることもよくあり、自分より格下と思われる相手からは「若山さん」ではなく「若山先生」と呼ばれない限り、返事もしなかった。大部屋俳優等、弱い立場の人に対してだけでなく、撮影スタッフや監督、大映時代には会社幹部にまで暴力をふるうことがあったため恐れられていたが、子役に対しては優しかった。1989年のこと、新東宝時代からの友人である丹波哲郎は若山に、自身が企画・製作・脚本・総監督を務めた映画『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』への出演を依頼。若山は既に心臓疾患を患い、体調に不安を抱えつつもこれを引き受ける。丹波は若山の体調を気遣いながら撮影を進めたが「おまえはすぐ人を殴る。体調が悪くなったのはそのバチが当たったんだ」と苦言を呈している。

若山組には大木実潮健児関山耕司山城新伍安岡力也高岡健二丹古母鬼馬二らのメンバーがいたが、若山より6歳年上の大木とはお互いに「きょうだい」と呼び合う仲だった[20]。若山組への加入は「固めの杯」を任侠の世界と同様に行っていたが、下戸で自他共に認める名うての甘党だった若山の「固めの杯」は「羊羹を煮溶かし、食パンの上に塗ったものを食べるというものであった」と山城は語っている。後輩を壁際に立たせて、若山得意の手裏剣を投げつけるという荒っぽい「入組試験」もあった[21]

「借金が得意」「親分肌で取り巻きを大勢連れ回したがる」など、その言動が勝新太郎と酷似していたため、大映時代には「二人も勝新太郎は要らない」、「愚兄賢弟」などと揶揄されていた。しかし天才肌の反面、大酒飲みで遅刻が多く台本をあまり読んでこない勝と違い、若山は2時間ほど前には楽屋入りし、撮影前の台本チェックなど事前の準備を怠らなかった。後年東映でスターダムにのし上がり、映画賞・演劇賞を数々受賞するに至ってからは名優としての評価を高めたのに対し、勝は不祥事が相次ぐようになり、その評価は逆転した。事実、勝は「演出プロデュースでは自分が上だが、演技力はお兄ちゃんに敵わない」と最高の賛辞を送っている。兄弟仲は非常に良く、勝が大麻所持で逮捕された際、マスコミの前では勝を批判しながらも、執行猶予付きの判決が出たときは若山は「よかった、よかった」と涙を流して喜んだ。また、勝がある役者の演技を叱ろうとしたとき、その役者が「若山先生の言われた通りにしたんですけど…」と答えると、「あぁそう、お兄ちゃんがそう言ったの」と一転して機嫌がよくなり、叱るのをやめたという。

1984年に行なわれたインタビューの中で、「これまで4回ほど、ドン底があった」として、「一時は、東京の山谷か大阪の釜ヶ崎に住もうかと本気で考えたし、共産圏の国に逃げちゃおうかなんて思ったこともあった。」と話している。[22]

逸話[編集]

撮影所[編集]

