吉岡雄二

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吉岡 雄二
富山GRNサンダーバーズ 監督 #81
吉岡雄二2012-09-29.jpg
愛媛コーチ時代
(2012年9月29日、マドンナスタジアム)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都足立区
生年月日 (1971-07-29) 1971年7月29日(46歳)
身長
体重
189 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手外野手
プロ入り 1989年 ドラフト3位
初出場 1993年10月2日
最終出場 2008年8月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

吉岡 雄二(よしおか ゆうじ、1971年7月29日 - )は、東京都足立区出身の元プロ野球選手内野手外野手)、プロ野球監督。現在は富山GRNサンダーバーズの監督。1995年から1997年までの登録名は「吉岡 佑弐」(読み同じ)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

東京都足立区立第十四中学校卒業後、帝京高校へ入学。高校時代はエース投手であった。1989年第61回選抜高等学校野球大会では同校は優勝候補の筆頭に挙げられたが、1回戦で報徳学園高校に敗退。その悔しさをバネに第71回全国高等学校野球選手権大会では優勝の立役者となった。全5試合に先発し、3完封。41回を投げて失点はわずか1だった。高校通算で51本塁打を放っており、打者として注目したプロ球団も多数あった。

同年のプロ野球ドラフト会議読売ジャイアンツから3位指名を受けて投手として入団。

巨人時代[編集]

ルーキーイヤーの1990年に右肩を手術し、リハビリに2年を費やした。1992年のシーズン終了後に内野手に転向。同時期に監督に就任した長嶋茂雄が期待を表明した。1994年イースタン・リーグで本塁打と打点の二冠王に輝く。1995年にチームが優勝戦線から脱落すると三塁手としてスタメンの機会を与えられ、短期間で満塁本塁打2本を含む4本塁打を放ち翌年のレギュラー候補となる[1]

1996年の開幕一軍入りを果たす。しかし、その年はジェフ・マントが開幕から三塁手でスタメン出場していたため、吉岡はベンチ入りしていながら落合博満の代走・守備固めのみでの出場機会であり、打席の機会がしばらくない状態が続いた。マントは開幕9試合でスタメンを外されたが、開幕10試合目からは長嶋一茂が一軍に昇格してきて9試合連続の三塁スタメンとなり、吉岡自身はやはり打席の機会がなく、シーズン初打席は開幕18試合目での代打であった。その後は仁志敏久の三塁コンバートにより、前年よりも出場を減らす結果となった。1997年1月に石井浩郎との交換トレード石毛博史とともに近鉄バファローズへ移籍。

近鉄時代[編集]

野手転向から近鉄移籍直後までの間は、控え選手として不規則な出場機会と自らの調子をあわせることがうまくいかなかったことについて、その後の現役時代に振り返っている[2]

移籍2年目の1998年一塁手のレギュラーに主に7番で定着し、規定打席に未到達ながら、前年までの通算7本塁打を上回る13本塁打を放つ。さらに、翌1999年は、プロ入り10年目にして初めて規定打席に到達し、チーム最多の12盗塁を記録した。

2000年、新たに監督に就任した梨田昌孝から「吉岡は2割7、8分、25本塁打は打てる男」とキャンプ中から期待され、オープン戦は.500近い打率と調子がよかったが、4月3日にブレイディー・ラジオから受けた死球で、骨折は免れたものの重傷の怪我をしてしまい、その後太ももも負傷、開幕から出遅れてしまった[3]。7月9日に5番だったクラークが骨折した後は7番から5番に昇格し、打率.290、自己最多となる18本塁打とクラークの穴埋めとして活躍した。

