吉住小三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

吉住 小三郎(よしずみ こさぶろう)は、近世中期以来の長唄の唄方。6代目を数える。

初代[編集]

元禄12年(1699年) - 宝暦3年7月16日1753年9月13日))幼名を仙次郎。

摂津住吉生まれ。住吉神社の神官(伶人説もある)の家の出で、住吉を逆にして吉住と称したとされる。初名は仙次郎。6代目杵屋喜三郎の弟子説と、4代目中山小三郎の弟子説とがある。坂田兵四郎初代松島庄五郎らと活躍、唄浄瑠璃を得意とした。「娘道成寺」の初演で好評を得る。

2代目[編集]

寛政11年(1799年) - 嘉永7年2月11日1854年3月9日))

四ツ谷の芋屋の生まれ。五郎三郎といい、俗に芋五郎といわれた。3代目芳村伊三郎の弟子。初名芳村五郎治天保6年(1835年)ころ、吉住小八から3代目芳村伊十郎を襲名、後に花垣五郎三郎、弘化3年(1846年)に2代目小三郎を襲名。

3代目岡安喜三郎2代目冨士田音蔵と共に「天保の三名人」と称され、俗に「芋屋の小三郎」という。先代同様に唄浄瑠璃を得意とした。

3代目[編集]

(天保3年(1832年) - 明治22年(1889年12月25日

江戸の生まれ、2代目の弟子、前名吉住小太郎。万延元年(1860年)に3代目小三郎を襲名。

4代目[編集]

四世吉住小三郎

1876年12月15日 - 1972年2月27日

東京新宿生まれ。吉住勘四郎の子。幼名は長次郎。3代目の義弟で、養子となる。1889年12月に4代目を襲名。1890年に12代目杵屋六左衛門に属して歌舞伎座に出演、1893年5月に9代目市川團十郎の「勧進帳」を務めたが事情あって退座しその後演技座、明治座に出演、5代目市川新蔵5代目尾上菊五郎の舞台に出るも新蔵らの死去などで舞台の出演が減る。1902年3代目杵屋六四郎(後の2代目稀音家浄観)とともに長唄研精会を組織し、新曲を発表、歌舞伎の附属音楽であった長唄を、独立した演奏会用音楽にまで高めた。1929年東京音楽学校長唄科講師(1936年より本科になり教授)。1948年日本芸術院会員。1956年人間国宝1957年文化勲章受章、文化功労者1963年に子の小太郎に5代目を譲り、吉住慈恭と改名する。作曲に「鳥羽の恋塚」「醍醐の花見」「新平家物語」など、稀音家浄観との合作に「紀文大尽」「神田祭」「都風流」がある。著書に『芸の心』(毎日新聞社1971年)。

その唄はCD12枚組の「四世 吉住小三郎全集」(コロムビアミュージックエンタテインメント、2007年)などで聴くことができる。

墓所は港区西福寺。

5代目[編集]

1908年1月28日 - 1983年1月16日

4代目の長男、東京の生まれ。本名・吉住秀雄。1924年2代目吉住小太郎、9月の長唄研精会が初舞台、東京音楽学校の後進の指導など長唄の普及に力を注いだ。1963年6月に5代目を襲名。

6代目[編集]

1931年11月6日 - 2006年6月18日

5代目の長男、東京の生まれ。本名・吉住隆雄、1954年東京芸術大学邦楽科卒業後、1956年東京芸術大学研究科修了。1955年に4代目(祖父)に学び小三治郎、9月の長唄研精会が初舞台。1957年に小三治郎を名乗り同年長唄研精会で初舞台。1977年に「長唄十人会」を結成。父没の1983年1月に6代目小三郎を襲名。1984年に長唄協会常任理事就任。がん性胸膜炎で死去。

作曲に「平賀源内」など

7代目[編集]

2008年、6代目の長男の吉住小三次朗が7代目を襲名し家元を継承。

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 『翁草』 四代目吉住小三郎 吉住小太郎 凸版印刷株式会社 非売品 (1963年)