吉田勘兵衛

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吉田 勘兵衛(よしだ かんべえ、慶長16年(1611年) - 貞享3年7月26日1686年9月13日))は、江戸時代前期の材木商良信吉田新田を開墾したことで知られ、高島嘉右衛門苅部清兵衛らとともに横浜三名士といわれる。

略歴[編集]

丹波国戦国大名波多野氏の一族から起こったとみられる能勢西田氏の出身[1][注釈 1]

「贈従五位吉田勘兵衛翁事蹟」[注釈 2]によると、慶長16年(1611年)、摂津国能勢郡吉野村歌垣(現在の大阪府豊能郡能勢町)に生まれ[7]寛永年間(1624 - 1645年)または寛永11年(1634年[注釈 3]江戸に出て、材木・石材商となった[10]。当時急成長を遂げる江戸では各所で土木工事が行われており、勘兵衛はここで成功を収め[11]、本材木町(東京都中央区日本橋)に居住することになる[10]

万治元年(1658年)の江戸城普請には他の材木商人20人とともに加わり[12]、また具体的な家は特定できないが大名家に対して材木を納入し、年一割の利息を含めた支払いを受けている[12]。そのほか、材木・石材商間での入札のまとめ役を勤めるなどした[12]

新田開拓に関しては、詳細は不明だが、初め武蔵国葛飾郡の猿が又(葛飾区[注釈 4])にて行った[14]。その後、大岡川の河口部に位置する、鐘形をした武蔵国久良岐郡横浜村の湾[15](当時の認識では神奈川宿に近接した入海、または野毛村の沖合[16])に目を付けると、明暦2年(1656年)7月、幕府の許可を得て新田の開発に着手した[17]。翌明暦3年(1657年)5月に、長雨による大岡川の氾濫で堤防の崩壊に見舞われて中断したが[18]万治2年(1659年)2月、幕府より改めて許可を受け工事を再開[19]寛文7年(1667年)に新田は完成した[20]。寛文9年(1669年)、幕府はその功を賞し、それまで野毛新田と呼ばれてきた新田に吉田新田の名称を与え、勘兵衛に苗字帯刀を許した[21][注釈 5]

この新田開発の目的については、開発により得られた耕地を農民に貸し付けることで安定的な収益が可能となることから、勘兵衛もそれを狙ったものと考えられるが、それと同時に勘兵衛は「公益ヲ図ルノ大志ヲ抱」いた[15]とされている[24]。吉田新田開発に関与した砂村新左衛門が、新田の堤に植えた松を公儀に献上したものとし、公的な利益を意識していたことが窺えることから[25]、勘兵衛も同様の認識であったとみられる[24]

この後、吉田家は、勘兵衛の長男・吉太郎良春の家系(南吉田家または南家と称される)と次男・長吉郎(長吉)常政の家系(吉田本家、勘兵衛を世襲名とする)に分かれ、江戸における材木・石材商経営と吉田新田における地主経営はそれぞれ両家で分割されたとみられる[26]。また材木商は正徳年間(1711 - 1716年)頃、支配人の喜兵衛に譲渡され、これ以後吉田家は吉田新田に居住することとなった[27]。なお南家からは、明治40年(1907年)発行の『京浜実業家名鑑』で「東洋のレセップス」と称賛された実業家・吉田寅松[28]、初の国産自動車「吉田式」の製作者で日本自動車殿堂入りした吉田真太郎(寅松の子)[29][30]を輩出している。

貞享3年(1686年)7月26日、76歳で没す[31]法名は運千院常清日凉[32]辞世の歌は「妙なるや法の蓮の華の香をしばしとどめて浮世経にけり」[33]。勘兵衛は神仏への崇敬の念が強かったとされるが[34]、この歌にも妙法蓮華経という法句が詠み込まれており、その信仰心が窺える[33]

大正13年(1924年)、従五位を追贈された[35][36]。現在も子孫が横浜市中区長者町にて不動産会社・吉田興産株式会社を経営している。

関連項目[編集]

