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四神相応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
九龍壁の黄竜(紫禁城
頤和園にある麒麟像
台湾、艋舺龍山寺の鳳凰
白虎(高松塚古墳の壁画)
亀に蛇が巻き付いた形で描かれる玄武(南京明文化村

四神相応しじんそうおうは、東アジア中華文明圏において、大地の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢地相のことをいう。四地相応しちそうおうともいう。なお四神の中央に黄竜麒麟を加えたものが「五神」と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、中国朝鮮と日本では大きく異なっている。

中国・朝鮮

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中国や韓国における風水の四神相応は、背後に山、前方に海、湖沼、河川のすいが配置されている背山臨水の地を、左右からと呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいう。この場合の四神は、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。

日本の平安京においても、北の丹波高地を玄武、東の大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、南にあった巨椋池を朱雀とする対応付けが可能で、背山臨水を左右から砂で守るという風水の観点から正しく京都は四神相応の地であった。ただし巨椋池が完全に干拓されてしまったために、現代では平安京は朱雀を失っている。なお平安京大内裏北方にある船岡山は玄武とするには低山に過ぎ、現代中国の風水の観点に立つと、船岡山は玄武を伝ってやってくる山龍が目指す星峰と解釈される。[1]

なお、中国元代に編集された家政全書である『居家必要事類』には『周書秘奥営造宅経』が収められており、そこには宅地の撰地条件として

 一 屋宅舎。欲左有流水。謂之青龍。右有長道。謂之白虎。前有洿池。謂之朱雀。後有丘陵。謂之玄武。為最貴地。(屋宅は舎。左に流水有るを欲す。これを青龍と謂う。右に長道有り。これを白虎と謂う。前に洿池有り。これを朱雀と謂う。後ろに丘陵有り。これを玄武と謂う。最も貴地と為す。)

とある。これは後に述べる「四神=山川道澤」説と同じであり、この説が中国由来であることを明瞭に示す。なお、ここに朱雀を「洿池」即ち「溜め池」とすることは宅地からの水溜めを示していて、これらが住宅の敷地の撰地に限定していることに留意すべきである。さらに敦煌文書『司馬頭陀地脈訣』の中に

 凡居宅、左青龍、東有南流水。是左青龍。右白虎、西大道。是右白虎。前朱雀、南有洿池。是前朱雀。後玄武、北有大丘陵。是玄武。(およそ居宅、左青龍、東に南流する水あり。これ左青龍なり。右白虎は西に大道あり。これ右白虎なり。前朱雀は南に洿池あり。これ前朱雀なり。後玄武は北に大丘陵あり。これ玄武なり。)

とある。この文書は出自から唐の頃のものと考えられる[2]。これらは『周書秘奥営造宅経』と同じく住宅に関する四神である。

日本

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平安京復元模型(京都市平安京創生館で撮影)
平安京を再現した神社『平安神宮』、四神相応の理論のもとに建つ(京都市左京区)

現代の日本では、東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武が四神(四禽)として考えられ、次表のように四神を「山川道澤」にそれぞれ、青龍を川、白虎を道、朱雀を池(沢)、玄武を山と対応させる解釈が一般に流布している。

方位 四神 地勢 季節
青龍 川/流水
西 白虎 道/大道
朱雀 沢/湖沼
玄武 山/丘陵

この解釈が一般的となったのは、古く平城京・平安京は四神相応の都とされ、また、平安時代から江戸時代にかけての書物に、平安京をモデルとして四神のこと[3]や山川道澤のこと[4]が見え、さらには具体的地名に充てる説[5]が示されることによる。 これにより、近年、山川道澤説に従って具体的に地理的に比定する試みが近年盛んになっている。

四神(四禽)については、中国の天文学により、天空の四方に見える主な28の星を 二十八宿と名づけ、その星をつないだ形について、東が龍、南が鳥、西が虎、北が亀に見えるというところから起こった[6]。 四神思想は中国からもたらされたものであるが、四神に地形を相応させる思想は日本特有のもので、中国には見られないという説もある[7]

平安京

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平安京については、東・青龍を鴨川に、西・白虎を山陰道、南・朱雀を巨椋池、北・玄武を船岡山に、それぞれ充てる説が昭和50年ごろから村井康彦らにより広められ[8]、現在ではこれが定説になった感がある[9]

これに対して足利健亮は、西白虎・大道を平安京西辺に沿って設けられたとする「木島大路(木嶋大路)」[10]、南朱雀・沢畔は下鳥羽付近の遊水池、あるいは横大路付近にある土地(字朱雀)[11]との説を提唱した[12]。別に、目崎茂和は、青龍=鴨川、白虎=双ヶ丘もしくは西山、山陰道、朱雀=巨椋池、玄武=船岡山・北山という説を述べた上で、「都を守る風水の目はいくつもあっていいし、多様に考えてみて」と話しており[13]、複数の四神と思しきポイントが学者や風水研究家から提出されている。

