垣内繁安

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垣内 繁安
時代 江戸時代中期
生誕 享保8年(1723年
死没 文化元年9月28日1804年10月31日
改名 垣内茂助、清四郎、太郎兵衛
別名 義同(号)
墓所 紀伊国有田郡栖原村施無畏寺
氏族 藤原菊池氏栖原垣内家
父母 垣内繁福、妙誓
兄弟 垣内重恕、善蔵
妙覚
垣内忠質孝友
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垣内 繁安(かきうち しげやす)は江戸時代中期の豪商。紀伊国有田郡栖原村垣内太郎兵衛家第8代。菊池海荘の祖父。

生涯[編集]

享保8年(1723年)[1]紀伊国栖原垣内家第6代垣内繁福の五男として生まれた[2]。幼名は茂助で、長じて清四郎と称した[2]。当初叔父垣内敦義の跡継ぎとなったが、兄垣内重恕に子がなく、他の兄も早世したため、本家に戻った[2]。享保20年(1735年)父繁福が死去すると[3]、重恕に江戸での商売を任された[4]。14歳の時安房国に出て、重恕と敦義が長狭郡天津中不入村に開いた支店で米・麦を商った[2]

安永元年(1772年)繁恕が始めた農業に協力して沼地を埋め立て、を伐採してを栽培した[2]

天明2年(1782年)3月25日中不入浦の支店を江戸新和泉町[5]に移して砂糖・薬種を扱い、次男垣内孝友にこれを任せた[2]

70代で長男垣内忠質に家督を譲り[2]、晩年義同と号した[6]文化元年(1804年)9月28日故郷で病没し、施無畏寺に葬られ、11月忠質・孝友により皆川淇園撰・書の墓碑が建てられた[6]

人物[編集]

11歳の時、兄善蔵が隣村に出かけたところ、子供達に犬を嗾けられ、家に逃げ帰って来た。繁安は「懲らしめてやる」と憤り、太刀を帯びて善蔵と隣村の名主宅に押しかけ、刀に手をかけて非難した。名主は驚いて叩頭して謝罪したという[2]

商売の余暇には武術を修行し、特に槍術に長じた[2]。ある日、江戸で桃井伴山と槍術を競い合ったところ、壁に3尺の穴を開けてしまい、隣人を驚かせた[2]。また、ある夜熊谷宿を通過中、盗賊に遭遇したが、一喝して追い払った[2]。このほか謡曲・横笛・作曲・撃剣に通じた[6]

家を継いで以降は自制して別人のようになり、毎日帳簿と向き合ったが、怒ると以前の姿を現した[2]。江戸本店が資金不足のため、親族から借金したところ、その弟が監視しに来て横柄に振る舞った。支配人南平七に「本家を侮辱している。追い出てほしい。」と頼まれると、その親族に在庫・器材を全て与えて独立開業させ、本店の財政は窮地に陥った[2]。またある日、豪商鴻池某から借金しようとしたが、無礼な態度を取られたため、怒鳴って立ち去ったという[2]

親族[編集]

  • 父:垣内繁福(第6代太郎兵衛、了玄)
  • 母:妙誓 - 北畠佐次右衛門娘[7]
    • 兄:垣内重恕(第7代太郎兵衛、了順)
    • 兄:善蔵[8]
    • 姉妹:須賀 - 堂茂右衛門妻[9]
    • 姉妹:妙蓮 - 久保忠助妻[9]
  • 妻:妙覚 - 西忠右衛門娘[7]
  • 継室:妙政 - 垣内荘太郎娘[7]
  • 長男 - 夭折[6]
  • 次男:垣内忠質(第9代太郎兵衛、茗渓)
  • 三男:垣内孝友(初代孫左衛門、淡斎)
  • 娘:栄(栄好) - 垣内元綽(太郎左衛門、敬念)妻[9]
  • [6]

脚注[編集]

  1. ^ 山口 1999, p. 6.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 菊池 1918, p. 7.
  3. ^ 菊池 1918, p. 6オ.
  4. ^ 菊池 1918, p. 6ウ.
  5. ^ 新井 1961, p. 647.
  6. ^ a b c d e 湯浅町 1967, pp. 946–947.
  7. ^ a b c 菊池 1918, p. 29ウ.
  8. ^ 湯浅町 1967, p. 945.
  9. ^ a b c 菊池 1918, p. 30オ.

参考文献[編集]