吾妻連峰雪山遭難事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

吾妻連峰雪山遭難事故(あづまれんぽうゆきやまそうなんじこ)とは、1994年(平成6年)2月13日早朝から翌日にかけて福島・山形両県にまたがる吾妻連峰が猛吹雪に見舞われ、登山者5名が低体温症死亡した事故。吾妻連峰での山岳遭難事故としては最悪の事故となった[1]

経過[編集]

パーティーは40代から60代の男性2人と女性5人。リーダーは登山歴30年で山岳ガイド資格もある新聞社勤務の男性。リーダーは同じルートを以前に経験しており、メンバー全てに登山経験があった[1]。三連休を利用して山スキー福島市の高湯より吾妻連峰を縦走し、山形県米沢市滑川温泉に到着するルートだった[注釈 1]

  • 2月11日(祝日) - 東京駅より新幹線で出発する[注釈 2]福島駅タクシーを呼ぼうとしたが、スキーが積めなかったためマイクロバスをチャーター、道路凍結のため運転手の勧めた吾妻高湯スキー場[注釈 3]を経由して家形山避難小屋[注釈 4]に到着(ここまでに多くの時間をロスしていた)。小屋で宴会をして一夜を明かす。この日の夜、慶応吾妻山荘では「中国大陸からの雨雲を伴った強い低気圧の接近により、太平洋側で大雪となるおそれがある」旨がラジオの天気予報で報じられたため、管理人が宿泊客全員に翌日の下山を進言している(これを受け山荘に宿泊したすべてのパーティーが下山か、早朝に出発した)。一方、家形山避難小屋のパーティー7人はラジオを持っておらず、天気予報などの情報を得られなかった。
  • 2月12日(土) - 朝8時30分に出発。正午に白浜尾根に到着。この時点では擬似好天[注釈 5]だったが午後から急変。山形県側の霧の平をめざすが分岐点の杭が見つからないまま[注釈 6]彷徨。この間スキー板のクライミングスキン(シール)が剥がれるメンバーが続出したことも災いし、白浜から霧の平まで予定1時間の行程に6時間以上彷徨い、夜になり、ビバークする。この時点ではまだ余裕があり、メンバーは「ビバークしたことを家族や友人に内緒にしよう」と冗談まじりに話していた。しかし天候はますます悪化し、夜はマイナス10度以下まで冷え込む。
  • 2月13日(日) - 猛吹雪となったが、翌日の出勤を考え下山を強行。家形山避難小屋まで移動しようとしたが、白浜で暴風のため低体温症で動けなくなるメンバーが出る。寝袋に入れて引っ張ろうとしたが暴風のため途中で断念し、パーティー全員がその場にとどまり、スコップがなかったため食器などで雪洞を掘り[注釈 7]、夜を迎える(この時さらに2人の意識が薄れていた)。この時、リーダーが疲労のためか変調をきたしていたのを生還した男性が目撃している。
  • 2月14日(月) - 強い西風が吹き続く。朝の時点で低体温症からリーダーを含む4人が意識不明か死亡。意識のあった3人(男性1人と女性2人)は下山を決意するが、うち女性1人が力尽きたため男女2人で9時に白浜を離れ、雪崩の危険がある西側を下りていくが力尽き、結局ビバークする。一方、リーダーの山仲間が福島県警察本部に捜索願とともに覚えていた6人の情報を通報したが、ルートの詳細が不明のままだったため当初警察は動けず、他の登山者たちの目撃情報を元に6人の情報を割出し、捜索の準備に入る。地元のラジオ福島(RFC)や山形放送(YBC)でも呼びかけが行われたが、彼らはラジオを持っていなかった[注釈 8]。その後、夜に1人の家族が警察(警視庁蒲田署)に捜索願を出したことから、ようやく7人全員の身元が判明。
  • 2月15日(火) - 前日とは一転して晴れ間が広がっていた。13時過ぎ、2人はひどい凍傷になりながらも自力で滑川温泉にたどり着いた。彼らの通報による捜索の結果、15時過ぎに福島・山形両県境の白浜で5人の遺体が発見された[注釈 9]

事故の原因・背景[編集]

