君塚匠
君塚匠 | |
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君塚匠(2026年) | |
| 生誕 |
1964年11月29日(61歳) |
| 職業 | 映画監督、脚本家、テレビディレクター、文筆家 |
| 活動期間 | 1991年 - |
| 団体 |
株式会社タイズブリック 日本映画監督協会 |
君塚匠(1964年11月29日 - )は、日本の映画監督、脚本家、演出家、文筆家。東京都出身。日本大学藝術学部映画学科監督コース卒業。20代で華々し いデビューを飾った後、ADHD (注意欠如・多動症)による挫折と葛藤を経て、還暦を目前に再起を果たした経歴 を持つ。日本映画界の黄金期を支えた 巨匠たちから直接薫陶を受けた最後の世代の一人。
来歴
[編集]日本大学藝術学部映画学科監督コース「70倍」の激戦突破
[編集]幼少期より映画監督を志し、日本大学藝術学部(日藝)映画学科監督コースを受験。当時、監督コースは志願者が殺到する超難関であり、倍率は70倍に達していた。([1] 君塚匠『もう一度、表舞台に立つためにーADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡ー』中央法規出版、2025年6月30日、61頁。)君塚は熾烈な筆記試験を勝ち抜き、二次試験の面接と小論文においても圧倒的な熱量を示して合格を果たした。この経験が、後の表現者としての揺るぎない自負の礎となった。
フジテレビの取材ディレクターを経てテレビマンユニオンで本格的なディレクターデビュー
[編集]1988年、日本大学藝術学部映画学科監督コース卒業後、フジテレビのワイドショー『おはようナイスデイ』のフリーランス取材ディレクターを務める。 1989年、テレビマンユニオンに期間社員として入社し、日本テレビ『Time21 西表島のターザン』や『熱闘甲子園』などのドキュメンタリー番組を担当。
特に伊丹十三監督からは深く目をかけられ、伊丹プロデュースのテレビ番組『ホラー館スイートホーム』の演出に抜擢される。過酷な現場で弱音を吐いた際に受けた「考えて、考えて、考えぬく。そうすれば、考えつかぬことはない」という言葉は、生涯の座右の銘となった。 1991年映画の道に進むために同社を退社した。
ディレクターズ・カンパニーの監督達の薫陶
[編集]翌年、長谷川和彦監督が率いる映画監督集団「ディレクターズ・カンパニー」に参加し、親友の死と直面した君塚はその体験を脚本化し『喪の仕事』(1991年)で監督・脚本デビューを果たす。 代表の長谷川和彦(通称:ゴジ)や社長の宮坂進らの影響を受け、監督としてのアイデンティティを磨いた。
25歳で監督した『喪の仕事』は、ベテランカメラマンの丸池納をはじめ、60人に及ぶ精鋭スタッフが結集し、君塚の演出イメージを具現化するために全力で支えた。完成した作品は、ビビッドな脚本とスタイリッシュな映像表現が高く評価され、作家の萩原朔美からは「静謐の下の熱情」を感じさせる映画と評され、長谷川和彦も「一つの個性が現れた」とその才能を認めた。
1995年、東映配給の映画『ルビーフルーツ』の監督依頼を受ける。 制作前、脚本執筆に悩んだ君塚はカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を2度受賞した巨匠・今村昌平監督に脚本を読んでもらい、修正の 指摘を受けたものの、当時の君塚はそれを受け入れず撮影を強行した。結果として作品は評価されず、今村監督の助言に従わなかったことを深く後悔することとなった。
1億2,000万円の予算を投じたデビュー作『喪の仕事』はスタ イリッシュな映像美で絶賛されたが、 監督2作目の『ルビーフルーツ』の作品を巡り、映画評論家の淀川長治に酷評されたことに憤慨した君塚が反論の手紙を送ったことから、二人の交流が開始。晩年の淀川とは毎晩のように深夜の電話で映画論を戦わせる仲となった。淀川は東京新聞のコラムにおいて君塚を取り上げ、「この馬鹿青年には、どこか誠実さをみた」と記し、その才能を死の間際まで期待し続けた。(淀川長治シネマ交遊録『東京新聞 1994年5月16日付』) その後も『おしまいの日』『月』など計5本の劇場映画を監督したが、才能の枯渇や生きづらさに直面し、映画界の表舞台から一時離脱することとなった。
また、君塚匠は熱狂的な黒澤明監督のファンとして知られ、自身の監督デビュー作『喪の仕事』のVHSテープに手紙を添え、繰り返し黒澤のもとへ送り続けた。最初のうちは返事がなく、何度送っても沈黙が続いたが、それでも諦めることなく情熱を込めて手紙を書き続けたという。 そして108通目の手紙を送ったある日、ついに黒澤明からサイン入りのクリスマスカードが届いた。長い沈黙の末に返ってきたその一枚は、君塚にとって生涯忘れ得ぬ贈り物となった。奇しくも108という数字は“煩悩の数” と同じであり、後年、君塚は「まるで 自分の執念を見透かされたようだった」と語っている。