監督との関係
若山は、学歴に対するコンプレックスが強かった。それゆえ新人監督が若山に接するときは、とにかく「帝大を出た事にしろ」とアドバイスされたという。また、仕事に対するこだわりが強く、撮影現場でもさまざまなアイデアを進言することがあったが、無茶を言って監督を困らせるようなものも少なくなかった。そんな若山をなだめるのがうまかったのが山下耕作で「若山さん、それは素晴らしいアイデアだ。でも、もったいないから、次回に取っておきましょう」と、若山の熱意と顔を立てながら現場を収拾していた[20]
楽屋
あるとき東映の若山の楽屋の隣から工事の音がし始めた。若山の取り巻きが聞いてきた話では、高倉健が自分の楽屋が狭いため、拡張工事をしていると言う。それを聞き激怒した若山は「そっちがそんな勝手するなら俺だって」と、音のする壁と反対側の壁を自ら叩き始め楽屋を広くしようとした。若山に壁を叩かれた隣の部屋では大川橋蔵が弁当を食べていたが、びっくりして飛び出してきた。大川が「いったい、何やってるんですか?」と尋ねると、若山は「壁壊して部屋広くするんや」と返答。大川は呆れ気味に「それはいいですけど、僕の部屋はどうなるんですか?」と尋ねると、若山は正気に戻ったのか「あ、すんまへん」と謝った。さらにそこに通りかかって話を聞いた鶴田浩二も激怒し、同じく自分の楽屋を広くするため壁を叩き始めたという[20]
片岡千恵蔵を非常に尊敬しており、千恵蔵の使用していた楽屋が自分のものになると感激のあまり、号泣した[20][23]
楽屋には大福キャラメルコーヒー牛乳などを常備する甘党で、夜中に後輩俳優を呼び出して汁粉を振る舞ったこともあった[注釈 2]
若山が下戸であることを知らなかった高倉は、日頃の礼の意味で撮影前の若山に日本酒を一瓶贈ったことがあった。若山は困惑しながらも高倉の思いに応えようと快く受け取り、高倉の眼前でラッパ飲みして見せた。しかし飲んだ直後に卒倒し、当日の撮影は中止となった。高倉はひたすら平身低頭、謝罪したという。
菅原文太
1967年、松竹に在籍していた新東宝時代の後輩・菅原文太が東映に移籍し若山に挨拶に行った際、東映への移籍は安藤昇からの勧めがあったことから、若山は「お前は安藤の子分になったのか」と訊ねた。菅原はそれを否定し「そうか!ならワシんとこの若い衆になれ!」と、それ以降菅原を可愛がるようになった。その後、菅原は1969年に『現代やくざ 与太者の掟』で東映で初主演(この作品にも、若山が出演し華を添えている)、1973年には『仁義なき戦い』シリーズが大ヒットし、一躍東映の看板スターとなるに至り、菅原を妬んだ東映生え抜きの役者連中は若山に「菅原が天狗になってます。何とかしてください」等と告げ口を始める。菅原自身は若山には礼を尽くしていたので、若山は意に介していなかったが、遂に乗せられ「アイツ自身のためにみんなの前で殴る」と菅原を殴ることになった。
東映京都撮影所の俳優会館の前に椅子を持ち出して待ち構え、通りかかった菅原を見つけ「オイ、文太!」と声を掛けた。ところが機敏に察知した菅原は、若山に走り寄りその手をとって「オヤッさん、ありがとうございました。ぼくみたいな下手な役者が、小さな賞ですけど京都市民映画祭の主演男優賞を獲れたのはオヤっさんのおかげです。ありがとうございました。」と恭しく挨拶した。気勢をそがれた若山は「おお、そうか…。文太、お前の部屋(東映の控え室)にテレビはあるのか?」と聞き、菅原が「ありません」と答えると、「じゃあみんなでお祝いに買ってやる」として奥で隠れてやり取りを見ていた子分の山城新伍から3万円を出させ、テレビを買い与えた。当時のテレビの価格では3万円は頭金にしかならず、かといって他の役者達は金を出さなかったので、電器屋が菅原のところへ代金を請求に行ったところ「取れるもんなら、取ってみい!」と凄まれて泣く泣く帰る羽目になり、結局電器屋は丸損となった[20]
仲裁を待つ
