土倉一善
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時代 | 江戸時代後期(幕末) |
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生誕 | 文政2年(1819年) |
死没 | 慶応4年2月21日(1868年3月14日))[1] |
別名 | 左膳、弾正(通称)、悟慎斎[1] |
藩 | 備前岡山藩家老 |
氏族 | 土倉氏 |
父母 | 父:土倉一静、養父:土倉一昌[1] |
妻 | 鉄子(池田博忠長女)[1] |
子 | 正彦、佐喜(池田博愛夫人)、政(伊木忠恭夫人)[1] |
土倉 一善(とくら かずよし / いちぜん[1])は、江戸時代後期・幕末期の岡山藩の家老。
経歴
[編集]文政2年(1819年)、岡山藩家老土倉一静の四男[1]として岡山に生まれる。一静の婿養子となった一昌の養子となる。
弘化元年12月(1844年)、一昌の隠居により家督相続し、岡山藩家老、佐伯1万石の領主となる。同年、宮田善兵衛の請負で、見能潟塩田の開作(干拓)を行う。文久2年(1862年)8月、仕置家老となる。文久2年(1862年)12月、藩主池田慶政に、姻戚の左大臣一条忠香より国事斡旋の内示が届き、名代として上京する鴨方藩主池田政詮に同行した。文久3年(1863年)4月、仕置家老を辞任する。慶応元年(1866年)12月15日、家臣田原平左衛門が、佐伯に逗留中の尊攘運動家豊田謙次を殺害する事件が起こり、翌慶応2年(1866年)1月22日、平左衛門を切腹させた。
同年5月、隠居して家督を嫡男の一享(正彦)に譲る[1]。慶応4年(1868年)2月21日没。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)