国崇
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基本情報 | |
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本名 |
藤原 国崇 (ふじわら くにたか) |
階級 |
フェザー級 スーパーバンタム級 |
身長 | 168cm |
国籍 |
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誕生日 | 1980年5月30日(40歳) |
出身地 | 岡山県倉敷市 |
スタイル | キックボクシング |
国崇(くにたか、1980年5月30日 - )は、日本の男性キックボクサー。
本名は藤原 国崇(ふじわら くにたか)
拳之会(こぶしのかい)所属
現WKAムエタイ世界フェザー級王者。
来歴[編集]
少林寺拳法倉敷南道院に入門[編集]
1985年12月5日小学校3年生の時、親の勧めで岡山県倉敷市に所在する少林寺拳法倉敷南道院の門を叩き、
約1か月の体験入門を経て正式に入門を許可される。
ここから藤原国崇の長い格闘技人生がスタートした。
他流派オープン大会に初出場[編集]
1995年3月26日岡山武道館にて行われた第10回岡山オープン硬式空手道選手権大会「中学生の部」に出場し1回戦は勝利し、2回戦敗退。
同年7月23日玉野市で行われた第6回OHK杯せとらんど硬式空手道大会「中学生の部」に出場し優勝する。
1996年3月31日岡山武道館にて行われた第11回岡山オープン硬式空手道選手権大会「中学生の部」に出場し優勝する。
同年9月15日岡山・玉野レクレセンターにて行われた第7回OHK杯せとらんど硬式空手道選手権大会「高校生の部」で第3位入賞。
1997年7月20日岡山・玉野レクレセンターにて行われた第8回OHK杯せとらんど硬式空手道選手権大会「高校・一般の部」で第3位入賞。
グローブ空手大会で初優勝[編集]
1998年4月29日大阪府立体育館にて行われた第9回関西グローブ空手交流大会 軽量級に出場し優勝、ならびにベストファイト賞を受賞。
同年5月31日大阪府立体育館にて龍生塾主催どついたるねん5に出場しワンマッチで勝利。
同年6月21日岡山市総合文化体育館にて行われた第4回西日本グローブ空手選手権大会「軽量級」に出場し第3位入賞。
同年11月1日岡山市総合文化体育館にて行われた98スーパーカラテパートⅡ出場し優勝、ならびに力杯受賞。
同年11月14日東京武道館にて行われた第5回グローブ空手オープン選手権「60kg以下の部」で優勝。
新空手道交流試合に初出場[編集]
同年11月22日第50回新空手道交流試合「K-2一般55kg以下の部」優勝、ならびにベストファイト賞受賞。
同年12月13日広島県・福山市勤労青少年ホーム体育館にて空手の祭典98「グローブ空手 軽量級60kg以下」に出場し優勝する。
1999年1月31日東京武道館にて行われた第51回新空手道交流試合「60kg以下の部」第3位入賞。
同年3月28日岡山武道館にて行われた第14回岡山オープン硬式空手道選手権大会「高校生の部」に出場し準優勝。
同年5月1日東京武道館にて行われた第6回グローブ空手オープン選手権「55kg以下の部」で優勝。
同年8月1日大阪市中央体育館にて行われた正道会館主催第11回西日本新人戦空手道選手権大会「フルコンタクト空手C軽量級」で優勝する。
NJKF主催グローブ空手オープン選手権大会3連覇達成[編集]
同年10月23日東京武道館にて行われた第7回グローブ空手オープン選手権「55kg以下の部」で優勝。
同年11月6日神戸市中央体育館にて行われた日進会館空手道選手権大会J-TOPウエイト制トーナメントに出場し優勝する。
同年11月21日岡山市総合文化体育館にて行われた99スーパーカラテパートⅡ軽量級(60kg以下)に出場し優勝、ならびに最優秀賞受賞。
同年12月12日東京文教スポーツセンターにて行われた第10回全日本アマチュアシュートボクシング大会「軽量級57kg以下」に出場し第3位入賞。
2000年3月19日横浜アリーナにて行われた第11回新空手道全日本大会出場者選出大会 軽量級(60kg以下の部)にてベスト8、第11回全日本新空手道選手権大会出場資格獲得。
最後のアマチュア大会出場[編集]
同年5月5日東京武道館にて行われた第11回全日本新空手道選手権大会 軽量級(60kg以下の部)に出場し第3位入賞。
所属ジム「拳之会」がNJKFに加盟[編集]