ある時東映撮影所で大喧嘩になり、若山は「ぶち殺してやる」と机を持ち上げて相手に投げつけようとした。若山を止めてもらおうと呼び出された山城が駆けつけると、若山は机を振り上げた姿勢のまま固まって待っていた。山城は若山に「早く止めに来んかい」と怒られた[20]
「やなぎざわじんごぉ~!」
コミカルな芸も得意とする俳優の柳沢慎吾松方弘樹主演の『名奉行 遠山の金さん』(テレビ朝日系)に同心・間半平役でレギュラー出演していた頃、若山が第3シリーズ第3話「怪盗の顔を見た!」(1990年7月26日放送分)でゲスト出演した際に、東映京都撮影所内ですれ違った時のことである。当時柳沢はまだ駆け出しの若手だったため、若山に対する【暗黙のルール】[注釈 3]を知らされていなかった。
ちょうど食事を終え、食堂から出てきた柳沢は若山に対し、楊枝をくわえながら「チィーッス!」と何気なしに頭を下げて立ち去った。この態度に若山が信じられないようなものを見た顔をして激怒し、「あの野郎、後で俺の部屋ぁ来いって言っとけ!」と東映京都撮影所俳優会館のスタッフに指示。
俳優会館内の特別室である自分の楽屋に柳沢を呼び付け、大慌てで自己紹介し謝罪する柳沢を尻目に、柳沢を自分のソファーの真向かいに座らせ、無言のまま長時間睨みつける事態となった。そこへ、ただならぬ異変に気付いた松方が楽屋に入り「富兄い、今、俺と一緒に『金さん』やってる柳沢慎吾って若い奴だから…」と間を取り持つと、若山は「…知ってるよ。だから俺ぁ、シンゴと話してたんじゃねぇか」と告げたが、実際は何も言わずにひたすら柳沢を睨み続けていたという。若山は松方の顔を立て、その場は一旦収束した。
若山と柳沢が絡むシーンは、同心の間半平が右手で刀を持ちながら[注釈 4]目撃者を尋問しているところを若山演じる元岡っ引きの老人(役名は車坂の惣兵衛)が襖を開け「旦那ぁ、そいつは違うんだよぉ…そいつは違うんだよ旦那ぁ!」と若山が割って入るのを柳沢が『うるせぇこのジジィ!おめぇは引っ込んでろ!』と一蹴するシーンだった。ところが撮影に入ると、同心役の柳沢の刀の取り扱いや所作に度々注文をつけ、「やなぎんごぉ~![注釈 5]おめぇ今、どっちの手で刀ぁ持ってたんだよ!おめぇの役は同心じゃねぇのか?…おい、やなぎんごぉ~!」などと柳沢を何度も叱責。
柳沢が必死に「これは松尾(正武)監督の指示なので…」と説明すると今度は「おい松尾こっち来い!」と監督の松尾に矛先が向いた。「(スクリプトされた)前とのつながりがありますから」との松尾の説明にも納得せず、演出について1時間ほど撮影中断の上で意見する事態となり、撮影は遅々として進まなかった。
業を煮やした松尾は、柳沢が若山に対して言う台詞『うるせぇこのジジィ!おめぇは引っ込んでろ!』の「”ジジィ”の前に【クソ】付けて!」と柳沢に指示。
渋る柳沢をよそに「うるせぇこのクソジジィ!」の台詞で撮影は進行。一応そのシーンは撮り終わったものの、直後に若山が「おい、やなぎんごぉ~!おめぇ今台詞が2つくらい増えたろ!?」と再び柳沢を叱責した。
若山は「おい岩村、聴かせろ!」と録音技師を呼びつけて何度も音声をチェックし、柳沢の台詞が台本と変わっていることに気づいて激怒した。
ここで再び「い、いや、違います。これは松尾監督の指示で…」と狼狽する柳沢から説明されると「松尾てめぇこっち来いこの野郎!」と今度は松尾に喰ってかかり、結局この日の撮影は中止となった[注釈 6]
撮り直しは翌週となりシーンの設定は修正が加えられたものの、台詞からクソジジィは消されることなく、番所から帰る惣兵衛(若山)を見送った後に半平(柳沢)が「嫌味なクソジジィじゃねえかよぉ、全くよぉ」と呟く形になった。シーンを撮り終えた後で声を掛けられ、出番を終え帰ったと思った若山が、まだ撮影スタジオ内に残っていたことを知ったという。放送ではこちらの撮り直し版が採用されている。
しかしその後、若山は柳沢を懇意にし、とても良好な関係だったという。
柳沢の実家には若山に肩を組まれて撮ったスナップ写真を引き延ばしたパネルが飾られている。