この遭難事故は「気象遭難」に分類されるもので、不運による時間のロス、天候判断のミスおよび撤退判断の遅れ・欠如などにより厳しい気象条件下に晒される状態に陥り低体温症を引き起こしたことが主な要因である。さらに霧の平での「道迷い遭難」の要素もあった。そのほかの背景として以下の点があげられる[1]

  • 福島駅への到着が計画より30分遅れたのをきっかけに予定が狂い始め、かつ想定外の行動も重なったことから歩く距離が当初より大幅に長くなり、こうした焦りが「体力消耗による予想以上の疲労」を招き、登山口及び宿泊予定場所への到着は予定より大幅に遅れた。
  • 遅れたメンバーがいたにも関わらず、リーダーは管理人が常駐している「慶応吾妻山荘」へ泊まる決断をせず、そのまま予定通り(本来は宿泊場所とはなっていない)家形山避難小屋へ(他の登山者を気遣わずに済むという理由で)泊まった。このためメンバーは天気予報などの情報を得られず、かつ十分に睡眠や暖も取れぬままに翌日を迎えることになった。
  • メンバー7人は全員が「出発前日までそれぞれの仕事(本業)に追われていた」ため冬山装備の準備時間が十分確保出来ず、結果的に「余裕のなさから冬山対応装備が一部欠品した状態」で本番に臨んだ[注釈 10]
  • メンバーの誰も冬山登山に必携のラジオツェルトを携帯していなかった。
  • スキー板の(滑り止め用)シールが剥がれたため歩行が困難になった(剥がれたシールを粘着テープで留める応急処置は一人あたり10~20分を要し、その間他のメンバーは猛吹雪の中で待たされる羽目になった)[注釈 11]
  • 月曜日に出勤(それぞれの仕事)があったため、(13日のうちに東京へ戻ろうと)無理をして猛吹雪の中で下山を強行した。
  • 低体温症に関する知識がなかった。
  • 霧の平への道を見つけられなかったにも関わらず、早期に撤退する決断をせずにそのままビバークした。冬山では正午から下山をするか撤退するのが常識だが、夜まで新しい道を探し続けたため体力消耗を招いた。
  • 動けなくなったメンバー一人を助けるため全員が(強風や雪崩の)危険区域に留まった。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c NHKスペシャル「そして5人は帰らなかった~吾妻連峰・雪山遭難を辿る」(1994年5月8日放送)

注釈[編集]