同年4月拳之会がニュージャパンキックボクシング連盟に加盟すると共にプロキックボクサーになる事を決意。
同年6月NJKF小国ジムにてプロテストを受験し、拳之会プロ選手第一号となる。
プロデビュー[編集]
同年7月16日に、東京都板橋区のCASSスポーツクラブで開催された小国ジムが主催するニュージャパンキックボクシング連盟(以下NJKF)興行「MILLENIUM WARS 6」に本名の「藤原国崇」でプロデビュー。バンタム級で獅子丸修平と対戦し、2Rに3度のダウンを奪ってKO勝ちした[1]。
2001年12月6日会長と二人で初の海外遠征を経験。タイ国ラジャダムナンスタジアムにて当時No.1プロモーターのソンチャイ氏の興行に出場するもサクラ・ルーグスタンに3RTKO負けを喫する。
1つ目の日本王座獲得[編集]
2003年7月6日に行われたNJKF興行の「VORTEX VII 〜旋風〜」で行われたNKBバンタム級王座決定戦(3分5R)で1位にランクされていた国崇は、童子丸(同級3位)と対戦。1R目にダウンを奪い、童子丸に主導権を握らせないまま3点差を付けたまま5R判定3-0で勝利し、第2代王者になった[2]。
2つ目の日本王座獲得[編集]
2004年に自身が所属するNJKFが、NKBを脱退したため、NKBのバンタム級王者だった国崇は、NKBの王座を返上した。そして、そのままNJKFバンタム級王者として認定された[3]。
2004年1月、真二と判定ドロー。
2004年5月、真二に判定勝利。
2004年9月、童子丸にTKO勝ち。
少林寺拳法 正拳士四段允可される。[編集]
2005年1月、米田貴志に判定勝ち。
改名[編集]
2005年5月6日にJ-NETWORK主催「GO! GO! J-NET '05 〜MACH 55 1st 準決勝〜」で、全日本キックボクシング連盟バンタム級王者の藤原あらしと対戦。国崇は、1Rにあらしの左の目蓋を、2Rにはさらに右の目蓋もカットし、大きく攻勢に出るが、3Rにあらしの右縦肘で頭部から出血し、両者にドクターチェックが入る。そして、国崇の出血が激しくなり、ドクターストップによる3R1:47TKOで破れ、トーナメントは準決勝で敗退した。この敗戦で、国崇は本名でリングネームでもある藤原国崇の名前を、「国崇」に改名した。
2005年7月、若林にボディフックでKO勝ち。
2005年9月、タップナーにKO負け。
2005年11月、真二に判定勝ち。
2006年3月、J-NET王者の牧に飛び膝蹴りでKO勝ち。
2006年5月、MA王者の岩波にハイキックで切り裂いてTKO勝ち。
2006年7月、元MA王者のカピラ前沢に肘で切り裂いてTKO勝ち。
2006年9月、藤原あらしにダウンを奪うも左ミドルで腕が動かなくなり逆転の判定負け。
2007年3月18日にNJKF興行の「FIGHTING EVOLUTION III 〜進化する戦い〜」の米田貴志(同級1位、真王杯55kg級優勝)相手に防衛戦を行ったが、5R0-3の判定で破れ、王座から陥落した。1R目はとったが、他のラウンドではポイントをとることは出来なかった。2R終盤には肘でカットされるなどした[4]。
2007年11月23日にNJKF興行の「FIGHTING EVOLUTION 〜進化する戦い 13th〜 The Last Supper 最後の晩餐」で行われた、米田貴志の返上したNJKFバンタム級王座の王者決定戦(3分5R)に出場。前田浩喜(同級2位)と対戦するが、1R目に左ストレートでダウンを奪われたダウンによる点差が響き、中盤は盛り返したが、前田の防御を崩すことが出来ず点差をひっくり返すことが出来ないまま、5R0-3の判定負けを喫した[5]。
2008年4月13日ディファ有明にて行われたNJKFセンチャイジム主催興行 Muay Thai Open4日泰国際戦で、当時ラジャダムナンスタジアム現役ランカーでもあったハーンチャイ・ギィアットヨンユットと対戦し、惜しくもドローとなった。
3つ目の日本王座獲得[編集]
2008年7月27日に「START OF NEW LEGEND IX 〜新しい伝説の始まり〜」のNJKFフェザー級王者決定戦(3分5R)で岩井伸洋(同級1位)と対戦。5R0-3の判定で下し、3つ目の日本王座獲得と2階級制覇に成功した[6]。
世界王座挑戦[編集]
