坂上宝剣

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坂上宝剣(さかのうえのたからのつるぎ)は、日本の天皇に相伝される朝廷守護の宝剣(現在は所在不明)。田村将軍剣[1]敦実親王剣[2][3]とも。

醍醐天皇が外に持ち出したとき、石突が抜け落ちて紛失したが、それを犬がくわえて持ってきたという故事がある。また雷鳴により自然に鞘から抜けると伝わる。

概要[編集]

坂上宝剣は天皇に相伝される護り刀で、朝廷の守護刀として坂上田村麻呂より伝わった御佩剣という[1]

西園寺公衡が『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』に乾元二年五月九日付(西暦1303年)で記述したこの刀剣の説明およびその裏書によれば、田村将軍剣は刀身の両面にそれぞれ「上上上 不得他家是以為誓謹思」「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていたという[注 1]。刀身は「鯰尾の剣で、鮫柄・銀の鐔・平鞘・白銀の責・石付、黒地に胡人狩猟図を金に蒔く」とあり「頗古物宝物歟」とされる[4]

関連する出来事[編集]

平安時代[編集]

征夷大将軍坂上田村麻呂の死後、その死を惜しんだ嵯峨天皇により田村麻呂の遺品の佩刀の中から1振りを選び、その刀を御府に納めたとされる[5]

富家語』では、関白藤原忠実の談話として連続する二条に見られる。前条で忠実は「藤原師実御車に乗ったとき、乗り方が悪く御剣を敷いて折ってしまったため、もっての外に貧窮がたなと仰せられた。この貧窮刀は今も手元にある」[6]と語っている。続いて「式部卿敦実親王の剣を持っていたが、白河上皇からお召しがあって献上した。今は鳥羽の宝蔵に伝来しているだろう。この剣は醍醐天皇野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突がなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突をくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、自分が知る限りは未だ無かった。師実は抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた」と続く[7][8]。忠実の談話は貧窮刀と坂上宝剣という2つの剣に関わる話題として対照的だが、どちらも失錯にまつわる説話である。また、いずれも師実が伝来に関わっており、忠実のもとに剣が至ることが共通している。

古事談』では、『富家語』の記述を受けながらも微調整や再構成を行って、異なるテーマとして説話を描き出している。「醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので殊に興じて歓喜した。敦実親王は自ら肌身離さず持っていた。雷が鳴るときは自然に脱ぐという霊威を示したという。霊剣の評判を聞きつけた白河上皇は藤原師実から召し上げたが、その後に自ら脱ぐことはなかった。藤原忠実が若いころに不審に思ってある者に抜かせてみたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣という銘があった」[2][9]。『古事談』では時系列が整えられて敦実親王を中心人物とし、『富家語』にはない文言を追加することで談話をひとつの物語へと改編している[10]

古今著聞集』になると「この剣は醍醐天皇が野行幸の時に腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、今の世には知らず。師実は畏れて抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた。藤原忠実に伝えられたが、白河上皇により召されたという。式部卿敦実親王の剣という」[3]。と『古事談』で追加された文言は削られて『富家語』に近い説話となっている[11]

鎌倉時代[編集]

鎌倉時代後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統との間で皇統が2つの家系に分裂し、治天天皇の継承が両統迭立の状態にあった。

1272年文永9年)に死去した後嵯峨は、次代の治天は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけを示された。後深草と亀山はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨の正妻であり後深草と亀山の生母でもある大宮院に故人の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山を治天に指名した。

後嵯峨は長講堂領と呼ばれる荘園を後深草が相続できるようとりはからっていたが、皇室伝来の坂上田村麻呂の御佩刀[注 2]が後嵯峨の意向により亀山に伝えられ、大宮院も関与していたことに後深草の不満は収まらなかった。このことは幕府にも不満を伝え、後に幕府の介入を招くことになる[12]

坂上宝剣はその後、両統迭立の正式な始まりとされる後二条天皇の時に、亀山から恒明親王へと与えられた[12]

関連する刀剣[編集]

