国家 (対話篇)

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国家』(こっか、古希: Πολιτείαポリテイア: The Republic)は、古代ギリシア哲学者プラトンの中期対話篇であり、主著の1つ。副題は「正義[1]について」。『国家篇』とも。

なお、ギリシア語原典は長らくジョン・バーネットの校本がOxfordから出版されていたが、現在ではS. R. Slingsが校訂した校本が出版されている。

概要[編集]

『国家』は全10巻で構成され、プラトン中期の作品と考えられている。その内容は、ソクラテスがアテナイにおけるケパロスの家で行った議論を記録する対話篇の形式で、元々はプラトンの創立した哲学と数学のための学院、アカデメイアの講義の傍ら、学生がこれを読んで勉学の一助とするために執筆されたものと伝えられる。ただしプラトンが執筆した講義ノートの類は残っておらず、それが実際にはどういうものであったのかは不明である。彼の弟子アリストテレスの場合は講義ノートのみが現存し、彼も学生向けに戯曲の形の読み物を書いたというが、それは散逸した事で今日に伝承されていない。

本書は他の対話篇と較べ際立って長く、「に思慮し、善く生きる」というソクラテスの思想を、プラトン中期思想に特徴的なイデアを中核に、古代ギリシアにおいて支配的な考えであった小宇宙即ち人間と、大宇宙即ち国家との対比を用い、個人だけでなく国家体制そのものにまで貫徹させようという壮大かつ創造性豊かな哲学大系が提示される。そのため、プラトンの政治哲学神学存在論認識論を代表する著作とされ、古代西洋哲学史において最も論議される作品と位置づけできる。ゆえに本書で展開されている理想国家の発想は共産主義や後世のユートピア文学にも多大な影響を与えた。

具体的な内容については、ケパロス: Cephalus)によって提示された正義が何なのかという問題から始まる。ソクラテスはまずトラシュマコスによって主張された、強者の利益としての正義という説を論駁した。しかしグラウコン英語版アデイマントスが正義の存在を否定する立場を代理に主張することでソクラテスに対して正義に対する見解を示すように求めたために、ソクラテスは個人の延長として国家を観察することで応答しようとする。国家を観察するためにソクラテスは理論的に理想国家を構築しており、その仕組みを明らかにした。そして理想国家を実現する条件としてソクラテスは独自のイデア論に基づいて哲人王の必要を主張する。この哲人王にとって不可欠なものとして教育の理念が論じられており、正義が人間を幸福にするものと考える。

構成[編集]

登場人物[編集]

時代・場面設定[編集]

紀元前430年-紀元前421年[2]アテナイの外港ペイライエウスにて。

ペイライエウスの居留民トラキア人たちによる、月神ベンディス英語版の祝祭がはじめて催されるということで、参拝・見物に来たソクラテスとグラウコン。終わってアテナイに帰ろうとすると、ポレマルコス、アデイマントスらに呼び止められ、ポレマルコスの家へ。

ソクラテスは、家長のケパロスに挨拶し、「老い」や「富 (財産)」についての会話を交わす。そして、その過程で出てきた「正しさ (正義)」を巡り、ポレマルコス、トラシュマコスを巻き込んだ問答が展開されていく。

第2巻以降は、プラトンの兄たちであるグラウコン、アデイマントスがソクラテスの相手をし、表題通りの国家論、また様々な思想が披露されていく。

特徴・補足[編集]

本篇は、全10巻から成る大長編であり、全12巻から成る最後の対話篇『法律』と並んで、プラトンの著作中では群を抜く圧倒的な文量を誇る。

第1巻は、これだけを単独で抜き出しても成立する完結した内容となっており、「正義」を題材とした、初期対話篇のようなアポリア的対話篇となっている。第2巻以降は、それに付け加えられた「長い延長戦」であり、ソクラテスがプラトンの兄たちであるグラウコン、アデイマントスを相手に、特定し損ねた「正義」を探求しつつ「国家論」を展開していく。

また、『カルミデス』や『リュシス』と同じく、かつての対話をソクラテスが読者に語るという体裁を採っており、純粋な対話篇(ダイアローグ)と異なり、解説(ナレーション)が交じる。『饗宴』や『パイドン』のように、対話者が回想するという形ではない。

巻別[編集]