一方、四神を山川道澤に当てはめる説に対しては、異論も唱えられている。黄永融は、風水説である「天心十道」が当てはまると考えており、平安京は、船岡山・大文字山・西山・甘南備山(在 京田辺市)を四神として、その交差点に大極殿を建てたという説を立てた[14][15]が、中国哲学研究者で風水・易学についても著作のある三浦国雄はこの説に否定的な見解を述べている[16]。平安京の「四神=山川道澤」説に対する批判として、歴史考古学研究者である加藤繁生は、平安京四神相応説に疑問を呈しつつ、仮にそうであってもそれが山川道澤であったはずはなく中国起源の都市風水に則り「三閉南開」といえる地形であったとし、「三閉」を京都盆地の東、北、西の三方を囲む山(東山・北山・西山)ではないかとしている[8]

また、四神相応によって京都が建都されたという思想は、福原遷都の際に遷都批判の理由付けとして成立したものとの指摘[17]や、平安京における四神と山川道澤との対応の典拠は建都から時代を下った平安後期成立の『作庭記』であり、また、『作庭記』は寝殿造を念頭においた理想の庭園作りの作法[18]を解説するものという性格上、平安京についての言及はなく、ましてや平安京のどこが山川道澤のどれと対応しているかといった具体的地名などが記されているわけではないことが指摘される[8]。 『作庭記』の「四神=山川道澤」による「宅地風水」とは別物である「都市風水」により平安京選地がなされただろうという説に立てば、平安京の四神が「山川道澤」を表象し、それぞれに具体的地形を当て嵌めていたという考え方は、当然相容れないことになる。

一方、『作庭記』よりも古い、1058年頃の成立といわれる『雲州消息』に、四神を山川道澤に対応させる考えが記されており四神相応思想は平安中期には成立していたとの指摘や[19]、また、天長5年(828年)の日付がある空海の「綜芸種智院式」に、綜芸種智院の立地について「兌白虎大道。離朱雀小澤。」との記載があることなどから、四神を山川道澤を対応させる考え方そのものは平安建都前後には成立していたとする見方もある[20]

そもそも平安京について、選地の際に僧を伴っているから風水も選地理由のひとつであった可能性はあるものの、四神相応の地として選地されたことは、『日本紀略』に示される平安遷都の詔[21]において「云々」と略された部分に記されたかもしれないが、史書には現れない。 だが、古墳時代後期の高松塚古墳キトラ古墳には四神図、星宿図があり、平安京に先立つ平城京では、その建都にあたっての詔勅[22]に「四禽図に叶い」と四神相応の地であると考えられていた。

平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらない[23]が、このような現在考えられる平安京での四神と山川道澤との対応とは場所によって異なる対応の「四神相応」が、平泉の毛越寺の古鐘銘の例[24]など[25]にみられるように、平安京建都や『作庭記』の成立以降の鎌倉時代においても存在したことを示している[20]

このように日本における四神相応の解釈は古代から近世にかけて独自に変化し、現在のものとなったと考えられる。

平安京以外の都市

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鎌倉時代の『吾妻鏡』嘉禄元年十月廿日丁未条によれば、朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と、奈良興福寺の僧で法印であった珍誉との間で鎌倉幕府の御所の移転先をめぐって論争があったが、珍誉は『作庭記』にある山川道澤の四神相応を採用して『若宮大路』を四神相応の地として推している。北条泰時の鎌倉幕府は珍誉の説を採用して嘉禄元年(1225年)に御所を若宮大路に移転させた。珍誉の言は以下のように記録されている。

若宮大路者、可謂四神相応勝地也。西者大道南行、東有河、北有鶴岳、南湛海水、可准池沼云々。

(大意)若宮大路は四神相応の勝地というべきである。西は大道が南行し、東に河有り、北に鶴岳有り、南に海水を湛えており、池沼に准ずべきである云々。

このように朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と珍誉との間で論争があったということは、朝廷の陰陽寮では山川道澤の四神相応は採用されていなかったことを示唆している[26]

近世の城について、江戸城は菊池弥門の『柳営秘鑑』によれば、「風此江戸城、天下の城の格に叶ひ、其土地は四神相応に相叶ゑり」と記される一方、地形をもって「四神=山川道澤」説に合致しているとは言い難く[27]姫路城福山城[28]熊本城などを「山川道澤」の四神相応とするもの同様に後世に創られた解釈である。

