和田正信

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和田正信
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 不明
死没 元和2年(1616年)または寛永元年(1624年
別名 信也[1]、夫兵衛(通称)
戒名 宗光院
官位 壱岐守
主君 池田輝政忠継
備前岡山藩
氏族 近江和田氏
父母 和田信維
兄弟 正信、庄兵衛、小右衛門ら
三正
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和田 正信(わだ まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将備前国岡山藩家老

出自[編集]

近江和田氏清和源氏源経基の子・満政の末裔。近江国甲賀郡和田谷を領してきた。

略歴[編集]

文禄元年(1592年)、父・和田信維の死去に伴い、和田家を継ぐ。池田輝政に仕え、慶長5年(1600年)8月の岐阜城攻めの軍勢に加わり、戦功を為した。関ヶ原の戦い後、主君の池田輝政が52万石を領して播磨国姫路城主となると家禄4600石が与えられた。慶長8年(1603年)、幼い池田忠継に従って備前岡山に移ると、家老に取り立てられ政務を執った。

元和2年(1616年)、死去。

没年については『因府年表』を参考にしたが、これには異説も存在しており、『鳥取藩史』着座家伝には寛永元年(1624年)に没したとある。正信には実子がいなかったため、荒尾成房三男・三正を養子として家督を継がせた。

脚注[編集]

  1. ^ 『因府録』

出典[編集]

  • 『和田系図』(「『因府録』所収」)
  • 鳥取県『鳥取藩史 第一巻 世家・藩士列伝』1969年
  • 鳥取県『鳥取県史 第3巻 近世政治』1979年
  • 鳥取県『鳥取県史 第6巻 近世資料』1974年
  • 鳥取県『鳥取県史 第7巻 近世資料』1976年
  • 因府年表