「お猿の電車」での迷走とADHDの診断
[編集]空白期間、生活のために数々のアルバイトに従事するが、ADHDの特性ゆえの困難に直面する。
- コンビニでの解雇:指示された「ゆで卵作り」で、すべての卵の殻を剥いてから茹でてしまい、初日で解雇。
- お猿の電車での乱闘:二子玉川園で「お猿の電車」の運転手を務めたが、猿と喧嘩になり「動物との協調性なし」として解雇。こうした迷走を経て、55歳でADHDの確定診断を受けたことが転機となった。
ハイビジョン映像の「小鳥の肛門」への驚愕
[編集]君塚が映像制作を志す原点として、自著で語られている象徴的なエピソードがある。高校時代、幕張で開催された展示会において野鳥の生態を記録したハイビジョン映像を視聴した際、羽毛の質感のみならず、小鳥の肛門周辺までもが鮮明に映し出されている描写に驚愕したという。 君塚はこの体験について、実物を肉眼で見る以上の情報量を提示する映像の力に衝撃を受けたと回想しており、この視覚的体験が映像表現の道を志す決定的な契機となったとしている(出典:『もう一度、表舞台に立つためにーADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡ー』p.60)。
「にじ鶴見」脊尾昌壮氏との出会いと再起
[編集]精神的な限界を迎え、国から精神障害者認定を受けるまでに追い詰められた君塚は、横浜の就労移行支援事業所「にじ鶴見」に通い始める。そこで施設長(社長)の脊尾昌壮氏と出会う。 脊尾氏は君塚の不器用さを「唯一 無二の感性」として肯定し、再び映画界へ戻ることを強く後押しした。脊尾氏との信頼関係は君塚に再生の勇気を授け、2025年、25年ぶりの監督作『星より静かに』を結実させた。本作には恩人である脊尾氏自身も出演しており、映画『星より静かに』は、現実と虚構が溶け合う感動的な結末を迎える作品となった。 同作では、君塚自身が監督・脚本のみならず主演も務めた。
現在、映画『星より静かに』は、AmazonプライムやU-NEXTを筆頭に13のプラットフォームで配信中である。
テレビ朝日と古舘プロジェクトのグループ会社(株)タイズブリックに所属
[編集]2026年1月、君塚匠はテレビ朝日と古舘プロジェクトのグループ会社であるタイズブリックに映画監督・脚本家・テレビディレクターとして参加した。代表の倉本彩絵花とともに、映画・ドラマ・ドキュメンタリーの企画開発に携わっている。『星より静かに』の発表以降、同社において新規作品の企画・開発を行っている。 1992年より現在に至るまで日本映画監督協会[1] の会員。
教育活動・所属
[編集]2020年代以降は教育活動にも携わり、神奈川県立神奈川総合高等学校や東京服飾専門学校において映像制作に関する講義を4年間担当した。
活動
[編集]2026年6月19日、音楽朗読会『星より静かな夜に』を開催した。原作・構成・脚本 君塚匠 朗読は俳優内浦純一、音楽はパーカッションニスト佐藤正治が務めた
2025年公開の映画『星より静かに』では、企画・脚本・監督・主演を務めた。同作は自身の経験をもとにADHDをテーマとした作品である[2] [3] [4]。
13のプラットフォームで配信されていてU-NEXTでは星4つがつけられ高い評価を受けている。
また、第49回湯布院映画祭においてクロージング作品として上映され、上映後にはシンポジウムが行われた[5]
MXテレビのドキュメンタリー番組『TOKYO 1weekストーリー』において、「ADHDの映画監督」と題した密着取材が放送された。
人物
[編集]インタビューにおいて、55歳でADHDと診断された経験に ついて言及している。 映画制作と関連して、ADHDの特性や自身の経験について 複数のメディアで語っている。
- 映像美へのこだわりデビュー当時から透明感のある映像表現で評価された。
- 対人関係: 情熱的で不器用な性格で、淀川長治や長谷川和彦らに可愛がられた。
- ADHDの公表特性を隠さず公表し、啓蒙活動や創作活動を続けている。
映画
[編集]- 1991年
- 1999年
- 『おしまいの日』(脚本・監督)
- 出演:裕木奈江、高橋和也、金山一彦、菜木のりこ、岩松了、山村美智子
- 製作:アーバン
- 配給:ビターズエンド
- パームスプリング映画祭出品
- モントリオール世界映画祭出品
- 『おしまいの日』(脚本・監督)
テレビドラマ
[編集]- 1992年
- テレビドラマ『ドラマドス/戦慄の旋律』(脚本・監督)
- 出演:洞口依子
- 制作:関西テレビ、ディレクターズカンパニー
- テレビドラマ『ドラマドス/戦慄の旋律』(脚本・監督)
- 1996年
- 1997年
- テレビドラマ『東京SEX/セクハラ』(監督)
- 制作:フジテレビジョン
- テレビドラマ『東京SEX/セクハラ』(監督)
- 2006年
- 伝記ドラマ『人に喜ばれてこそ』(脚本・監督)
テレビ番組
[編集]- 1989年
- 『熱闘甲子園』(演出)
- 『Time21/西表島のターザン』(企画・演出)