『国家』の全10巻は、大別して以下の5部に分かれる。

  • 第1巻 - 導入(正義について)
    • ケパロスとの対話 - 雑談から論題「正義」の導出
    • ポレマルコスとの対話 - 詩人シモニデスの「正義」の検討
    • トラシュマコスとの対話 - 強者論理としての「正義」の検討、「不正」の有利の検討
  • 第2巻-第4巻 - 国家の考察
  • 第5巻-第7巻 - 理想国家の考察
    • 3つのパラドックス
      • 男女両性における同一の職務・教育
      • 妻女・子供の共有と戦争
      • 哲学者の国家統治
    • 「哲学者」と「哲学」
      • 「哲学者」とは
      • 「哲学者」の自然的素質と国家統治
      • 哲学無用論と偽哲学者
      • 哲人王」の実現可能性
    • 「哲人王」の教育
  • 第8巻-第9巻 - 不完全国家の考察
    • 「優秀者支配制」(アリストクラティア[5])から、「名誉支配制」(ティモクラティア)への変動
    • 「名誉支配制国家」(ティモクラティア)と「名誉支配制的人間」
    • 寡頭制国家」(オリガルキア)と「寡頭制的人間」
    • 民主制国家」(デモクラティア)と「民主制的人間」
    • 僭主独裁制国家」(テュランニス)と「僭主独裁制的人間」
    • 「幸福」と「正しい生」「不幸な生」
      • 僭主(独裁者)の生は最も不幸、優秀者支配制的人間(哲学者)は最も幸福
        • 国制と個人の対応からの証明
        • 「魂の三区分」からの証明
        • 「真実の快楽」と「虚偽の快楽」からの証明
      • 「不正=利益」は誤り、「正義」こそが真の利益
  • 第10巻 - 詩に対する批判、「正義」の報酬
    • 詩歌・演劇の本質
      • 模倣描写」(ミーメーシス)としての詩作 --- 「真実」(イデア)からの遠ざかり、知識の欠如
      • 詩(創作)の感情的効果 --- 魂の劣った部分への働きかけ、性格への有害な影響
    • 「正義」の報酬
      • 魂の不死と本来の姿
      • 現世における「正義」の報酬
      • 死後における「正義」の報酬、エルの物語

導入である第1巻では、ケパロス、ポレマルコス、トラシュマコス等が次々と入れ替わって対話相手となるが、第1巻の末尾から第2巻以降は、最後の第10巻に至るまで、プラトンの兄たちであるグラウコンとアデイマントスのみが対話相手となる。

2人の内では、グラウコンがメインの対話者であり、アデイマントスが受け持つのは、第2巻の大部分、第3巻の前半、第4巻の前半、第6巻の大部分、第8巻初頭から第9巻初頭など。

内容[編集]

この著作で最初に問題とされる正義について各人に相応しいものを返し与えること、もしくは強者や支配者の利益という定義が検討される。しかし両者とも検討の結果として正義を定義することには不適切であると考えられた。そこで個人の正義を明らかにするための方法論として国家を取り上げる。つまり個人の正義のモデルとして国家の正義を検討することで、個人の正義がどのようなものであるべきかを考えるのである。

ここから国家の成り立ちについて理論的な考察がなされる。そして統治者(守護者)の魂のあり方が極めて重要であり、その教育訓練について検討しなければならないことが分かった。そして理想国家においては統治者の魂のあり方と政治体制、正しい政治体制を実現するために、必要な最高のイデアについての説を通じて論じられる。

第3巻からは、理想国家における教育が論じられ、正しい知識と単なる思いなし(ドクサ)が区別される。後者には模倣が含まれ、詩や絵画は模倣の一種であり、正しい知識ではないとされる。また守護者の育成には、神や国家に対する尊敬を損なうような神々についての説話(ホメロスにおけるヘーラーの嫉妬とゼウスの浮気などが想定されている)は教えるべきではないとされる。そこから詩人追放論と呼ばれる、教育から詩の学習を排除する構想が主張される。この思想は最後にもう一度繰り返される。

魂は三つの部分からなり、正しい魂のあり方とは三部分すべてが知識をつかさどる部分のもとに調和する状態であるとされる(魂の三部分説)。三部分のどこが優越するかによって、魂の状態、すなわち人間がどのような性質になるかが決定され、これはそのまま民主制などの国家体制に対応されるものとされる。プラトンは最適者、気概に富む者、民衆の三種類を想定し、そのどれが社会において上位を占めるかに応じ、哲人王制、最適者支配制、富者による寡頭制民主制僭主制の5つの国家体制を描き、どのようにそのような体制の交代がありえるかを描写する。彼は哲人王制を最良の政体とし、この順に劣るものとし、最低のものが僭主制であるとした。ここにはプラトンの経験したアテナイの民主制とシュラクサイの僭主制からの知見が投影されている。