  • 運千山真養寺 - 万治2年(1659年)に勘兵衛らの寄進で創建され、当初は運千山自性院と称す[37]元禄2年(1689年)、江戸下谷の広布山真養寺と合併し、運千山真養寺と号した[37]
  • お三の宮日枝神社 - 寛文13年(1673年)、勘兵衛により創建される[38]。勘兵衛の出生地における氏神が山王権現であったためか、江戸山王権現の神霊が勧請され、村の鎮守とされた[38]
  • 栄玉山常清寺 - 延宝2年(1674年)または4年(1676年[39]、勘兵衛により菩提寺として建立される[40]。吉田新田に移住した農民の多くは周辺の村々からの入植者のため、出身村の寺を菩提寺にしていたとみられ、吉田家とその関係者に限定された寺院だったと考えられる[40]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 豊能郡地黄村(現在の能勢町)の真如寺に所蔵される『能勢東郷誌』や同村清普寺の旧記には、波多野氏の子孫が西田姓を名乗ったことが記される[2]。また豊能郡歌垣村大字吉野(能勢町)に所在する「波多野勘兵衛尉宗春墓碑」の碑文では、織田信長の家臣・明智光秀に攻められた数掛山城主・波多野秀親の子が能勢へと逃れて波多野勘兵衛尉宗春と称し、その宗春の子が西田芦右衛門尉重次を名乗ったとされている[3]。西田重次は元和5年(1619年)に生まれ、その子孫は西田姓を名乗り続けているが、重次も吉田勘兵衛同様、寛永年間に江戸に出ており[3]、吉田勘兵衛と同一視されることがある[4][5]
  2. ^ 大正13年(1924年)に十世孫吉田勘兵衛良循の名義で作成された吉田勘兵衛良信の小伝[6]
  3. ^ 石野瑛による[8]。ただし根拠となる資料は不明[9]
  4. ^ 斉藤 (2017, p. 48) は「荒川区」とするが「葛飾区」の間違いと考えられる。石野瑛が吉田勘兵衛との関連で調査に赴いた「猿ヶ又」も当時の水元村(現・葛飾区)である[13]
  5. ^ 石野瑛は吉田新田の名付けと名字帯刀許可の主体を4代将軍・徳川家綱とするが[22]、その根拠となる資料は残されていない[23]

出典[編集]

  1. ^ 石野 1936, pp. 88–94.
  2. ^ 石野 1936, pp. 88–89.
  3. ^ a b 石野 1936, pp. 89–90.
  4. ^ 文化財への道 2018・3 横浜開拓の先駆者 吉田勘兵衛(②西田芦衛門重次)”. 広報のせ 平成30年3月号(ナンバー657). 能勢町. 2018年5月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月20日閲覧。
  5. ^ 文化財への道 横浜開拓の先駆者 吉田勘兵衛(③勘兵衛良信)”. 広報のせ 平成30年4月号(ナンバー658). 能勢町. 2018年5月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月20日閲覧。
  6. ^ 斉藤 2017, pp. 39–41.
  7. ^ 斉藤 2017, p. 40.
  8. ^ 石野 1936, p. 88.
  9. ^ 斉藤 2017, p. 44.
  10. ^ a b 石野 1936, p. 88; 斉藤 2017, p. 44.
  11. ^ 斉藤 2017, pp. 44–45.
  12. ^ a b c 斉藤 2017, p. 45.
  13. ^ 石野 1936, pp. 229–235.
  14. ^ 斉藤 2017, p. 48.
  15. ^ a b 「贈従五位吉田勘兵衛翁事蹟」。
  16. ^ 斉藤 2017, p. 49.
  17. ^ 石野 1936, pp. 49–50; 斉藤 2017, pp. 47–49.
  18. ^ 石野 1936, p. 50; 斉藤 2017, pp. 49–50.
  19. ^ 石野 1936, p. 50; 斉藤 2017, p. 52.
  20. ^ 石野 1936, p. 50; 斉藤 2017, p. 54.
  21. ^ 斉藤 2017, pp. 54–55.
  22. ^ 石野 1936, p. 50.
  23. ^ 斉藤 2017, p. 55.
  24. ^ a b 斉藤 2017, pp. 47–48.
  25. ^ 寛文6年(1666年)3月付「子孫」宛「覚」による。
  26. ^ 斉藤 2017, pp. 58–59.
  27. ^ 斉藤 2017, p. 58.
  28. ^ 遠山景澄編 『京浜実業家名鑑』 京浜実業新報社、1907年、265頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779587/160 
  29. ^ 吉田真太郎”. 特定非営利活動法人 日本自動車殿堂. 2021年4月19日閲覧。
  30. ^ 佐々木烈. “初の国産自動車「吉田式」の製作者 元東京自動車製作所 所長 吉田 真太郎 (PDF)”. 特定非営利活動法人 日本自動車殿堂. 2021年4月19日閲覧。
  31. ^ 石野 1936, p. 87; 斉藤 2017, p. 58.
  32. ^ 石野 1936, pp. 75, 84–87; 斉藤 2017, p. 42.
  33. ^ a b 石野 1936, p. 87.
  34. ^ 石野 1936, pp. 67, 87.
  35. ^ 田尻佐編 『贈位諸賢伝 二』 国友社、1927年、667-668頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915586/359 田尻佐編『贈位諸賢伝 増補版 上』近藤出版社、1975年、「特旨贈位年表」53頁。
  36. ^ 石野 1936, p. 49; 斉藤 2017, pp. 28–29.
  37. ^ a b 石野 1936, p. 68; 斉藤 2017, pp. 48–49.
  38. ^ a b 石野 1936, pp. 71–72; 斉藤 2017, pp. 55–57.
  39. ^ 石野 1936, pp. 84–85.
  40. ^ a b 斉藤 2017, pp. 55, 57.

参考文献[編集]