- 『ホラー館スイートホーム』(構成・演出) ※制作:伊丹十三プロダクション
- 1990年
- 『16面マルチ映像/ダイキンエアーテック90』(企画・演出)
- 『音楽番組/サビーライフ』(演出)
- 1993年
- 『世界の逸品/スカンジナビア篇』(構成・演出)
- 2000年
- 『人生の楽園』(演出)
- 2001年
- 『スーパーテレビ 情報最前線/僕は噂の身体障害者』(演出)
- 2002年
- 『ナビゲーター21/リストラ時代に克つ』(構成・演出)
- 『ニュースアイ/理容業界の逆襲』(構成・演出)
- 『スーパーテレビ特別版/涙の訳は』(再現ドラマディレクター)
- 『鎌倉恋愛委員会』(演出・脚本) ※監修:秋元康/プロデューサー:テリー伊藤/制作:ロコモーション
- 『企業未来 チャレンジ21』(演出)
- 2004年
- 『スーパーニュース・特報/熱血主婦だ!53歳オンナ力士 相撲に賭ける青春』(構成・演出)
- 2005年
- 『いきいき!夢キラリ/僕の天職は…理容師』(企画・構成・演出) ※民教協奨励賞受賞
- 2006年
- ヒストリーチャンネル『職人の道具』(プロデューサー)
- ヒストリーチャンネル『番宣』(プロデューサー)
- 2007年
- ドキュメンタリードラマ『わたしが子どもだったころ/ルー大柴編』(ディレクター) ※制作:NHK
- 2015年
- 『日本の夢、はやぶさ。ふたたび宇宙へ』(ディレクター/BS-TBS)
- 『僕たちは昭和を生きた』(ディレクター/BS-TBS)
- 『八代亜紀 ブルース、魂の叫び』
- 『聖地メンフィス、ミシシッピ・ブルース街道へ』(企画・監修/BSフジ)
- 2020年
- 『ザ・ノンフィクション 中華街とコロナ〜私はこの街で生きていく〜』企画・演出(製作:フジテレビ/製作協力:FREBARI)
- 2023年
- NHKドキュメンタリー『6000曲のパレード/作曲家 梶浦由記』(ディレクター)
テレビCM
[編集]- 1989年
- 『16面マルチ映像/ダイキンエアーテック90』(企画・演出)
- 1991年
- 企業VP『大成建設/ビオクリート21』(演出) ※日本産業映画ビデオコンクール奨励賞受賞
- 1993年
- 『天下のご迷惑人・松村邦洋』OV(企画・監督)/アミューズ
- 1996年
- テレビCM『サッポロビール/よか生』(演出)
- テレビCM『全木連』(演出)
- 2000年
- 婚礼紹介VP『ウェディングストーリー』(演出)
- 2001年
- 企業VP『ニチベイ/進化するブラインド』(構成・演出)
- 2003年
- 企業VP『MSKシステム開発』(構成・演出)
- 企業VP『お得意様サービスセンタ紹介ビデオ 〜お客様に「最高」の価値を提供するために〜』(構成・演出)
- 企業VP『株式会社タチエス』(企画・構成・演出)
- テレビCM『ハートフォード生命/コーラス編』(演出)
- 2005年
- 企業VP『マニフレックス』(企画・構成・演出)
- info-CX『アサヒ缶チューハイDew』(企画・プロデューサー・演出)
受賞
[編集]- 1991年
- 映画『喪の仕事』で監督・脚本を担当。
- 永瀬正敏が日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞
- 第16回報知映画賞 主演男優賞受賞(永瀬正敏)
- 映画『喪の仕事』で監督・脚本を担当。
- 1992年
- ロバート・レッドフォード設立「サンダンス脚本スカラシップ」にて
- 脚本『パンドラの箱』が最終選考3作品に選出
- ロバート・レッドフォード設立「サンダンス脚本スカラシップ」にて
- 2000年
- スペシャルドラマ『手塚治虫劇場/るんは風の中』
- ギャラクシー賞テレビ部門奨励賞受賞
- スペシャルドラマ『手塚治虫劇場/るんは風の中』
- 2006年
- ドキュメンタリー『いきいき!夢キラリ/僕の天職は…理容師』
- 民教協奨励賞受賞
- ドキュメンタリー『いきいき!夢キラリ/僕の天職は…理容師』
- 2018年
- NHKドキュメンタリードラマ『小野田さんと、雪男を探した男』
- 第44回放送文化基金賞 奨励賞受賞
- 第34回ATP賞 奨励賞受賞
- NHKドキュメンタリードラマ『小野田さんと、雪男を探した男』
- 2025年
- 月刊シナリオ(7月号)に映画『星より静かに』の脚本が全文掲載
- 創作ノートとともに特集掲載
- 月刊シナリオ(7月号)に映画『星より静かに』の脚本が全文掲載
著書
[編集]- 『もう一度、表舞台に立つためにーADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡ー』(2025年、中央法規出版)
『もう一度、表舞台に立つために一 ADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡 一』の帯を文豪・小川洋子が執筆。