吉良長氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
 
吉良長氏
時代 鎌倉時代中期
生誕 建暦元年(1211年
死没 正応3年6月18日1290年7月25日
別名 足利五郎、吉良太郎
戒名 新御堂殿長氏公大禅定門
官位 従五位下上総
幕府 鎌倉幕府
主君 藤原頼経頼嗣
氏族 足利氏吉良氏
父母 父:足利義氏、母:家女房
兄弟 長氏足利泰氏義継新田政義室、
能子(四条隆親室)、世良田頼氏
覚了院本成大姉
満氏今川国氏土御門顕方室、
上野義有
養子:貞義

吉良 長氏/足利 長氏(きら おさうじ/あしかが おさうじ)は、鎌倉時代中期の武将御家人足利氏の有力一門・吉良氏の祖。

略歴[編集]

足利義氏庶長子として誕生。名の読みは「ながうじ」とする書物が多いが、子・満氏が創建した実相寺[注釈 1]代々の住職の言い伝えでは「おさうじ」と読むのが正しいとされる[要出典]

母が側室であったため、長男でありながら足利家の家督を継ぐことができなかったという。この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが足利宗家継承権を持つことになる。

吾妻鏡』には安貞2年(1228年)7月23日に4代将軍藤原頼経の随兵として登場するのが最初で、以後、寛喜元年(1229年)の流鏑馬の射手、相模国近国一宮への祈祷の使い、嘉禎2年(1236年)の将軍の随兵、嘉禎3年(1237年)の足利邸への将軍御成りの際の献上品引渡し役等を務めている。そして、仁治2年(1241年)1月2日の椀飯の記事を最後に『吾妻鏡』から長氏の名前は見えなくなる。鎌倉を離れ、地頭職を務める三河国吉良荘へ向かったと考えられる。

建長3年(1251年)に鶴ヶ崎天満宮(西尾市)を造営。弘安8年(1285年)、霜月騒動で子・満氏を失ったため、嫡孫・貞義を養子とする。晩年は吉良荘内の今川(西尾市今川町)または竹崎(西尾市上町)の地に隠居したと言われる。

正応3年(1290年)6月18日、死去。享年80。

脚注[編集]

[ヘルプ]

出典[編集]

  • 「吉良町史 中世後期・近世」[要文献特定詳細情報]
  • 荻野三七彦「関東武士研究叢書4 吉良氏の研究」(名著出版 1975年)
  • 柳史朗「吉良氏十五代記」(1977年)