バラエティー[編集]

クイズダービー
1988年(昭和63年)10月8日(第661回・ドラマ大会)、同日放送の『妻たちの鹿鳴館』の番組告知も兼ね、共演の池内淳子と共に出場者側(ギャンブラー席・黄色チーム)で登場した。若山は第1問目で、5枠・ゲスト解答者だったビートたけしに「たけし君にね、『3,000点』はダメか?」といきなり持ち点の全部を賭けようとした。しかし司会の大橋巨泉に「3000点はまずいですよ!!無くなっちゃうじゃないですか。早く帰ろうと思ってるなぁ!淳子ちゃん何か言って下さいよ!」と呆れながら止められてしまい、結局全額を賭けることはできなかった。レギュラー解答者・出場者側のタレントを始め会場の観客らは大爆笑、隣の池内も苦笑いしつつ1,000点に賭け点を変更したものの、たけしは不正解。持ち点は2,000点と減点された。なお番組の歴史上、第1問で3,000点全部を賭けようとした番組出場者は若山と、とんねるず(本件とは逆で、高正解率を誇るはらたいらの確実性に賭けた)のみである。
第5問目では若山が1枠・北野大を指名。「(北野博士の)ファンなんだよ」と言いながらも、持ち点の1,500点から賭けたのは「200円」だった。巨泉は「200『』!これが、ファンにしてはケチなんだよなあ。まあ良いでしょう」と笑う。その後池内が500点に変更したが、結局北野大は不正解で1000点に減額。巨泉に「200円にしとけば良かったね、若山さん今のねぇ」と苦笑された。第6問の作詞問題では、若山が歌う『男道』からの出題であった。問題が読まれた直後に若山は「これ俺じゃないよ。だって覚えが無いもん」と困惑していたが、巨泉から「オレですよぉー!!そうやって書いてあるんだもん、レコードに。それは、単に忘れちゃっただけですよ!!」と呆然とされた。
第7問終了時にはわずか100点にまで減っていた。最終問題で池内は掛け率8倍の4枠・竹下景子を指名して、100点全部を賭けた。竹下が正解したので、結果若山・池内ペアの賞金獲得額は「900円」だった。エンディングで池内は「でも偉いでしょ?ゼロにならなかったのがねぇ」と笑い巨泉も「エライですよ」と褒めたが、巨泉は若山に「自分がレコーディングしたの忘れないで下さいね」と繰り返し言っていた。
どっきりカメラ
若山は清川虹子と共に安岡力也へのどっきりの仕掛け人として出演。若山と清川が結婚するという偽の招待状を受け取った安岡は、御祝儀をいくら出すか悩んで周囲に相談し、事務所から「(若山さんと清川さんからは)2人とも初婚ではなく、年齢的な理由もあって質素な結婚式をすると聞いている」「会費制で1万円」と聞き、1万円にした。当日、出席者の山城新伍や松方弘樹ら御祝儀の金額が次々と読み上げられたが[25]、すべて10万円以上で、100万円といった桁違いに高い金額もあった。力也の前に読み上げられた高岡健二の金額が1万円であったことに若山が驚愕し激怒、高岡は裏口に連れ出されて暴行されるなど手痛い仕打ちを受ける(※無論、本当に殴られているわけではなく実際にはふりで、メイクで傷痕を作った)。その様子を間近で見ていた力也が、緊張のあまり震え上がるという趣向だった。
8時だョ!全員集合
ゲストとして出演した際、たまたまぎっくり腰を患い、松葉杖をつきながらもこの日の「学校コント」や「時代劇コント」に出演した。特に「時代劇コント」では、志村けんに松葉杖を預けた上で、ぎっくり腰とは思えぬ見事な殺陣を披露した。志村からの「賞金稼ぎがぎっくり腰とはお笑いだ」とのツッコミに、若山も「金貰ってるから、やらねぇとしょうがねぇんだよ」と返し、しっかり笑いもとった。

趣味[編集]

スーパーマリオブラザーズ
実子で付き人であった若山騎一郎の著書『不器用に生きた男 わが父 若山富三郎』によれば、騎一郎や、騎一郎の姉の佳代子にはスーパーマリオのゲームを教えるときだけは優しかったという。また、若山企画の人間全員にもやらせ、賞金まで出して大会を開く、一人でも毎日のようにプレイし、腱鞘炎になっても包帯を巻いてでもやり続ける、スーパーマリオ2が発売されたときには仕事を休んでまでクリアしようとしたなど、ハマっていた逸話が多い。