プラトンの構想では、国家の守護者のうち、優秀な者を選んで哲学や哲学者になるための基礎分野の学習をさせ、老年に達した者に国政の運営を任せる。これが哲人王の思想であり、そのためにはイデア、ひいては善のイデアの直接な観想が必要であるとされる(そして善のイデアを見ることが哲学の究極目的であるとされる)。ここでイデアの観想は線分の比喩洞窟の比喩、を用いて語られる。哲学によって、人は感覚的世界から真実在であるイデアの世界を知る(線分の比喩)。またイデアの直接的観想によってのみ、イデアの世界と現実の感覚的世界の間の隔たりと哲学する者の真実在へのあこがれ、また現実世界へのイデア的知識の適応は可能にされる(洞窟の比喩)。

現実からの類推に始まるイデアの学習がなぜ可能になるのか、プラトンは論証によっては答えを与えず、それらしい物語(ミュートス)によって、すべての人は魂の輪廻において出生前にイデアを見る機会とこの世界での生き方の選択の機会を与えられていることを語る(エルの物語)。対話篇『国家』は、このエルの物語によって結ばれる。

第1巻[編集]

導入[編集]

グラウコンと共に、ペイライエウスの居留民トラキア人達による月神ベンディス英語版の祝祭を見学に来たソクラテス。見終わって帰ろうとすると、ポレマルコスとアデイマントスに出くわし、夕・夜にも催しがあるとのことで、それまでポレマルコスの家に滞在することになる。

「老い」と「財産」[編集]

ソクラテスは、家長のケパロスに挨拶し、「老い」について尋ねる。

ケパロスは、他の老人たちは自らの境遇を悲嘆するが、自分は若い頃の様々な情念・欲望から解放されて平和・自由を得れたし、「端正で自足することを知る人間」であれば、それほど苦にならないと答える。

ソクラテスは、それはケパロスが財産家だからなのではないかと指摘すると、ケパロスはそれを半ば認めつつ、「財産」は自足の条件の1つに過ぎず、「人格」を兼備する重要性も説く。

ソクラテスは、ケパロスが「財産」があって良かったと最も思うことは何か問う。ケパロスは、冥府での裁きに備えて、「正しく敬虔に生涯を送る」(欺いたり嘘を言わない、神への供物を欠かさない、借りた金銭を返す) のに、役立つ点だと答える。

「正しさ (正義)」[編集]

「正直/預かりの返済」[編集]

ソクラテスは、「正しさ (正義)」というものが、常に無条件に、そういった「正直であること/預かったものを返すこと」であると言えるのか問う。例えば、「武器を預かっていた友人が狂人になってしまった場合に、彼に武器を返すこと」は、「正しさ (正義)」とは言えないのではないかと。ケパロスも同意する。

(ここでポレマルコスが議論に割り込み、ケパロスは議論を譲って、神への供物の仕度のために席を立つ。)

「友に善(利)、敵に悪(害)を与えること」[編集]

ポレマルコスは、詩人シモニデスの言葉を引用しつつ、「正しさ (正義)」とは、「各人にふさわしいものを返し与えること」であり、つまりは「友に対して善を為し、敵に対して悪を為すこと」だと主張する。

ソクラテスは、「正義」の能力/技術を、他の様々な技術と比較しながら絞り込んでいき、「正義」とは「平和時の契約(協働)、特に金銭の保管」に関して有用な能力/技術であり、また「盗む能力/技術」と「守る能力/技術」は表裏一体なのだから、「正義」とは一種の「盗み(盗人)の能力/技術」だと指摘する。ポレマルコスは反発/否定する。

ポレマルコスは改めて、「正義」とは「友を利して、敵を害すること」だと主張する。ソクラテスが、「友/敵」とは、各人に「善い人間/悪い人間」であると「思われている者」なのか、「実際にそうである者」なのか問う。

ポレマルコスが「思われている者」の方だと答えると、ソクラテスは、それだと判断を誤り、「善い人間」を「悪い人間(敵)」として害したり、「悪い人間」を「善い人間(友)」として利したりと、正反対になってしまうこともあり得ると指摘する。

