同和教育

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同和教育(どうわきょういく)とは、教育全般において、部落差別を解消するために行われる教育を指す行政用語である。歴史的には学力保証のために同和地区の児童生徒に対して行われた教育であり、近年では対象を同和地区住民に限らず、部落問題解消を目的として行われる人権啓発教育を主に指すようになった。

なお、同和という語が「同胞融和」という標語に起源を持つことから、部落解放同盟の立場からはこれを天皇制的造語とみなして使用せず、解放教育の語を使用している[1]

同和教育の二大柱[編集]

学力保障[編集]

明治初期の同和地区の経済状況、衛生状況は非常に劣悪なものであった。その原因の一つが教育水準の低さであった。すなわち、親が子供を学校に行かせないために、子供の教育水準が低く、それがまた次の世代に継承されるという悪循環が同和地区の貧困を固定化させていた。明治後期に学力保障として民間や地方自治体で始められた同和教育の基本的な考え方は、このような負の連鎖を断ち切ることで同和地区の貧困を解消し、部落差別の解消につなげるというものである。

農繁期託児所を初めて開設した人物として知られる筧雄平鳥取県美穂村において1898年に当時「細民部落」と呼ばれた同和地区に分教場を開設し、未就学であった同和地区の児童を学ばせた。また、租税を滞納したり子供を就学させないといった親の非行も目に余ったため、年に数回村民を集めて学習会が行われた。この活動は大きな成果をあげ、1921年に分教場を尋常小学校に併合した際には租税の滞納や未就学児童はほぼ皆無であったと記録されている。

戦後は同和対策事業の一つとして行われ、昭和40年代には地区進出学習会と呼ばれる、同和地区の児童を対象とする教育が行われた。同和地区の児童生徒の把握、地区進出学習会の運営といった目的で、同和地区の児童が通う小学校には同和加配教員が配置された。また、当時は高校や大学への進学率が著しく低かった同和地区の児童生徒の進学を奨励するため、同和地区の児童生徒だけが受けることができる奨学金や、給付金制度が自治体において整備された。

人権啓発[編集]

人権啓発としての同和教育は学力保証としての同和教育より歴史が浅く、主に同和対策事業特別措置法が制定された昭和40年代から始まったものである。戦後、学力保証としての同和教育は成果をあげつつあったが、特に結婚や就職面での同和地区住民に対する差別的な取り扱いが度々みられたことから、教育の責任として同和地区に対する偏見を取り除くことが急務となった。そのために、同和地区住民に対する学力保証だけでなく、広く一般の人々を対象とした人権啓発がはじめられることとなった。

当初は、同和地区の児童生徒と、一般地区児童生徒の間にある感情的な軋轢を解消し、協力関係や友情を深めることを目的とされた。そのために児童生徒に、日本国憲法にある人権の概念の下に部落差別が不当なものであることを認識させること、いわれのない迷信にとらわれないために科学的な考え方を醸成すること、職業に対する差別をなくすために正しい職業観を持たせること、望ましい人間関係を醸成することが目的とされた。また、当時は教育基本法第8条を遵守するため、同和教育を政治運動の場としないように徹底された。児童生徒の間で、誰が同和地区住民かといったことを明らかにすることもタブーであった。

しかし、次第に運動団体が自治体や学校による同和教育の運営に干渉するようになり、同和教育は政治運動と無縁ではなくなった。1974年の八鹿高校事件は、日本共産党部落解放同盟の対立が教育の場に持ち込まれ、ついには流血事件にまで発展した事例である。また、1980年の狭山同盟休校は、同和教育をとりまく状況を一変させた、決定的な出来事である。狭山事件裁判への抗議の一環として、部落解放同盟により1980年1月28日に同和地区の児童生徒は登校しないように呼びかけられた。これに対し、各地の自治体の教育委員会は困惑するか、あるいは激しく反発した。なぜなら、同盟休校は教育を政治運動の場とするだけでなく、同和地区の児童生徒だけが一斉に学校を休むことにより、誰が同和地区の児童生徒か明らかになってしまうためである。ちなみに、同様の問題が指摘されているものとしては、同和地区出身者の生徒・児童に自己の出自をカミングアウトをさせる「部落民宣言」がある。長野県の松本市など一部の地域では教育委員会の激しい反発により、同盟休校は実施されなかったが、部落解放同盟が組織されたほとんどの同和地区では、児童生徒は登校せず集会所等で行われた学習会に参加する等した。同盟休校が行われた地域では、政治的中立を保ち、同和地区の児童生徒を特定することをしないという当初の同和教育が成立しなくなり、部落解放同盟等の運動団体の要求を取り入れた、政治色の強い教育に取って代わられるようになった。

運動団体間の対立抗争は同和教育の方法論、進め方にも影響を与えた。現在では大まかに言って、「官製同和教育」、部落解放同盟につながる「解放教育」、日本共産党全国人権連につながる「自主的民主的同和教育」に、分極化している。

同和教育を意味する、別の言葉を使用する地域もある。岡山県では「民主教育」、和歌山県では「責善教育」という名称を、戦後間もなくの時期から長く使用していた。

取り組みが盛んである大阪府では、「にんげん」という副読本が古くから作成され、部落差別を中心に在日朝鮮・韓国人差別・障害者差別・女性差別の不当性を教える教育が行われていた。ただし、公教育における「にんげん」の使用については、思想信条の自由、多様な価値観の存在を否定し、特定団体の思想を児童生徒に植え付けようとするものであるという批判がある。

1995年~2004年の「人権教育のための国連10年」や、2002年3月限りで、特別施策としての同和対策が政府レベルでは終了したのを境に同和教育から人権教育へと呼称が変化してきている。

大戦中の同和教育についての学説[編集]

1942年8月に文部省社会教育局は『国民同和への道』を刊行し、はじめて政府の教育方針として同和教育政策の理念・具体的方針を示した。同書は被差別部落の児童・青年を同和教育を通じて「皇国民としての純真な自覚に立たしめ、苦悩に堪え、艱難を忍び、臣道実践に邁進する強健なる心身」に「陶冶・鍛錬」するというものであった。これは旧水平社の「下から」の運動のエネルギーをも利用し、部落の児童・青年を他の児童・青年以上の「皇国民」として「陶冶・鍛錬」することを提示しており、この同和教育の指針を「天皇制ファシズム」教育の極限形態の一つとして把握する学説がある [2]

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  1. ^ 瀬川負太郎『部落問題の状況 糾弾、土地転がしの総決算』p.272(小倉タイムス、1985年)
  2. ^ 松浦勉「日本ファシズムの戦争教育体制と融和教育」「日本教育学会大会発表要旨集録」(日本教育学会)1991年8月28日参照。

関連項目[編集]