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国博士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国博士(くにはかせ/くにのはかせ/くにはくし)は、

  1. 大化の改新の際に僧高向玄理が任じられた臨時職と思われる官名。官制整備の中枢となった。
  2. 律令制下に設けられた国学の教官。国ごとに1名ずつ任命され、教授課試・外国使節の応援などにあたった。

概要

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大化の改新期の国博士

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日本書紀』によると、皇極天皇4年6月(645年)、蘇我本宗家の滅亡後、孝徳天皇践祚・中大兄皇子任皇太子の日に沙門(のりのし)法師と高向史玄理が任命された官職で[1]、左右大臣・内臣とともに設置されている。2名は遣唐使として入唐し、大陸で学んでいる。から輸入した新制度・政策を立案し、推進する目的で設置され、政治顧問として国政全般の諮問に応える職であったと推定される。

臨時的な職とみられ、大化5年2月(649年)には、

博士(はかせ)高向玄理(たかむくのぐゑんり)と釈僧(ほふしそう)(みん)とに詔して,八省(やつのすぶるつかさ)百官(もものつかさ)を置かしむ

とあり[2]、これを最後に,この官名は史書には現れなくなっている。

律令制下の国博士

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律令制で諸国に1名ずつ置かれ、教師として、国司の監督の下で国学の学生(がくしょう)の教育・指導や課試を担当した。外国使臣の応接にもあたり、四度使として、任国の行政にも参画したという。

選叙令によると、式部省の判定による現地採用を原則とし、場合によっては傍の国(隣国)からの採用もやむを得ないとしたが、『続日本紀』によると、大宝3年(703年)には、従来(温故知新)の例からして国博士の任に適する人材はまれであり、傍の国にも該当者が存在しない場合は、省に申告し、(太政官の)処分を経た上で中央から任命することになった[3]。これにより、国博士の現地採用は有名無実化し、中央の大学寮の学生などから任命することが一般化した。

具体的に述べると、和銅元年4月(708年)の制では、「朝」(中央)より補せられた者の「考選」は史生と同じにすると、「土人(くにひと)・傍国(ちかくのくに)」の採用と区別されていたが[4]神亀5年8月(728年)の太政官奏上には、すべて「八考(8年間)を以て成選(じょうせん[5])す」となり、博士1人で三四ヶ国を兼任することが可能になった[6]宝亀10年閏5月(779年)の太政官奏上では学生の食糧持参のことも考えて、再度国ごとに1名とされ、「六考(6年間)成選」に変更されている[7]。また、霊亀2年5月(716年)の制には、大学寮の学生で、修養不足なものについては、国博士に任命してはならぬ、としている[8]

待遇は諸国の史生に準じ[9]、当国から選ばれる場合は徭役が,隣国から派遣される場合は課役のすべてが免除され、職分田6段・事力公廨稲が支給されていた。

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』巻第二十五、孝徳天皇元年6月14日条
  2. ^ 『日本書紀』巻第二十五、孝徳天皇 大化5年2月是月条
  3. ^ 『続日本紀』巻第二、文武天皇 大宝3年3月16日条
  4. ^ 『続日本紀』巻第四、元明天皇 和銅元年4月11日条
  5. ^ 官吏が勤務評定を受けた結果、叙位の資格があると認められること
  6. ^ 『続日本紀』巻第十、聖武天皇 神亀5年8月9日条
  7. ^ 『続日本紀』巻第三十五、光仁天皇 宝亀5年閏5月27日条
  8. ^ 『続日本紀』巻第七、元正天皇 霊亀2年5月22日条
  9. ^ 『続日本紀』巻第二十、孝謙天皇 天平宝字元年10月11日条

参考文献

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関連項目

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