そこでポレマルコスが「実際にそうである者」へと主張を変更すると、ソクラテスは、たとえ「悪い人間(敵)」であったとしても、「人間を害して、より劣悪にしてしまうこと」は、徳(善さ)の1つである「正義」にはふさわしくないと指摘する。ポレマルコスも同意する。

(ここでトラシュマコスが議論に割り込み、ソクラテスを「質問ばかりして、自らは答えず空とぼけばかりする」とその姿勢を非難しつつ、自分は「正義」についてもっと優れた答えを提示できると述べる。)

「強い者 (支配者) の利益」[編集]
「判断の誤り」と「厳密論」[編集]

トラシュマコスは、「正義」とは「強い者の利益」だと主張する。諸々の国家では、僭主制であれ、貴族制であれ、民主制であれ、「支配者の利益」に合わせて法律が制定され、「正しいこと」とされていると。

ソクラテスは、支配者たちが判断を誤り、自分たちの「不利益」になることを命じてしまうことも、あり得ると指摘する。

そこでトラシュマコスは、各専門家・知者の場合と同様に、「その呼び名にふさわしい振る舞いをした場合のみ、その呼び名の者とみなす」という「厳密論」を導入し、「支配者」とは「自分にとって「最善の事柄」を法として課す者」のことなので、それにふさわしい者である限りは、自分に「不利益」なことはしないと主張する。

「技術」と「対象の利益」[編集]

ソクラテスは、「医者」「船長」「馬丁」などを例に、「支配 (世話)-被支配 (被世話)」の関係を持つ「支配者の知識/技術」というものは、「対象 (被支配者) を善くすること」「対象 (被支配者) の利益」のために存在しているのであり、(厳密な意味での)「支配者」とは、「被支配者の利益」のために考察・命令する者であると指摘する。

「不正」の優位/有利[編集]

トラシュマコスは、「羊飼い」「牛飼い」を例に、「支配者」が「被支配者のためになること」を考えて行うのは、あくまでも「自分自身の利益のためだということ、そして、「正しいこと (正義)」も「その「支配者の利益のために、被支配者に対して課されるもの」であり、被支配者にとってそれは「自分よりも強い者 (支配者) の利益」「他人にとって善いこと」でしかないこと、逆に「不正なこと (不正)」は、そうしたお人好しの「正しい人々」を支配する力となり、支配者にとっての「自分自身の利益」となることを主張する。そして、「不正な人間」が常に「正しい人間」よりも「大きな利益」を得ることを、様々な事例を挙げて説明し、その最たるものが「国全体を簒奪/国民全体から収奪」して国内外から「幸せな人/祝福された人」と呼ばれる「独裁僭主」であると指摘する。

「各技術固有の利益」と「報酬獲得の技術」[編集]

ソクラテスは、「羊飼い」の話には「羊の世話」と「売って儲ける」という異なる技術の話が混在しており、「純粋/厳密な話」ではなくなっていることを指摘しつつ、各々の「技術」には、それがもたらす「固有の利益」があり、それらと (技術者自身が「自分の利益/報酬」を得るための)「報酬獲得の技術」は別ものであり、(先に述べた通り)「技術」や「支配」それ自体は、「支配者自身の利益」ではなく、「被支配者の利益」のためのものであること、そしてそうであるが故に、一般的には自発的に「支配者」の地位につく者などおらず、金銭・名誉などの「報酬」が、別に与えられることで初めて人は「支配者」の地位につくのだと指摘する。更に、金銭・名誉などでは説得されない「優れた人々」を「支配者」にするには、強制・罰など (広義の「報酬」) が必要になるが、中でも最大の罰は、「自分が支配することを拒んだ場合、自分より劣った者に支配されることになる」ことだと指摘する。

こうしてソクラテスは、トラシュマコスの「正義とは強者の利益だ」とする主張に関しては、否定する形で一応の決着を付けるが、他方で議論の途中でトラシュマコスが提示した「不正な人間の生活は、正しい人間の生活に勝る」という意見はもっと重大で看過できないと、その点に関しての議論を継続する。

「正/不正」と「徳/悪徳」(「知識」と「節度」)[編集]

ソクラテスが、「正義」「不正」のどちらが「徳」「悪徳」なのか尋ねたのに対して、トラシュマコスは、「正義」は「気高い人の良さ」(エウエーテイア, εὐήθεια)、「不正」は「計らい上手」(エウブーリア, εὐβουλία) だと揶揄しつつ、「不正」が「徳 (優秀性)/知恵」の側で、「正義」が「悪徳 (劣悪性)/無知」の側だと答え、(『ゴルギアス』のポロスのように)「不正」を「醜いもの」と見做すことすら拒絶する。