2001年は3月31日の西武戦、6月22日のダイエー戦、9月11日のロッテ戦で、同僚の中村紀洋と並ぶ年間3本の満塁本塁打(通算26人目で通算28度目)[4]を放った。なお、6月22日の対ダイエー戦では、二塁打を打てばサイクル安打達成という場面で満塁本塁打を放ち、第5打席でシングルヒットを打ったため、サイクル安打達成はならなかった。この年は、自己最高の26本塁打、85打点を記録し、6番打者として勝負強いバッティングでパ・リーグ優勝に貢献。リーグ優勝を決めた9月26日の対オリックス戦では、中盤にリードを許す痛恨の2失策を犯したものの、9回裏の先頭打者として大久保勝信から左前安打を放ち、北川博敏の劇的な逆転サヨナラ満塁本塁打を呼び込んだ。しかし、日本シリーズでは第3戦の7回表に安打を記録したのみの17打席で1安打と抑え込まれ、同シリーズで無安打に終わった5番の礒部公一とともに大きな誤算となった。

2002年も26本塁打を放ち全試合に出場。初めてオールスターゲームに選出された。2003年は5年連続で規定打席に到達し、自身初の打率3割をマーク。しかし、欠場試合数が多かったことやチャンスでの凡退が多く打点が60打点に留まったことを理由に、オフに減俸を受け入れている。

直球に強く、1998年から6年連続2桁本塁打を記録し、近鉄バファローズで通算116本塁打を放つ等、いてまえ打線の一員として活躍してきた。しかし、2004年は3月14日のオープン戦の対ヤクルト戦で、安打を放って一塁ベースを回った際にアキレス腱断裂の重傷を負い[5]、ほぼ丸1年を棒に振る。チームの本拠地最終戦である9月24日の対埼玉西武ライオンズ戦で代打で出場し、豊田清からライトフライを放ったのがこの年唯一の打席だった。11月、球団合併に伴う選手分配ドラフトで、自身の希望通りに新規参入球団である東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。

楽天時代[編集]

楽天の一員としてプレーするにあたり、報道陣からかつて仙台育英の全国制覇を阻んだことに触れられて、「今度は仙台を優勝させるために頑張りたい」と答えたという。2005年は、広角に打ち分けるバッティングスタイルから、2年ぶりに規定打席に到達して、チーム最高の打率.282、チーム最多の23二塁打を放ち、チーム2位の52打点を挙げ、チーム創設1年目の手薄な野手陣にあって、3番打者として活躍。一塁手としての守備も、リーグ3位の守備率.994と堅実かつ無難にこなした。

2006年は前半戦で33試合に出場したものの、故障したアキレス腱の調子と付き合いながらのためか、極度の打撃不振に陥り一軍登録を抹消された。二軍でバッティングフォームの改造に着手。ここでは、「バットを真っすぐに立て、グリップを低い位置で構えていた以前のフォームを一新し、バットを寝かせてグリップを高く構えるようにした」フォームで、一軍に再昇格。8月26日にタイムリーを含むマルチ安打を記録した。その後は復調の気配を見せたものの、またしても不振に陥り、再度一軍登録抹消。結局、0本塁打という不本意な成績に終わった。

2007年は開幕は二軍スタートもファームでは好成績を残し、7月3日付で一軍に登録され、7月11日、オリックス21回戦(フルキャストスタジアム宮城)で代打で出場し、プロ422人目の通算1000試合出場を達成した。2008年は、7月27日のオリックス戦で、同点で迎えた9回表に代打で出場し、菊地原毅から決勝の適時二塁打を放ったが、12試合の出場に留まり、シーズン終了後の10月に戦力外通告を受けた。現役続行を希望し、11月に12球団合同トライアウトを受けたものの獲得球団はなかった。

楽天退団後[編集]

その後は米球界に挑戦するため2009年2月に渡米するも契約がまとまらず、4月にメキシコ入り。メキシカンリーグ数球団のテストを受け、ヌエボラレド・オウルズ(テコロテ・ヌエボラレド)に入団[6]。同リーグで日本人野手の契約は初めて。メキシカンリーグでは打率.280、5本塁打37打点の成績を残した。2009年限りでヌエボラレドを退団。2010年はメキシコ国内の野球アカデミーで指導を行っていたが、12月に現役引退を表明した[7]

引退後[編集]

2011年1月、四国アイランドリーグplus愛媛マンダリンパイレーツの打撃コーチに就任[8]、3シーズン務めた。2013年11月、来シーズンの契約辞退を申し入れ、辞任した[9]