  1. ^ この「高湯~慶応吾妻山荘~家形山~白浜~霧の平~滑川温泉」ルートは登山の専門書でも紹介されているが、福島市役所観光課発行の登山経路図では「夏山経路の指定」こそ受けているものの、冬山経路の指定については「藪が深くて風が強く、かつ雪崩も起きやすい」という理由で受けておらず、(山岳ガイド・山岳会など)専門家の間でも意見が分かれる縦走経路となっている。
  2. ^ 速達便「やまびこ」が満席だったため各駅停車の便「あおば」に乗ったことで時間をロスした。
  3. ^ マイクロバスが福島駅西口に来るのを30分待つ羽目になったメンバーは、「時間が予定より遅れているので、極力登山口の近くまでマイクロバスを走らせてほしい」と運転手に要望。運転手は「路面凍結のためバスが登山口近くまで行けない可能性が高いので、麓の吾妻スキー場入口で降りてリフトを乗り継ぐ形による入山」を勧めたが、メンバーは「極力登山口近くまで車を走らせてほしい」と要望を続け、最終的に吾妻スキー場入口から1km先でマイクロバスを下車。当初はそこから直接歩いて登山口へ向かおうとしたが、路面凍結で登山口到着が大幅に遅れる可能性が高いと判断。結局は運転手が勧めた吾妻スキー場入口まで徒歩で戻る形となり、この段階でさらに30分のロスが生じた。また当時は4本あるリフトのうち2本(2本目と4本目)が強風で停止していたため、メンバー7人は動いていた1本目と3本目リフトに乗り、止まっていた区間は標高差約200mの急な坂道をスキーで1km以上歩いて登山口へ向かった。このため7人は(動いていた1本目と3本目リフトを降りたあと歩いて直接登山口へ向かったため)登山者カード提出場所となっている4本目リフト搭乗口を経由しておらず、捜索するにあたり彼らの存在判明までに時間を要することとなった(歩いている途中で強風が収まり4本目のリフトが動き出したが、メンバーは4本目リフト搭乗口まで戻らずそのまま上の登山口まで歩き続け、登山者カードも出さなかった。遭難したパーティー7人のうち4人は一人暮らしで、残り3人も家族に詳しい登山経路を伝えていなかった。このため首都圏在住の山仲間は「13日の夜になっても吾妻連峰登山パーティー7名から連絡が来ないのを心配」して参加者それぞれの自宅へ電話したものの・「留守電または繋がらない状態」だったことから、分かる範囲で参加者の名前と住所を紙に書き福島県警本部に宛ててFAX送信・これが最初の捜索願提出となる。14日に家族及び山仲間より「行方不明者捜索要請」を受けた福島・山形両県警などは最初・吾妻スキー場内4本目リフト搭乗口に提出された登山者カードを全て調べたものの・遭難した7名の名前は見つからず、「登山計画書の記入・提出を経て入山した他の登山者からの目撃証言」をもとに捜索活動を開始)。なお吾妻スキー場と吾妻ロッジは2006年限りで営業を終了した。
  4. ^ 囲炉裏があるだけの緊急時の避難場所であり、宿泊施設ではない(囲炉裏で火を焚いて暖を取っても、寒さ対策を十二分にしなければ低体温症や凍傷にかかるおそれあり)。この避難小屋の手前には管理人が通年常駐し、宿泊施設・電気・ガス・暖房設備が整っている山小屋「慶応吾妻山荘」があったが、他の登山者を気遣わずにいられること、思い出のある家形山避難小屋にこだわったことなどを理由に通過している。
  5. ^ 低気圧と寒気の間の一時的な晴天のこと。この時東京は大雪だった。なお生還したメンバー2名はNHKの取材に対し、「当日(12日)朝の段階で悪天候だった場合は引き返す予定だった」と証言している。
  6. ^ 1か月後の調査では充分視認できたことが判明しており、見つけられなかったのは極度の視界の悪化や疲労による距離感覚の麻痺が原因とされる。
  7. ^ だが吹きさらしの雪は堅かったため、雪洞掘りに2時間以上を要し、さらに体力を消耗する結果となった(夜になっても雪洞を掘る作業は終わらず、4カ所全ての雪洞が完成したのは22時過ぎだった)。
  8. ^ 翌15日は同局レギュラーワイド番組内で行方不明者捜索活動の模様を吾妻ロッジ・福島警察署庭塚駐在所2カ所に設けられた現地指揮本部より生中継。東京より駆け付けた行方不明者の親族及び山岳会メンバーも同局の番組に生出演し、消息を絶ったパーティーへの呼びかけに加わる。これらの模様は「緊急ラジオはこだました~吾妻連峰遭難者呼びかけ放送」と題した特番としてまとめられ、(凍傷を負いながらも生還したメンバー2名へのインタビューと、遭難事故から半年後の同年8月に遺族らが行った慰霊登山の模様も交えて)同年12月25日に放送された(1996年1月3日に再放送)。
  9. ^ 収容された5人の遺体は陸上自衛隊ヘリで福島駐屯地に搬送・安置された。
  10. ^ リーダーは今回の吾妻連峰登山計画を半年ほど前から立てていたが、「参加者各人がギリギリまで本業に追われ冬山登山の事前準備期間を十分確保出来なかった」ことが悲劇の引き金となった。
  11. ^ 登山用スキーは上り坂でも歩きやすいよう「かかとが上がる(つま先部分のみを固定する)」方式となっており、裏面(滑走面)には滑り止め用シールを貼る。しかし(スキー板シール用)接着剤は気温が氷点下になると接着力が弱まり、接着面に雪氷が付着すると(完全除去しない限り)スキー板にシールが貼り付かなくなる。なおメンバー7人は今回実施した「吾妻連峰雪山縦走」の模様を写真に収めていたが、その写真は「白浜に達した時点でスキー板から剥がれてしまった滑り止めシールを粘着テープで留める応急処置をする場面」が最後となり(フィルム余白を残したままシャッターが切られず)、メンバー全員が窮地に追い込まれていたことを物語っている。

参考文献[編集]

関連項目[編集]