小説[編集]

1983年(昭和58年)に本人名義で、歴史小説『ゼロの暗殺者』を発表したが、これはゴーストライターによる執筆作である[注釈 7]

受賞[編集]

出演[編集]

映画[編集]

シリーズ[編集]

  • 忍術児雷也シリーズ (1955年、新東宝) - 遠山弓之助
    • 忍術児雷也 (1955年)
    • 逆襲大蛇丸 (1955年)
  • 人形佐七捕物帖シリーズ(1956年 - 1961年) - 人形佐七
    • 人形佐七捕物帖 妖艶六死美人(1956年、新東宝
    • 人形佐七捕物帖 大江戸の丑満刻(1957年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 花嫁殺人魔(1957年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 浮世風呂の死美人(1958年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 腰元刺青死美人(1958年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 般若の面(1960年、東映
    • 人形佐七捕物帖 くらやみ坂の死美人(1960年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 血染めの肌着(1960年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 ふり袖屋敷(1960年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 恐怖の通り魔(1961年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 闇に笑う鉄火面(1961年、東映)
  • 謎の紫頭巾シリーズ(1957年、新東宝) - 遠山金四郎
    • 姫君剣法 謎の紫頭巾(1957年)
    • 謎の紫頭巾 姫君花吹雪(1957年)
  • 修羅八荒シリーズ(1957年、新東宝) - 浅香恵之助
    • 修羅八荒 薩多峠の剣陣(1957年)
    • 修羅八荒 猛襲伏魔殿(1957年)
  • 忍術使いと三人娘シリーズ(1961年、東映) - 神築弓之介
    • 忍術使いと三人娘(1961年)
    • 忍術使いと三人娘 女狐変化(1961年)
  • 極道シリーズ(1968年 - 1974年、東映) - 島村清吉
    • 極道(1968年)
    • 帰ってきた極道(1968年)
    • 兵隊極道(1968年)
    • 待っていた極道(1969年)
    • 旅に出た極道(1969年)
    • 極道釜ヶ崎に帰る(1970年)
    • 極道兇状旅(1970年)
    • 極道罷り通る(1972年)
    • 釜ヶ崎極道(1973年)
    • 極道VSまむし(1974年)
    • 極道VS不良番長(1974年)
  • 前科者シリーズ(1968年 - 1969年、東映)
    • 前科者 (1968年)
    • 横紙破りの前科者(1968年)
    • 前科者 縄張荒し(1969年)
  • 極悪坊主シリーズ(1968年 - 1971年、東映) - 真海
    • 極悪坊主(1968年)
    • 極悪坊主 人斬り数え唄(1968年)
    • 極悪坊主 念仏人斬り旅(1969年)
    • 極悪坊主 念仏三段斬り(1970年)
    • 極悪坊主 飲む打つ買う(1971年)
  • 賞金稼ぎシリーズ(1969年 - 1972年、東映) - 錣市兵衛
  • 子連れ狼シリーズ(1972年 - 1974年、勝プロ / 東宝) - 拝一刀

その他[編集]

テレビ作品[編集]

テレビ映画テレビドラマ双方の出演作。

舞台[編集]

バラエティ[編集]

CM[編集]

ディスコグラフィ[編集]

シングル[編集]