  • 「不正」 - 「計らい上手」 - 「徳 (優秀性)/知恵」
  • 「正義」 - 「気高い人の良さ」 - 「悪徳 (劣悪性)/無知」

そこでソクラテスは、

  • 正しい人」や「知識 (知恵) のある人」は、自分に相似た人 (「正しい人」「知識 (知恵) のある人」) に対しては分を守り相似ない人 (「不正な人」「無知な人」) に対してのみ相手をしのごうとする点で共通している。
  • 不正な人」や「無知な人」は、相手が誰であれ、常に分を越えてしのごうとする点で共通している。

といったことを指摘しつつ、「正義」が「徳 (優秀性)/知恵」の側で、「不正」が「悪徳 (劣悪性)/無知」の側であることを、論証する。トラシュマコスも、しぶしぶ同意する。

  • 「正義」 - 「徳 (優秀性)/知恵」
  • 「不正」 - 「悪徳 (劣悪性)/無知」
「正/不正」と「協調/不和」[編集]

続いてソクラテスは、国家・軍隊といった集団・組織であれ、個人であれ、「正義」はそれらの「内部」に協調・友愛を作り出し、「不正」は不和・憎しみ・戦いを作り出すこと、また、「正しい者」には「神々」も含まれるので、「正しい人」は「神々に愛される者」にもなるし、逆に「不正な人」は「神々に対しても敵」になると指摘しつつ、これまでの話をまとめ、

  • 正しい人々」は、知恵でも、徳性でも、実行力においても、「不正な人々」に優っているし、逆に「不正な人々」は、共同して行動を起こすことすらできない (何も成し遂げられない)

と主張する。

(なお、「かつて何事かを共同して成し遂げた」とされる「不正な人々」は、「正義」と「不正」を併せ持った人々であり、共同できる程度には「正義」がありながら、内部に併せ持っていた「不正」に促されて、悪事へと向かうことになったと説明される。)

「正/不正」と「幸/不幸」(「魂」の「機能」)[編集]

更にソクラテスは、「目」にとっての「見る」、「耳」にとっての「聞く」、「刈り込み用の鎌」にとっての「葡萄の蔓の刈り取り」のように、それぞれの事物には、「それが唯一もしくは最善に果たし得る、(徳(優秀)-悪徳(劣悪)の差異がある) 仕事/働き/機能」があり、「」の場合にはそれが「配慮/支配/思案/生きる」などであること、また先の合意事項から、「正義」とは「魂」の「徳 (優秀性)」であり、「不正」とは「魂」の「悪徳 (劣悪性)」なので、

  • 正しい魂/正しい人間」は「善く生き」、「幸福」であるのに対して、「不正な魂/不正な人間」は「劣悪に生き」、「みじめ/不幸」である

と指摘する。トラシュマコスも、不貞腐れて皮肉を言いつつも、それに同意する。

(一旦の) 終幕[編集]

こうしてトラシュマコスとの議論は決着が付くが、ソクラテスは、「正義」が「何であるか」を考察するはずが、それが「悪徳/無知か、徳/知恵か」だとか、「不正と正義の優劣」だとかいった脇道の議論に逸れてしまったため、不満の残る結果になってしまったし、「正義」について「何も知っていない」ことが分かっただけであり、結局は「正義それ自体」が分からなければ、何も判然としないままであると述べる。

第2巻-第4巻[編集]

3種の「善いもの」[編集]

グラウコンがソクラテスに、「正義」についての議論の継続を要望する。そして、「善いもの」には、

  1. 「それ自体」のために愛されるもの。 --- 悦び、(無害な)快楽など。
  2. 「それ自体」と「生じる結果」ゆえに愛されるもの。 --- 知恵、見物、健康など。
  3. 「生じる結果」ゆえに愛されるもの。 --- 身体鍛錬、病気治療、金儲け仕事など。

の3種類があり、「正義」は(ソクラテスは2番目のものと答えたが)一般的には3番目のものとして捉えられていると指摘する。ソクラテスも同意する。

そしてグラウコンは、「正義」についての議論を継続していくに当たり、再度「正義」が一般的にどう思われているかを確認しておくことにする。

一般的な「正義観」[編集]

