土御門有春
| 時代 | 戦国時代 |
|---|---|
| 生誕 | 文亀元年(1501年) |
| 死没 | 永禄12年6月19日(1569年8月1日) |
| 官位 | 従二位・治部卿 |
| 主君 | 後奈良天皇 |
| 氏族 | 安倍姓土御門家 |
| 父母 | 父:不詳、養父:土御門有宣 |
| 兄弟 | 養兄弟:有尚 |
| 子 | 有脩、勘解由小路在高 |
土御門 有春(つちみかど ありはる)は、戦国時代の公卿・陰陽家。陰陽頭・土御門有宣の猶子。土御門家29代当主。官位は従二位・治部卿
経歴
[編集]文亀元年(1501年)誕生。実父は明らかでなく、土御門有季とするものもあるが[1]、有季は寛正6年(1465年)死去とされており[2]、有春の生年からすると年代が合わない。なお、『公卿補任』では、「故正二位有宣卿子(實者猶子)」と記されており、実父についての記載が無い[3]。
永正年間前期に叙爵すると、永正10年(1513年)従五位上、永正16年(1519年)正五位下と昇進するが、この間の永正11年(1514年)養父の有宣が82歳で没している。中務大輔を経て、大永5年(1525年)有宣が任ぜられなかった陰陽頭に任官、翌大永6年(1526年)従四位下に叙せられた。天文3年(1534年)修理大夫を兼ねている。
天文11年(1542年)従三位に昇叙されて公卿に列すが、この際に陰陽頭は辞任するも、引き続き修理大夫を帯びた。天文12年(1543年)治部卿に遷ったのち、天文16年(1547年)正三位に叙せられ、天文21年(1552年)従二位に至る。
当時、土御門家と並んで陰陽道宗家の双璧であった賀茂氏勘解由小路家の当主・在富の唯一の息子である賀茂在昌は、永禄7年(1564年)に妻子を連れて京を出奔して、キリシタンとなって豊後府内に留学していた。永禄8年(1565年)在富は後継者が不在のまま没する。しかし、嗣子がいなかったため、有春は四男の福寿丸(1553-1575・13歳)を勘解由小路在高として養子に入れて相続させた。
なお、永禄7年(1564年)ごろより有春は地方に下っていたが、永禄10年(1567年)再び上洛している。永禄12年(1569年)6月19日に卒去。享年69。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 文亀元年(1501年) 日付不詳:誕生
- 時期不詳(永正年間):従五位下
- 永正10年(1513年) 6月14日:従五位上
- 永正16年(1519年) 12月26日:正五位下
- 大永2年(1521年) 3月29日:中務大輔
- 大永5年(1525年) 3月3日:陰陽頭
- 大永6年(1526年) 2月25日:従四位下
- 享禄3年(1530年) 7月17日:従四位上
- 天文2年(1533年) 12月19日:正四位下
- 天文3年(1534年) 12月14日:修理大夫、頭如元
- 天文9年(1540年) 3月24日:兼但馬権介
- 天文11年(1542年) 閏3月7日:従三位、大夫如元、辞頭
- 天文12年(1543年) 7月28日:治部卿
- 天文16年(1547年) 正月5日:正三位
- 天文21年(1552年) 11月3日:従二位
- 永禄7年(1564年)頃:在国
- 永禄10年(1567年) 正月29日:上洛。5月:下国。10月:上洛
- 永禄12年(1569年) 6月19日:卒去