吉里信武

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吉里 信武(よしさと のぶたけ、生没年不明)は、江戸時代剣客幕臣呑敵流の祖[1]。「吉里呑敵斎信武」と称した[2]

来歴[編集]

通称は「藤右衛門」。号は「子勇」。幕臣で、小十人組に属す[2]江戸四谷の大番町に住し、武芸十八般に通じた[2]。身の丈、六尺近い大男で、髪型は四方髪(総髪)にし、長剣、短衣を纏い、大酒呑みで、豪邁の士であったという[3]。竹内藤八郎久直より、竹内流小具足・組討術を習い、また山口十太郎光興より関口流居合と柔術を学んだ[3]。また、平山行蔵(子龍)の門人で、実用流四天王と称された中でも随一の腕で「大変な豪力者だ」と平山もこれを褒めた[3]

他にも石川文右衛門孟魚より、守慎流鎖術、太子流剣術、無極流鎖鎌の伝を受け奥儀に達し、子弟に竹内流の捕手を教えたが、これを「呑敵流」と称した。門人には柳川藩士が多かったと言われる[2]

余談[編集]

板垣退助が、岐阜県岐阜事件)で暴漢に襲われた時、この竹内流小具足・組討術(呑敵流)で、攻撃をかわし事無きを得、のちに免許皆伝を贈られた[4]

補註[編集]

  1. ^ 『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。
  2. ^ a b c d 『続・武藝小傳』
  3. ^ a b c 『ありやなしや』清水礫州
  4. ^ 『自由党史』板垣退助監修

参考文献[編集]