2008年10月18日に、イギリス・リーズで開催された「Muay Thai CLASH 11 in Leeds」で空位のISKAムエタイ世界バンタム級王者決定戦に出場。“ザ・パニッシャー”アンディー・ハゥーソン(イギリス / ISKA同級1位)と対戦するが、5R判定0-2で敗れ、世界王座獲得に失敗した[7]。本人は4R目に右肘でダウンを奪ったと思ったにもかかわらずレフェリーがスリップと判断したことから、海外では判定では勝てないことを改めて認識させられた[8][9]。
4つ目の日本王座獲得[編集]
2009年9月23日に後楽園ホールで開催された「WBCムエタイルール日本統一王座決定戦」に出場。スーパーバンタム級の決勝戦(3分5R)で前田浩喜(NJKFバンタム級王者)と対戦。2Rに肘打ちでダウンを奪うと、前田の額から出血があったためドクターストップにより2:38TKO勝ちし、スーパーバンタム級の初代王者になった[10]。
WBCムエタイインターナショナル・スーパーバンタム級王座獲得[編集]
WBCムエタイインターナショナル・スーパーバンタム級王座初防衛[編集]
2010年9月26日に後楽園ホールで開催されたWBCムエタイ・インターナショナル・スーパーバンタム級タイトルマッチでWBCムエタイ中国王者リー・ニングと対戦し、3Rに左フックでダウンを奪われるがその後盛り返し4RにTKO勝ちを収め初防衛に成功した[11]。
2011年8月14日に「M1 ムエタイ・グランド・チャンピオンシップ」のMTAA世界タイトルマッチで元ルンピニースタジアム・バンタム級王者ルンラウィー・サシプラパーと対戦し、1Rから圧倒され計4回のダウンを奪われTKO負けを喫した。
敵地タイ国にてWBCムエタイスーパーバンタム級世界王座決定戦に出場[編集]
ラジャダムナンスタジアムにランキング入り[編集]
2012年6月24日にNJKF興行の「KICK TO THE FUTURE 4」で行われたラジャダムナンスタジアム・ランキング査定試合で、元ラジャダムナンスタジアム認定スーパーフライ級10位のフォンベート・チューワッタナに判定勝ちし、ラジャダムナンスタジアムのスーパーバンタム級9位にランキングされた。[12]。
2012年11月4日にNJKF興行の「KICK TO THE FUTURE 8」で行われたラジャダムナンスタジアム・スーパーバンタム級ランキング戦で、ラジャダムナンスタジアム認定スーパーバンタム級10位のエーカデット・モークルンテープトンブリーに判定勝ちし、8月にタイの試合で敗れランク外にあったが、再びラジャダムナンのスーパーバンタム級9位にランキングされた。また会場に訪れていたタイのプロモーターのアンモー氏は王座挑戦を確約した。[13][14]
ラジャダムナンスタジアム認定スーパーバンタム級王座に挑戦[編集]
ISAK世界ムエタイ フェザー級暫定王者に認定[編集]
ISAK世界ムエタイ フェザー級正規王者に認定[編集]
のちに正規王者だったアルバート・チァイ(フランス)選手が引退宣言。それとともに王座返上を申し出たため、国崇がISKA世界ムエタイ フェザー級正規王者に認定された。
ルンピニースタジアムにランキング入り[編集]
ルンピニースタジアム スーパーバンタム級10位にランクイン。
ルンピニースタジアム スーパーバンタム級6位にランクアップ[編集]
ルンピニースタジアム認定スーパーバンタム級王座に挑戦[編集]
WBCムエタイインターナショナル・スーパーバンタム級王座2度目の防衛成功[編集]
ISKAムエタイ世界フェザー級王座初防衛に成功[編集]
ISKAムエタイ世界フェザー級王座2度目の防衛成功、WKA王座獲得[編集]
この大会でISKAの殿堂入りすることが発表された。
日本人初のISKA殿堂入り[編集]
ISKAの殿堂入りを認定されたのはジョルジオ・ペトロシアンに次いで2人目で、もちろん日本人では初。
戦績[編集]
キックボクシング 戦績 | ||||||
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98 試合 | (T)KO | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 | |
55 勝 | 36 | 3 | 0 | |||
40 敗 |
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日
獲得タイトル[編集]
受賞歴[編集]
脚注[編集]
関連項目[編集]外部リンク[編集]
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