「正義の起源」と「社会契約」[編集]

まずグラウコンは、「正義の起源」として人々によく主張されていることとして、「社会契約」の話を持ち出しながら、

  • 自然本来のあり方から言えば、「人に不正を加えること」は「善 (利)」で、「自分が不正を受けること」は「悪 (害)」である。
  • ただし、「自分が不正を受けて被る悪 (害)」の方が、「人に不正を加えることによって得る善 (利)」よりも、大きい。
  • そこで、「力の無い者達」は、「不正をはたらきながら、罰を受けない」という「最善」と、「不正を受けながら、仕返しできない」という「最悪」の狭間の、「中間的な妥協」として、「不正を加えることも、受けることもない」ように、「互いに契約を結んで、法律を制定」し、その内容を「合法的」「正しいこと (正義)」と、表現するようになった。
  • このように、「正しいこと (正義)」とは、「力の無い者達」によって、「消極的/妥協的に、設定/尊重されているもの」に過ぎない。

といった話を披露する。

「正義の他律性」と「ギュゲスの指輪」[編集]

続いてグラウコンは、「正義」が、「不正をはたらくだけの能力の無い者達」によって、「仕方なく守られているもの」に過ぎないことを、露わにするために主張されていることとして、「思考実験」としての「ギュゲスの指輪」の話を持ち出しながら、

  • 「何でも望むがままのことができる自由」が与えられれば、「正しい人」も、「不正な人」と全く同じように振る舞うようになる。
  • したがって、「自発的/自律的に正しい人間」など存在せず、誰もが「他者の視線/監視」の中で、「強制的/他律的/消極的に、やむを得ず/仕方なく、「正しい (正義)」とされていることを行なっている」に過ぎない。

といった話を披露する。

「正義 (それ自体) の無力さ」と「完全に正しい/不正な人間」[編集]

更にグラウコンは、「正しい人」と「不正な人」のどちらが「幸せ」であるかを、明瞭に判定するには、極端な例で考えるのがいいとして、「完全に正しい人間」と「完全に不正な人間」を対置させ、

  • 「完全に不正な人間」とは、周囲の人間や神々に、自分が「正しい人間」だと「思わせる」ことができ、本来「正しい人間」が得られるはずの、あらゆる評判・利益を、代わりに獲得できる者。
  • 対する「完全に正しい人間」とは、「正しさ (正義)」に付随するあらゆる評判・利益を剥奪され、むしろ不当に「不正な人間」の烙印を押されながらも、「正しい人間」で「ある」ことだけを望む者。
  • そんな両者を比較すると、「完全に正しい人間」は、不当に拷問・磔(はりつけ)されながら、「正しい人間」だと「思われる」ことこそを望むべきだったと、思い知らされることになるし、「完全に不正な人間」は、代わりに全てを手に入れることになる。

といった話を披露しつつ、このように「不正な人間」には、「正しい人間」よりも、神々からも人間からも「より善い生活」がもたらされることになると、主張されていると述べる。

「正義それ自体」と「見せかけの正義」[編集]

そこでアデイマントスが、補足的に、

  • 古来より「正義」を賛美し、「不正」を非難してきた人々 (詩人など) は、(「正義」「不正」自体が何であるかを説明せずに) それがもたらす「評判・報酬」や「罰」といった「付随的なもの」を挙げる形での賛美/非難ばかりをしてきた。
  • 他方で、「正義は美しいが骨が折れる、不正は快いし容易い」「不正が醜いとされるのは、世間の思惑・法習の上でだけのこと」「不正の方が得になる」「神々は、正しい人々に不運/不幸を与えたり、不正な人々に幸運/幸福を与えたりすることもある」「呪術者に報酬を払えば、罪を消し去ることができる」「供物などによって、神々を言いなりにできる」といった、「人々を惑わす言説」も唱えられてきた。
  • こうした「付随的な言説」や「惑わす言説」にばかり晒されていたら、若者たちは、当然の成り行きとして、「正義と思われること」「見せかけの正義」を、志向するようになってしまう。

といった話を述べつつ、こうした事態の「根本原因」は、

  • 「正義それ自体」「不正それ自体」が何であるか、その「力/働き」は何で、そして何ゆえにそれは「善 (利)」「悪 (害)」であるのか

を、誰一人として説明してこれなかったことにあるのであり、ソクラテスには、まさにこれこそを説明してもらいたいと要請する。

「大きな正義」としての「国家全体の正義」[編集]