関連する刀剣として壺切御剣が挙げられる。壺切御剣は坂上宝剣と同じく、後深草を超えて亀山へと伝授されたことで、どちらもレガリア的役割を深く担った。両刀が決定的に異なっているのは、後三条天皇の頃に消失した壺切御剣は実検と復元、新造と発見という真偽を超えた対応で処遇され、象徴としてのモノとしてすでに儀礼化の中に位置していた。それに対して坂上宝剣は『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』乾元二年五月九日と裏書に、刀身に彫られた文字まで克明に記録されたように、実物として存在する歴史的実在性が権威化の象徴であった[13]

俗説[編集]

牧秀彦は、第二次征伐の際に征夷副使となった坂上田村麻呂が佩用した太刀が坂上宝剣であるとしている。最初は標剣(そはやのつるぎ)とも呼ばれ、811年(弘仁2年)に没した田村麻呂の遺愛刀の標剣が皇室の御剣に加えられた。その後は歴代天皇や親王の側に置かれ、現在は鞍馬寺に所蔵されていると著書で述べている[14]。ただし牧秀彦説は引用された史料が挙げられておらず疑問点も多い。

標剣とは蝦夷征討において天皇から征夷大将軍に賜与される節刀の事を指し[注 3]、第二次征伐では征夷副使であった田村麻呂が天皇から節刀を賜与されていたとは考えにくい。また、田村麻呂は第三次征伐で征夷大将軍となった801年延暦20年2月14日に節刀を受けているが、同年10月28日に帰京して天皇に節刀を返しているため、生涯に渡って標剣を持ち続けていた事実はない。

また、標剣をそはやのつるぎともしているが、標剣とそはやのつるぎを結びつける一次史料が挙げられていないため、標剣をそはやのつるぎとしている点も疑問が残る。

同様に、鞍馬寺が所蔵する黒漆剣についても田村麻呂が戦勝祈願に訪れ無事に凱旋した時に奉納した大刀と伝わるのみであるとされるが[15]、鞍馬寺の大刀が坂上宝剣であるとする牧秀彦説は信憑性に欠ける。 坂上宝剣には刀身の両面にそれぞれ「上上上 不得他家是以為誓謹思」「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていたと記録に残るが、黒漆剣には金象嵌はない。

このように牧秀彦説には多数の疑問点がみられることから誤説と考えられ、近年では坂上宝剣と標剣、そはやのつるぎ、黒漆剣の4振りの刀剣は同一ではない、または同一であるか定かではないと説明されるのが一般的となっている[16][17]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 坂家は坂上氏を指す
  2. ^ 増鏡』では「朝の御まぼりとて田村の将軍より伝はりまいりける御はかし」とあり、朝廷守護の宝剣や皇位継承の印と考えられていた
  3. ^ 『豊受太神宮禰宜補任次第』に「外宮の祭祀を司る渡会氏の祖、大若子命が北征の際に天皇より標剣を授けられた」という記述から、標剣は節刀を指すことが読み取れる

出典[編集]

  1. ^ a b 増鏡』巻8「あすか川」
  2. ^ a b 古事談』第1「王道后宮」
  3. ^ a b 古今著聞集』巻20「魚虫禽獣」
  4. ^ 『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』乾元二年五月九日、裏書
  5. ^ 『平泉志』巻之下「坂上将軍」
  6. ^ 富家語』156
  7. ^ 『富家語』157
  8. ^ 荒木浩 2009, pp. 113-115.
  9. ^ 三原由起子「『古事談』の犬、その陰陽道的解釈--説話解釈の一視点」、『國文』第80号、お茶の水女子大学国語国文学会、1994年、 29–30。
  10. ^ 荒木浩 2009, pp. 115-120.
  11. ^ 荒木浩 2009, pp. 120-123.
  12. ^ a b 荒木浩 2009, pp. 123-128.
  13. ^ 荒木浩 2009, pp. 134-141.
  14. ^ 牧秀彦 2005, pp. 105-108.
  15. ^ 高橋崇 1986, pp. 206-207.
  16. ^ かゆみ歴史編集部 2015, p. 195.
  17. ^ 住麻紀 2015, pp. 22-23.

参考文献[編集]

関連項目[編集]