その後、12月4日ベースボール・チャレンジ・リーグ富山サンダーバーズの監督に就任することが発表された[10]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1993 巨人 10 33 30 1 8 0 0 0 8 2 0 0 0 1 2 0 0 7 1 .267 .303 .267 .570
1995 30 104 91 9 19 3 0 4 34 18 0 0 0 4 8 0 1 17 2 .209 .269 .374 .643
1996 29 41 38 3 5 0 0 1 8 4 1 0 0 1 2 0 0 16 1 .132 .171 .211 .381
1997 近鉄 22 33 27 8 7 1 0 2 14 4 2 0 1 0 3 0 2 9 0 .259 .375 .519 .894
1998 81 222 190 39 51 11 3 13 107 32 1 0 7 1 21 0 3 56 1 .268 .349 .563 .912
1999 131 486 420 56 116 28 1 13 185 57 12 6 9 1 50 3 6 86 9 .276 .361 .440 .801
2000 115 481 434 58 126 27 4 18 215 65 2 3 2 3 41 3 1 93 9 .290 .351 .495 .846
2001 127 538 456 76 121 22 1 26 223 85 2 0 9 4 66 4 2 114 6 .265 .357 .489 .847
2002 140 569 520 66 140 40 3 26 264 72 4 2 4 2 36 1 7 126 20 .269 .324 .508 .832
2003 126 479 433 63 130 25 1 18 211 60 3 5 2 2 39 3 3 91 10 .300 .361 .487 .848
2004 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
2005 楽天 116 427 387 46 109 23 0 10 162 52 0 0 0 6 30 2 4 67 23 .282 .335 .419 .753
2006 49 159 146 10 35 5 0 0 40 6 0 0 0 2 9 0 2 31 4 .240 .289 .274 .563
2007 23 47 44 5 11 3 0 0 14 5 1 0 0 0 3 0 0 8 3 .250 .298 .318 .616
2008 12 17 16 0 5 1 0 0 6 1 0 0 0 0 1 0 0 7 0 .313 .353 .375 .728
通算:15年 1012 3637 3233 440 883 189 13 131 1491 463 28 16 34 27 311 16 31 728 89 .273 .340 .461 .801
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 61 (1990年 - 1993年)
  • 10 (1994年 - 1996年)
  • 41 (1997年 - 2000年)
  • 3 (2001年 - 2008年)
  • 33 (2009年)
  • 81 (2011年 - )

登録名[編集]

  • 吉岡 雄二 (よしおか ゆうじ、1990年 - 1994年、1998年 - )
  • 吉岡 佑弐 (よしおか ゆうじ、1995年 - 1997年)

関連情報[編集]

出演[編集]

テレビ番組

脚注[編集]

  1. ^ 矢崎『元・巨人』172頁 - 177頁
  2. ^ 矢崎『元・巨人』186頁 - 189頁、200頁 - 207頁
  3. ^ 苦境をバネに成長。吉岡雄二はこの夏みごと成長した。”. 大阪近鉄公式サイト(インターネットアーカイブ). 2001年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月20日閲覧。
  4. ^ ベースボールマガジン社「2002 ベースボール・レコード・ブック」112頁 2001年度主要記録集『満塁弾3本が2人』より
  5. ^ ベースボールマガジン2005年冬季号130ページ
  6. ^ 元楽天・吉岡がメキシカンリーグ挑戦”. サンケイスポーツ (2009年4月25日). 2009年4月25日閲覧。
  7. ^ 元近鉄戦士・吉岡雄二氏が引退表明!”. リアルライブ (2010年12月28日). 2011年11月11日閲覧。
  8. ^ 新コーチ就任のお知らせ【チームからのお知らせ】”. 愛媛マンダリンパイレーツ (2011年1月14日). 2011年11月11日閲覧。
  9. ^ 愛媛MP 吉岡コーチ辞任のお知らせ”. 四国アイランドリーグplus (2013年11月1日). 2013年11月3日閲覧。
  10. ^ 吉岡 雄二監督就任内定のお知らせ”. 富山サンダーバーズ (2013年12月4日). 2013年12月6日閲覧。

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]