ソクラテスは、「文字」と同じように、「正義」もまた「大きい」方が把握しやすくなるのではないかと指摘し、まずは「個人の正義」ではなく、「国家全体の正義」を検討することにする。

そして、言論で以て「国家の生成」を観察していけば、その中に「国家の正義/不正の生成」も見ることができるのではないかと指摘し、アデイマントスを相手に、言論上の「国家の構築」を開始する。

「国家」における「役割分担/構成員」[編集]

「最小限国家」と「贅沢国家」[編集]

ソクラテスは、「国家」にはまず「食・住・衣」(「農夫・大工・織物工」) が必要であり、次にそれらの道具を作る「職人」、更に牛飼い・羊飼いなどの「牧人」、貿易のための「貿易商」「海事専門家」、市場における「小売商人」、力仕事のための「肉体労働者」などを挙げる。

加えて、質素・菜食的な「食事」や「寝床」を挙げていったところで、グラウコンがそれは「豚の国/豚の飼料」のようにみすぼらしいと指摘したため、ソクラテスは、それまでの「真実の国家/健康な国家」としての「最小限国家」から、「熱で膨れ上がった国家」としての「贅沢国家」の考察に切り替えることにする。

ソクラテスは、「贅沢国家」としてそこに、「寝椅子」「御馳走/菓子」「香料/香/妓(ぎ/あそびめ)」「絵画/刺繍」「金/象牙」を付け加え、更に「猟師」や、真似(模倣)の仕事・音楽文芸に関わる「詩人/吟誦家/俳優/舞踏家/興行師」たち、さらに「装飾品職人」「乳母/子守/教育係」「着付け侍女/理髪師」「料理人」「肉屋/屠殺屋/豚飼い」など、そして「医者」を付け加える。

「戦争」と「国の守護者」[編集]

更にソクラテスは、そうして「贅沢国家」が、「贅沢のための牧畜・農耕に、充分なだけの土地を確保しようとする」「財貨を無制限に獲得することに、夢中になる」と、「隣国の土地を切り取って、自分のものにする」ことを考えるようになり、「戦争」が発生するのであり、これ (財貨の獲得[6]) こそが、「戦争の起源」であると指摘する。グラウコンも同意する。

そしてソクラテスは、こうして「国家」には、「戦争」のための「戦争の技術」を備えた「軍人/軍隊」も必要になるのであり、そうした「国の守護者」(ピュラクス, φύλαξ) の果たす役割は何よりも重要であり、彼らは、「他の仕事から、完全に解放されている」必要があるし、「最大限の技術・能力」と「任務に適した自然的素質」を必要とすると、指摘する。グラウコンも同意する。

そしてソクラテスは、その「国の守護者」の考察へと移行する。

「国の守護者」[編集]

「国の守護者」の「自然的素質」[編集]

ソクラテスは、「国の守護者」に求められる「自然的素質」として、「鋭敏」「勇気/気概」「身体頑強」などを挙げつつ、加えて「敵に対して厳しく、味方に対して穏やか」「気概と穏健を兼備する者」であるためには、(「味方/知」を愛する) 「犬」「愛知者 (哲学者)」のような素質も、求められると指摘する。グラウコンも同意する。

「国の守護者」の「教育」[編集]

続いてソクラテスは、「国の守護者」の「教育」に話題を移し、「身体のための体育 (ギュムナスティケー)」と「魂のための音楽・文芸 (ムーシケー)」では、後者を先に教えること、そして後者に含まれる「話 (ロゴス)」には、「真実のもの」と「作りごと/偽もの/物語 (ミュートス)」が含まれるが、後者を先に教えることを主張しつつ、更に、その「内容」に関しては、「幼少期の人格形成」にふさわしいもの、すなわち、

  • (ホメロスヘシオドス等のように) 神々を、(家族間も含め)「互いに敵対・憎悪・闘争する」といった、劣悪な姿で描いてはいけない。
  • 神々は、「真に善き者」「善いものの原因」であり、「悪いものの原因」ではない。
  • 神々は、魔法使いのように、「変身」はしないし、「偽りの言動」を為すこともない。
  • ハデスの国(冥府)は、「悪く恐ろしく」表現せず、讃えるように表現しなくてはいけない。
  • 神々/英雄を、「悲嘆/高笑する」ような情緒に振り回される者として描いてはいけない。
  • 「真実」「節制」を尊重し、「偽り」「放縦」は否定されなくてはならない。