名古屋城については、『金城温古録』では「四神相応の要地の城」とされ、四神相応の考え方が城地選定の一つの要因として考慮されていたと考えられるが、四神相応は山川道澤とは明らかに異なっている[29]。このことは、少なくともこの時期には、四神相応が単に好い土地であることの言い換えに過ぎなかった可能性を示す。

また古代中国の風水では特定の方位について固定した吉凶をとる考えはなく、鬼門・裏鬼門を忌むのは日本独自の考え方である。その点で、大宰府の鬼門を護るために大宰府建設時に竈門神社が創建されたという『竈門山旧記』の記述から「鬼門」という概念の出現する前提としての「風水」が大宰府の都市計画(北の大野山(大城山)を玄武、東の御笠川を青龍、西の西海道を白虎、南の田園及び二日市温泉を朱雀とする)が立てられた時に存在したという主張は確かなものではない。


現代に残る四神相応の例

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ちらし寿司
  • 大相撲 - 土俵上にある4つの色分けされた房は元来方屋の屋根を支えた4柱の名残であり四神を表している。
  • ちらし寿司 - 四色の具材で四神または四季、五色(五行)の具材で宇宙を表現しているといわれる。

脚注

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  1. ^ 高藤 聡一郎『仙道風水術 尋竜の法』ISBN 4054003974
    本書の平安京の風水についての解説は、1994年6月5日にNHK総合で放送された『よみがえる平安京』のダイジェストとなっている。
  2. ^ この文書の末尾には「謹議三教不斉論 劉晏述」とあり、あるいはこれが空海が我が国に齎した「三教不斉論」と同じものではないかと考えられている(牧田諦亮『劉晏の三教不斉論について』1961)。劉晏(715〜780)は唐の政治家で、安録山の乱以降の唐の財政を立て直した人物。
  3. ^ 平安京四神相応説は鎌倉時代成立の『平家物語』が初出。そこには「此の地の体を見候うに、左青龍・右白虎・前朱雀・後玄武、四神相応の地なり。尤も帝都を定むるに足れり」とのみあり、ここに四神を具体的形象に充てる説明はない。加藤 (2016), p. 213
  4. ^ 平安京の四神を山川道澤に結びつける説の初出は正和3年(1314年)の奥書を持つ『聖徳太子平氏伝雑勘文』。この書は延喜17年(917年)成立の『聖徳太子伝歴(聖徳太子平氏伝)』の解説書でそこに山城国葛野の地形を「南開北塞、陽南陰北、河徑其前、東流成順」とあるのを解説して「左青竜は東より水南に流るなり。前朱雀は南に池溝あるなり。右白虎は西に大道あるなり。後ろ玄武は山岳あるなり。之をいう、四神具足の地と」と記す。加藤 (2016), p. 217
  5. ^ 四神を鴨川等具体的地名に宛てる説は、江戸時代の地誌『山城名所寺社物語』(享保元年)で「左青竜は加茂川なり。今の千本通り是右白虎なり」と二神のみ明示するのが最も古い。四神すべてを地名に比定するのは現在のところ昭和24年(1949年)発行の日本古典全書『平家物語』(朝日新聞)の頭注(冨倉徳次郎)に「宇多村の地勢の、東賀茂川、西大通、南鳥羽の田地、北比叡山のあるところから、四神相応の地と言った」とあるのが最も古く、現在の通説「山=船岡山・川=鴨川・道=山陰道・澤=巨椋池」は、1974年の矢野貫一『京都歴史案内』(講談社)に初めて現れる。加藤 (2016), p. 219-220
  6. ^ 江戸時代の「都名所図会」『四神相応の地』の項に「四神といふは、東を蒼龍、西を白虎、南を朱雀、北を玄武となづけて、四方にかくの如きの鬼神の象ありと思ふは非なり。本(もと)天の二十八宿を四ツ割りにして、七星づつを四方に配して、其星の象より起る名なり。‥‥。〔割註〕東涯制度通取意。」とあり、山川道澤説には全く触れない。
  7. ^ 目崎茂和『図説風水学』東京書籍、東京、1998年、170-175頁。 
  8. ^ a b c 加藤 (2016).
  9. ^ 現在では、「西 大道」を奈良期にはここを通っていなかった山陰道に宛てるのには異論があり、また「北 高山」を船岡山に充てるのも低山に過ぎ、冬季に冠雪を見せる北山に当てる説がある。また「南 沢畔」を下鳥羽の遊水池(鳥羽離宮の地)とする案がある。巨椋池は遠すぎるため無理があることを論拠としている。加藤 (2016), p. 218
  10. ^ この道(木島大路あるいは木嶋大路)は、史料的にも考古学的にも確認されていない。
  11. ^ 足利健亮の指摘によれば下鳥羽のやや南方の横大路には「朱雀」という小字名が遺る(平安京朱雀大路の南延長線上に当たる)。
  12. ^ 足利健亮「平安京計画と四神の配置」『景観から歴史を読む:地図を解く楽しみ』日本放送出版協会〈NHK人間大学〉、1997年、31-41頁。 
