司法官赤化事件
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司法官赤化事件(しほうかんせっかじけん)は1932年(昭和7年)から翌1933年(昭和8年)にかけて、裁判所の判事・書記などが共産主義活動に関与した疑いにより逮捕された事件。
概要[編集]
1932年(昭和7年)11月12日、東京地方裁判所の判事・尾崎陞[1]が日本共産党員であるとして、治安維持法違反により同地裁の書記4人とともに逮捕された。翌1933年(昭和8年)2月から3月にかけては長崎地方裁判所の判事と雇員各1人、札幌地方裁判所の判事1人、山形地方裁判所鶴岡支部の判事と書記各1人も相次いで逮捕された。
逮捕された9人の容疑内容はいずれも「研究会を開いた」「カンパに応じた」「連絡を取り合った」などの行為だったが、日本共産党の目的遂行のためにおこなった行為とみなされ、全員が有罪判決を受けた。
この事件をきっかけに蓑田胸喜ら原理日本社の右翼活動家や一部政治家は、司法官「赤化」の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張するようになった。このうち司法試験委員であった京都帝国大学法学部教授・瀧川幸辰への非難が強まったことで、翌1933年の滝川事件の発端ともなった。
脚注[編集]
- ^ 戦後、自由法曹団幹事長・日弁連人権擁護委員長となり免田事件弁護団長などで活動。コトバンク「尾崎陞」参照(2014年12月20日閲覧)。
外部リンク[編集]
- しんぶん赤旗「戦前の「司法官赤化事件」とは?」(2014年12月20日閲覧)
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