といった内容であるべきこと、また、その「叙述形式」に関しても、

  • (初期ディテュランボスのような)「単純/報告的な叙述形式」が望ましく、(悲劇・喜劇のような、登場人物の台詞中心の)「物真似的な叙述形式」や、(叙事詩のような)「両者の混合的な叙述形式」は、望ましくない。

と主張する。アデイマントスも同意する。

更にソクラテスは、「音楽」へと話題を移し、

  • 「歌詞」は、先程の「物語」の規定に準ずること。
  • 「音階」は、(勇気・節度の調子である)「ドリス調/プリュギア調」が望ましく、(柔弱・怠惰な)「イオニア調/リュディア調」や、(悲嘆的な)「混合リュディア調/高音リュディア調」は、望ましくない。
  • 「楽器」も、(多様な転調が可能な多弦琴である)「三角琴/リュディア琴」や「アウロス笛」は望ましくなく、(少弦の)「リュラ琴/キタラ琴」や (牧人用には)「牧笛」が望ましい。
  • 「拍子/韻律」も、「複雑/多種多様なもの」は望ましくないし、「韻律/曲調」に「歌詞」を合わせるのではなく、「歌詞」に「韻律/曲調」を合わせるべき。

といったことを主張し、加えて、

  • 「他の制作物」に関しても同様に、「美」を識別できる徳性を涵養することに、資することのない「劣悪なもの」は禁止すること。
  • パイデラスティア (少年愛)」も、「限度を越えた交わり」を禁止すること。

なども主張する。グラウコンも、同意する。

続いてソクラテスは、「体育」の方へと話題を移すが、幼少から生涯を通じての「身体」に関する細かな事柄は、「魂/知性」を育んだ上でそれに任せればいいとして、「身体/健康管理」に関する「大体の規範」だけを示すことにし、

  • 「酔っ払い」を慎み、「焼いただけの肉」など単純素朴なものだけを食べ、「煮物/香辛料/シュラクサイ風御馳走/シケリア料理/アッティカ菓子」などは避ける。
  • そうして「放埒/病気」を避け、「裁判所/医療所」にかかずらって、己に課せられた仕事ができなくなることを、避けなくてはならない。
    • (医者/裁判官においても、「魂/知識」を修養した者たちが医者/裁判官となり、「身体/魂」両面において「見込みのある者」だけを助けて、「そうでない者」は見捨てるようにしなくてはならない。)
  • 「体育」と「音楽・文芸」をうまく「混合」し、「気概/勇気」と「節度/知性」の両面を養いつつ、「調和」させなくてはならない。

といったことを主張する。グラウコンも、同意する。

「国の守護者」の「条件」[編集]

「国家」の「知恵/勇気/節制/正義」[編集]

「魂の三区分」[編集]

「個人」の「知恵/勇気/節制/正義」[編集]

第5巻-第7巻[編集]

第8巻-第9巻[編集]

第10巻[編集]

訳書[編集]

  • 『プラトンII 国家・エピミノス・書簡集』田中美知太郎編・藤沢令夫他訳、筑摩書房世界古典文学全集15〉、1970年。ISBN 978-448-0203151
  • 『クレイトポン・国家』田中美知太郎・藤沢令夫編・訳、岩波書店〈プラトン全集11〉、1976年。ISBN 978-400-0904216
  • 『国家 (上・下)』藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉、初版1979年、改版2009年。ISBN 978-400-3360170ISBN 978-400-3360187。ワイド版2002年
抄訳版 
  • 『プラトン II 世界の名著7』(田中美知太郎責任編集、中央公論社、初版1969年)- 訳文は一部抄訳。解説は『田中美知太郎全集 19』(筑摩書房)にも収録。

脚注[編集]

  1. ^ ギリシア語の「ディカイオシュネー」(: δικαιοσύνη、dikaiosyne)の訳。
  2. ^ a b 『国家 下』 藤沢令夫 岩波文庫 pp447-455
  3. ^ 饗宴』『パイドロス』に登場するパイドロスが心酔している人物でもある。
  4. ^ エウテュデモス』に登場する争論家とは別人。
  5. ^ 一般的には「貴族制」を意味するが、プラトンは語義通り「優秀者による支配」の意味で用いている。
  6. ^ 直前に書かれた対話篇『パイドン』においても、「全ての戦争は「財貨の獲得」のために生じる」(66C)と述べられている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]