  13. ^ 京都新聞 2006年1月29日掲載の記事「京の風水」”. 2023年1月1日閲覧。
  14. ^ 黄永融『風水都市:歴史都市の空間構成』学芸出版社、1999年、103-104頁。 
  15. ^ (この説の図)
  16. ^ 三浦国雄『風水・中国人のトポス』平凡社ライブラリー、1995年。ISBN 4582761054 
  17. ^ 田中貴子『安倍晴明の一千年』講談社、東京、2003年、82-107頁。 
  18. ^ 『作庭記』における「四神=山川道澤」の対応は『周書秘奥営造宅経』にも同様の記述があり、『作庭記』のこの部分は中国から請来された書物から引用されたと推測される。また、『簠簋内伝』では、四神としての山川道澤がない場合に、特定の種類の樹木を特定の本数植えることで「四神=山川道澤」の代用となることを説いている。
  19. ^ 繁田信一「陰陽師と四神相応の地相」『本郷』第65号、東京:吉川弘文館、18-21頁、2006年9月。 
  20. ^ a b 多ヶ谷 (2007).
  21. ^ 「十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。」(『日本紀略』延暦十三年の条)[1]
  22. ^ 「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しずめ)を作(な)し、亀筮並に従ふ。)」(『日本書紀和銅元年(708年)2月戊寅の詔)「四禽」は四つの動物、すなわち四神のこと。
  23. ^ 「三山鎮を作し」とあるところを見ると平城京の東西と北にある丘陵地を指すと考えられ、四神の内少なくとも三神は丘陵地のことであったとも解せられる一方で、それを四神相応とする以上、別の解釈がとられていたことになる。
  24. ^ 右白虎には道ではなく「有大沢」となっており、前朱雀は沢畔ではなく「有森」であるなど。前川佳代「平泉の苑池 ―都市平泉の多元性―」『平泉文化研究年報』第1号、岩手県教育委員会、盛岡、59-70頁、2001年。 
  25. ^ 平城京は、鎌倉時代後期の『詞林采葉抄』では「その中山を玄武に当て、貴人金爐を朱雀に当て、…」とあり、朱雀に「貴人金鳥」が対応付けられていることがわかる。
  26. ^ 山川道澤の四神相応が8世紀後葉に建設された平安京選地の思想的背景であるとの前提に立った主張については今のところ裏付けがないことに留意が必要である。
  27. ^ 「四神=山川道澤」説を採用するとすれば、どう贔屓目にみても朱雀となりそうな東京湾は東から南東を経て南への広りがあるわけだし、白虎となりそうな甲州街道も単に西に延びているだけである。(珍誉のいう山川道澤の四神相応では、西の大道は南行している必要がある。)
  28. ^ 西国街道は東から西に伸びているわけで、これを白虎として瀬戸内海を朱雀とするなら西国街道沿いには四神相応でない場所の方が少ないであろう。
  29. ^ 「名府御城の如きは、道を四道に開かれて、四方より人民輻湊する事、恰も天下の城の如く十里に嶮地を置き、東は山、南は海、西北は木曾川あり、その中間、三五里を隔て要害設し給ふ(中略)、先は東は八事山の砦柵、西は佐屋、清州の陣屋(中略)、城、場、郭の三を備へ、四神相応の要地の城とは、これを申奉るなるべし」と記述されている。

参考文献

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  • 『日本史年表・地図』吉川弘文館2007年
  • 井上満郎『平安京と風水―宮都設定原理と風水思想の関係』 「日本社会の史的構造 古代中世」所収 思文閣出版、1997年
  • 寺本健三『「営造宅経」和訳(その1)』 史迹美術同攷会「史迹と美術」第804号所収
  • 寺本健三『敦煌文書「司馬頭陀地脈訣」和訳』 史迹美術同攷会「史迹と美術」第832,833号所収
  • 加藤繁生「「京都検定」を検定する(一)「四神相応の都」」『史迹と美術』第867巻、史迹美術同攷会、212-222頁、2016年8月28日。ISSN 0386-9393 
  • 寺本健三『風水説研究』(京都・中西印刷)2016年
  • 多ヶ谷有子「平安京 境界考」『関東学院大学文学部紀要』第112号、2007年https://kguopac.kanto-gakuin.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=NI20000318&elmid=Body&fname=181tagaya.pdf&loginflg=on&block_id=_296&once=true 


関連項目

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