坂東三津五郎 (2代目)

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二代目坂東三津五郎の石井源蔵
寛政6年(1794年)5月江戸都座上演の『花菖蒲文禄曽我』(はなあやめぶんろくそが)の一場面。初代歌川豊国画。

二代目 坂東 三津五郎(にだいめ ばんどう みつごろう、寛延3年(1750年)- 文政12年10月3日1829年10月30日))は、江戸後期の歌舞伎役者。屋号大和屋。定紋は三つ大俳名に里遊・是業・初朝がある。

上方の生まれで、初め初代尾上紋太郎の門下で尾上藤蔵と名乗り、京都四条[要曖昧さ回避]の大芝居で子役として評判を得、宮地芝居や子供芝居で立物となる。その後初代尾上紋三郎襲名

天明元年(1781年)江戸に下り、初代坂東三津五郎の門人となるが、翌年に師が死去、その一子・初代坂東巳之助に三津五郎襲名の話がもちあがったが、何ぶんまだ幼年だったことから紋三郎が中継ぎとして天明5年に二代目三津五郎を襲名した。寛政11年(1799年)に巳之助改メ初代坂東蓑助に「三津五郎」の名跡を返上してこれを三代目とすると、自らは二代目荻野伊三郎を襲名。ここから本当の活躍がはじまり、和事実事所作事いずれをもこなす大看板となる。享和3年(1803年)には河原崎座で初の座頭をつとめたが、文政9年(1826年)9月以降の番付にはその名が見えない。

主な当たり役は『義経千本桜』の狐忠信、『菅原伝授手習鑑』の判官代輝国など。子に三代目荻野伊三郎がいる。当時においては長命の数え80の大往生だった。