  • 極道ブルース / 渡世人(テイチクレコード、A-2)
  • 極悪坊主 / 男のバラード(1968年8月、テイチクレコード、A-6)
  • 道産子人生 / 波止場ブルース(テイチクレコード、A-14)
  • 落葉人生 / 雪に追われた流れもの(1969年、テイチクレコード、A-17)
  • 極道子守唄(テイチクレコード、A-41)
  • 極道エレジー / 全極連ブルース(テイチクレコード、A-47)
  • 諸行無常 / 極道のバラード(テイチクレコード、A-56)
  • 股引一代 / 男道(テイチクレコード、A-72)
  • マドロス子守唄(テイチクレコード、A-75)
  • ひとり無情 / 問わず語り(ポリドール、DR-1658)
  • 別れの子守唄 / 夕べ酒場で聞いたうた(1971年、RCAレコード、JRT-1180)
  • 子連れ狼 / 流れ影(1972年、東芝レコード、TP-2689)
  • 流れ者 / ひとつの命(1975年4月、キャニオンレコード、A-253)
  • ふたりの四季 / 双六仁義(1980年、KA-1197)
  • 幸せになれよ / なぐさめ(1983年、クラウンレコード、CWA-219)
  • なむあみだぶつ / 野狼のうた(クラウンレコード、CW-901)
  • おとこ坂 / おんな坂(日本コロムビア、AH-61)

アルバム[編集]

  • 流れ者(1972年、MR-2213)

著書[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この事実は、当然本人には一切知らされなかったが、若山の近親者はハワイ滞在中の勝以外、当時存命であった高齢の父・勝東治のみで、付き人らも「私たちでは受け止められない」とし、結局医師の説明に立ち会ったのは山城新伍花園ひろみであった。医師からは「私たちの言う事を聞いてくれて煙草を吸わないでいるとか、そういうことで騙し騙しいけば3年か4年は大丈夫かも知れない。だが覚悟だけはしておいて欲しい」と伝えられた。
  2. ^ 実家が和菓子屋で自身も甘党だった潮健児が、ある日楽屋で汁粉を作っていた若山に「甘味を増すために塩を入れるのは素人」と進言。「ならばどうするのか?」と尋ねる若山にすかさず「もっと砂糖を入れればいいんです」と答えた事で一目置かれるようになったという[24]
  3. ^ 若山と顔を合わせた場合、座っていれば必ず立ち上がり、すれ違った時は必ず立ち止まって『若山先生、おはようございます!』と声をかけて最敬礼する。また、共演する場合には撮影開始前に若山の楽屋へ必ず挨拶に行く、当然であるが遅刻厳禁である。
  4. ^ 同心は敵がいつ襲ってくるかわからないため、本来右手で刀を持つことはあり得ないが、ドラマだからという理由で他のシーンも右手に刀を持った状態で撮影してしまっている。また間半平という役のキャラクターカラーを際立たすために右手に刀を持たしていたとも言われている。
  5. ^ 決して「やなぎさわ」とは呼ばなかった。
  6. ^ ちなみにこの日は撮影中止となり、柳沢は帰京するため風呂に入ろうとしたところ、スタッフから「俳優会館3階にある浴室が2か所空いているから、右側を使って良い」と勧められ、言われた通り右側の浴室を使用した。しかしその浴室は先に若山が使用しており、戻ってきた若山に見つかりそうになり、慌てて半裸のまま1階の大部屋用大浴場に逃げこんだ。廊下の水滴を辿って後を追ってきた若山に踏み込まれるが、周囲の役者らの機転と浴槽の湯に潜ったことで事なきを得た。帰京する新幹線の車中で、柳沢は極度の緊張と恐怖から解放され「爆睡」したという。この柳沢の「しくじり」は当時、すでに関根勤小堺一機の耳に入っており、仲間内では有名だったという。なお、これらのエピソードは2004年2月10日から16日まで、品川プリンスホテルの「クラブeX」で開催された小堺とのコントライブ「小堺一機 & 柳沢慎吾LIVE ライブマン★コミック君!!」で披露されたほか、日本テレビザ!世界仰天ニュース』(2007年4月25日放送分)で柳沢がゲスト出演した際、笑福亭鶴瓶のリクエストに応え、「1人コント」で一部始終を再現しており、柳沢のネタの1つになっていて、その後も度々披露している[出典無効](もっとも、柳沢は話を誇張する癖が有るため、話すたびに細部が異なり、どこまで正確な話なのかは定かでは無い)。
  7. ^ 2009年(平成21年)6月18日テレビ神奈川TOKYO MX TV博士の異常な鼎談』で、ゲスト出演したコラムニスト・書評家の吉田豪が、この小説のあとがきを読む過程でその内訳を明かしている[出典無効]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 東宝特撮映画全史 1983, p. 535, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  2. ^ a b c JJサニー千葉『千葉流 サムライへの道』ぶんか社、2010年、154 - 171頁。ISBN 4821142694 
  3. ^ a b c 『圧巻!無頼派時代劇―ハードボイルド・ヒーローを斬る! (歴史群像シリーズ)』学研、2004年、115頁。ISBN 9784056032680 
  4. ^ a b c 深作欣二「千葉ちゃん、ウソって観客に思わせたら負け」」『アサ芸+』、徳間書店、2012年11月29日、2012年12月8日閲覧 
  5. ^ 南部僑一郎「スタア武芸帖」『小説倶楽部』11 (3)、桃園書房、1958年3月、218頁。 
  6. ^ a b 昭和53年度(第33回)芸術祭賞一覧”. 2010年10月20日閲覧。
  7. ^ 佐藤雅夫「プロダクション・ノート 魔界に祟られたスタジオ」(パンフレット)『魔界転生』、角川春樹事務所東映、1981年6月6日、24 - 25頁。 
  8. ^ 過去興行収入上位作品 一般社団法人日本映画製作者連盟”. 2014年6月30日閲覧。
  9. ^ 「黒澤明」参謀が明かした「勝新太郎」と大喧嘩の一部始終 週刊新潮(2016年3月3日号)
  10. ^ 『仲代達矢が語る 日本映画黄金時代』(PHP新書)P214
  11. ^ http://www.nurs.or.jp/~ki-net/home2d.html2013年4月19日閲覧)
  12. ^ 山城新伍『若山富三郎・勝新太郎無頼控 おこりんぼさびしんぼ』廣済堂文庫、2008年、233 - 259頁。ISBN 9784331654330 
  13. ^ 麻雀中に急性心不全で倒れた若山富三郎|プレイバック芸能スキャンダル史”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 2020年3月4日閲覧。
  14. ^ 麻雀中に急性心不全で倒れた若山富三郎|プレイバック芸能スキャンダル史”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 2020年3月4日閲覧。
  15. ^ 兄の遺骨を食べ、薬物をパンツに隠す 令和に語り継がれる「勝新太郎伝説」”. AERA dot.. 2020年3月6日閲覧。
  16. ^ 千葉真一 高倉健から東映解雇を救ってもらった体験を明かす”. ザ・トップ5. TBSラジオ (2011年12月14日). 2014年11月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月24日閲覧。
  17. ^ "銀幕にかける情熱 夢・ロマン そて挑戦". 本格報道 INsideOUT. 20 March 2013. 21:00 - 21:54 該当時間:. BS11
  18. ^ 賞金稼ぎ (1975)”. 東映チャンネル. 2013年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年1月18日閲覧。
  19. ^ 竹中労 (1976). 鞍馬天狗のおじさんは―聞書アラカン一代. 白川書院. ASIN B000J8VD9U 
  20. ^ a b c d e f 山城新伍『若山富三郎・勝新太郎無頼控 おこりんぼさびしんぼ』幻冬舎、1998年、46頁、51 - 57頁、62 - 65頁、72頁、83 - 91頁、98頁頁。ISBN 4877282424 
  21. ^ 若山騎一郎『不器用に生きた男 わが父若山富三郎』ひらく、1998年、172 - 173頁。ISBN 4341190423 
  22. ^ 「人 若山富三郎」『グラフNHK』11月号(25巻11号、通巻475)、NHK、1984年11月1日、2頁。 
  23. ^ [1]
  24. ^ 潮健児 『星を喰った男』(1993年バンダイISBN 4891895187[要ページ番号]
  25. ^ 結婚式の会場で招待客が渡したご祝儀の金額を読み上げるといった事は通常ではありえない事である。
  26. ^ 番組エピソード 早坂暁と「NHKドラマ」 NHKアーカイブス
  27. ^ 昭和53年度 第33回 文化庁芸術祭賞

参考文献[編集]

外部リンク[編集]